08-少女

 はじめは、悪い幻覚だと思った。

 狼に食いちぎられた左腕の痛みと、傷口から入った雑菌による高熱に耐えていたところで、まともな思考力も残っていない。血の臭いをたどってくる肉食獣を警戒するだけで精一杯だった俺は、侵入者の気配に気づいて、反射的に残った右手でナイフを構えた。洞窟の湿った岩壁を背に上半身を起こした状態のまま、立ち上がる体力すらないというのに。

 だが、弱いたき火の炎に照らされて浮かび上がったのは、狼でも熊でもなかった。真っ赤に目を泣きはらした、小さな女の子がそこにいたのだ。青い瞳が、俺の姿をとらえて見開かれる。驚きと恐怖で、小さな身体はすくんでしまっているようだ。

 俺は、平衡感覚を失いかけた頭を振って、ナイフを握ったまま手の甲で両目をこすってみた。熱に潤んだ視界は晴れたが、少女の姿は消えてくれない。汚れて破けたワンピースの青色が目に沁みる。

 悪い幻覚よりも最悪な、本物の少女だった。

 反射的に、全身が総毛立つ。人間を避けてこの森に潜って、もう何十年が過ぎただろう。化け物として迫害されるのに疲れて、冬の寒さや獣の牙に身を晒すことを選んでから、一度も人の姿を目にしていなかった。俺にとって、いや、この森の生き物すべてにとって、人間は、恐怖すべき対象そのものなのだ。たとえ、小さな女の子だとしても。

 増して、こんなに小さな子がこんな山深くにひとりで来られるはずがない。少女をここまで連れてきた力があるはずだ。肉食獣を払う力を持った武器と、それを使う大人が、きっと近くにいる。

 このままでは殺される。とっさに追い払うためのうなり声をあげようとして、俺は喉まで出かかった声を飲み込んだ。動物のように脅かして追い払っても、武器を持った大人を呼ぶだけだ。少女を保護者の元に帰し、しかも俺のことを伝えさせないようにするには、言葉を使うしかない。構えたナイフを腹の上に置いて、錆びついた言語の記憶を呼び覚ます。どの国の言葉を使えばいいのかもわからない。

「言葉、わかるか?」

 ラテン語でそっと呼びかけてみる。声を発したことに驚いたらしく、少女はびくりと身を震わせた。だが、丸く見開いたままの目は俺をとらえたまま、言葉を返す気配はない。

「言葉、わかるか?」

「言葉、わかるか?」

「言葉、わかるか?」

 フランス語、ロシア語。思いつくままに言葉を紡ぐ。ようやく思い出してドイツ語を追加したところで、少女の唇が震えた。

「た……、助けて……私、捨てられたの……!」

 やっぱりドイツ語か。少女の目からあふれ出した涙が、青いワンピースの胸に小さなしみを作る。やっと意志の疎通が図れたことに安堵する一方、俺は、とんでもないやっかいごとを背負い込んでしまいそうな予感に身震いした。

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