第10話

 俺はまるで壊れたパソコンのように、脳がフリーズしていた。

 頭が回ってくれない。一体何が起きたんだ? と反応したのはもう数秒後のことだ。

 いや、別に何が起きたのかを理解していないわけではない。俺の妹――和音がただいま目を覚めたのはちゃんと目で確かめていたのだ。

 ただ、俺の思考回路しこうかいろはこの急な出来事についていけなかった。

「確か、俺は……」

 過熱になりそうなおでこを叩きながら、さっきまでのことを振り返る。

 確か俺はいつも通りに椅子に座っていて和音の寝顔を見ていた。そうしたらその寝顔がなぜか妙におとぎ話に出る姫様のように見えて、眠り姫とのイメージが被ってしまった。思わず王子様のように和音にキスしようとしたら、急に吹いてくる風が邪魔して気がつくと和音はいつの間にか起きてしまって、目をバチバチさせていた。

 一応ここまでの経緯いきさつを把握できている。

 しかし未だに信じられない。

 和音が植物人間であるのを知った日から、俺はいろいろな資料をあさっていた。論文のような文字だらけの資料で分かったのは、植物状態が一年以上続くと回復の可能性はゼロに近い、十年も続けばある意味ではもう死んでいるということだ。

 だから、十年間も眠り続けた和音がいきなり目を覚めたなんて到底考えられない。

 俺は夢でも見ているのだろうか。

「そっか。これは夢か」

 自分の頬にビンタをした。

 パチンッと響いた音からすれば、かなりひどい一撃だった。

 頬は麻痺まひしたので感覚がしばらくなくなった。痛みが走ったのはもう数秒後のことだ。

 ……どうやら夢ではなさそうだ。

 だとしたら――。

「っ!」

 びっくりと腰を後ろに反ってしまった。

 回想に気を取られて我に返ったら、和音はいつの間にか起き上がっていた。

 そして、無表情のまま右手を伸ばしてくる。その手が俺の頬に軽く触れた途端、和音はびっくりしたように手を引っ込めた。

 その手を和音はしばらく凝視ぎょうし していた。何秒くらい経つと、また俺に視線を向けた。

「……」

 俺は何も言わずにいると和音は再び右手を伸ばしてきて、同じところに手を置いた。

 まるで猫を撫でるような強さ。軽くて優しい。

 片手では物足りないようで、和音は左手まで伸ばしてきた。今度はちょうどビンタされたばかりの方に触ったので、頬に電気みたいな痛みが走ってしまった。

 すると、和音は急に俺の頬をつねった。

 引っ張って伸ばしたり縮めたりして、何度も繰り返していた。

 とても痛いけれど、俺は何もできずただ黙っていた。和音に目を凝らすしかできなかった。

 分からない。

 分からないのだ。

 目前めさき の出来事といい、おかしくなっていくテンションといい、心の中でどんどん高まっていくこの気持ちといい。

 頭のフリーズ状態が解けた後、ある強烈な感情が湧いてきた。それに気づいたらすべてはもうめちゃくちゃになっていた。

 この乱された気持ちを、俺には理解できない。抑えようとしても抑えきれない。だから、抗うのをやめてこのまま情に流されても別にいいだろうと思った。

 この思いに答えたい。

 この気持ちに従いたい。

 思うままに左手を動かし出して、慎重しんちょうに和音の右手に重ね、二人の手が一つになった。

 想像以上小さくて柔らかいその手から、温もりが移ってくる。

 手のひらを通して、腕を通して、ぽかぽかと心にみってくる。

 とても懐かしい感触だ。

 捨てられる前に、俺はずっとこの感触を独り占めしていた。それは当たり前のことだと思っていて、失うなんて思いもしなかった。

 なのに、俺は捨て子になった。もう二度とその温かい手に触れ合えなくなった。

 なんだか泣けてきた。

 その感触といい、その顔立ちといい、もともと母の面影おもかげを受け継いだ和音が、今日はなぜか同一人物に見えるのだ。

 あまりにも似すぎている。

 母との思い出までをよみがえらせた。

「……ウにゃ」

 その声にはっと我に返った。

 和音は無表情のまま俺の目を見つめていた。

 そして、俺に覆わなかった左手を俺の目尻に近づき、溜まっていた涙を拭いてくれた。

「……なんで?」

 思わず素朴な疑問を口にした。

 何に対する疑問だったのか、もう分からない。

 なんでいきなり目を覚めたのか?

 なんで母の面影を思い出してしまったのか?

 なんで俺が捨て子にならなければならなかったのか?

 なんで和音が涙を拭いてくれたのか?

 考える力ですらなかった。

「……やッ、ヤンテ」

「……」

 何かを言おうとして、和音は喃語なんごのような声を出した。

「やッ、や、アーアー、エッエッ」

 必死に言い直しても解読できない内容だった。それでも、和音は諦めずに何かを伝えるように、何度も言い直していた。最後には、もう声にできなかった。

 自分に言葉できないのに気付いたようで、和音は口を閉じていた。

 すでにパニック状態におちいっていた俺は、何もできずにいると、和音をじっと見るしかなかった。そして、俺の涙目に映ったのはもう一つの泣き顔だった。


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