タカヤ ~死に続ける男~

栗印 緑

01-十字架に

 また鳩尾あたりが痙攣した。が、吐き出すものはもう胃液すら残ってはいない。うなだれた首を微かに上げると、狂気に取り憑かれた友はカンバスに向かって恐ろしい速さで絵筆を動かしていた。

「……水を」

 無駄な願いと知りながら、口走らずにはいられない、掠れた懇願。友は狂った瞳でタカヤを見、笑いともため息ともつかない吐息を鼻から漏らした。

「馬鹿者が。処刑中に給水するキリストがあるか。お前は黙って神のことでも考えてろ。永遠にお前を受け入れてくれない神のことでもな」

 早口でまくし立て、絵筆が加速する。アトリエに射し込む西日は十字架に張りつけられたタカヤの全身を容赦なく焼き、汗すらでない出血多量の肉体は発病した天然痘患者のような高熱に見舞われていた。前屈みにくずおれようとする身体を、打ちつけられた両腕が激痛とともに拒む。腕が伸びきると、引き絞られた筋肉と表皮が喉と肺を締めつけた。息をするためには、杭に打ち付けられた両足の傷口に全体重を任せて伸び上がらなければならない。足の肉が潰れ、縦に裂ける痛みに絶叫を上げる気力すら使い果たして、代わりに空の胃袋が再び裏返った。茨の冠が傷つけた額の血で、霞んだ世界は赤黒く濁っている。

「タカヤ、見るか? このまま一気に完成まで持っていけそうだ」

 そう言って向けられたカンバスに、最後の力を振り絞って目を凝らす。西日と血液で真っ赤に焼けただれた視界の中で、カンバスの中のタカヤはタカヤではなかった。苦悶と絶望を肉体で表す、今までに見たこともないキリスト像がそこにはあった。画家である友リヒャルトと、なによりタカヤが望んだ、最高の出来映えだった。神への恨みと諦めを濃密に含んだ、背徳のキリスト像。

「お偉い連中に見せたら八つ裂きものの出来、だろ?」

 当たり前だよ、こんなリアルなモデルを目の前に、中途半端なものができるわけないだろ。タカヤの言葉は言葉にはならず、代わりに力つきた首ががくりと垂れた。呼吸が止まったことに二人とも気づかない。痛みや暑さを次第に感じられなくなる暗闇の中で、タカヤはこの男のために一度死ぬことを後悔していない自分に気がついた。絶対の才能に捧げるには安い死だ、そう言い聞かせて、タカヤの意識は染み込んでくる冷たい恐怖に溶けていった。

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