第4話

 遠くで、足音が聞こえる。

 温度を感じさせない、冷ややかな床に耳を当てていたから、それがすぐに分かった。

 思考空間がすべて緩慢な霧で包まれている、と言ったらいいのか。

 それらが自分にとって大切なことであるのは意識できても、その先を考えることが億劫で億劫で仕方がない。

 もし気力を衰微させられている人間がいるなら、きっと今のような状態だろう。

「……ぼくは」

 なにをすればいいのだろう。別に、なにもしなくていいような気がする。

 自然とそう思えるぐらいには、価値基準を無くしていた。

 遠くの足音が、たくさん聞こえ始める。

 なんだっけ。ええと、ああ、そうか。

 誰かが列を成してこちらへと近づいてきているのか。

 足音のリズムが気持ちいい。もう数年は音楽らしいものを聞いたことがないけど、これなら少しぐらいは代用品になりそうだ。

 ちゃかちゃか、かちかち、かちかち、かつかつかつ。

 残念ながら拍手も笑ってやることもできない。僕のうちにぽっかりと開いた、黒と呼ぶにはあまりにも生易しい色の大穴が、なんでもかんでも食い尽くしてしまうから。

 僕はもう、壊れてしまったのか。

 身体はまだ動けるはずなのに、手も足も出やしない。

 死ぬ寸前の人間が、もう食べたいとか、飲みたいとか、そういうのを超越して、ただ身を任せているだけなのを見たことがある。

 そうしたいとも感じていないから、案外近いのだろうか。

 リズムがさらに大きくなった。

 たぶん、あと一〇分もしたら僕は一切が無になる場所へ行ける。

 そこでなら、これをずっと続けることができる。本当は続けたいとか、続けたくないとか、そんなことすら圧倒的に虚無へ抑え込まれるこれを――抑え……抑え込まれている?

 全部を吸い取られているのか。こいつに。

 なぜだろう。今までは穏やかな死しか僕の身体にはなかったのに。

 不思議と、嫌悪感を覚えている。

 声にならない”声”が響いた。

『まだ、いるよ』

 ――気のせいだ。これはただの幻聴だ。

『ここに、いるんだよ』

 ……なら言ってみろ。お前はなんだ。

『わたしはキミたちのひとつ。キミたちの中にいて、キミたちに囁いて、どうか気付いてほしいと望んでいる。ねぇ、どこかでは腑に落ちてるんでしょう?』

 少なくとも、お前が面倒くさいものだとは理解してる。

『わたしがきらいなんだね』

 そうだ。お前がきらいだ。

『どうして?』

 ……あるかないかも分からない分際で、何度でも僕に要求し続けるから。

 そのくせ無力で、手を貸してくれないのに、態度だけデカくて。

 無視をすることもできないし、殺してやろうと思えば、こちらが痛い。

『そうかもしれない、ね』

 なによりも……なによりも、みじめだ。お前みたいな……虚構に縋り付いて、頭がおかしくならないようにしている僕たちが、あんまりにもみじめだ。

『違う。みじめなんかじゃない』

 みじめだよ。お前なんかが生まれてこなければ、みんな苦しまずに済んだのに。

『だけどそれは人間じゃないよ』

 お前は、お前自身がどんな人間の胸のうちにも輝いていることが、人間の証だと言いたいのか。

『キミもそう思ってるんじゃないの』

 殺そうとした相手に共感を求めるんだな。

『わたしはあなたの一部で、あなたがいちばん抑圧しているものなんだから』

 ……僕は心底から、お前にいてほしくないって思ってるんだ。

『でも、気付いてるんでしょう?』

 黙れ。

『獣がどうして生まれたのか。かれらの本質は何なのか』

 黙ってくれ。

『あれは人間のなれの果て。わたしを追放した人たちが、最後にたどり着いたところ』

 ……お前は、自分が美しいものだと主張したいわけだ。

『自分をきれいだ、なんて思ったことはないよ。でも、キミたちがそう感じてくれていたから、わたしはずっとキミたちと寄り添ってこれた』

 ……どうだかな。否定はしないよ。

『……苦しいんだよね』

 見れば分かるだろう。

『ごめんね』

 ……お前は重荷なんだ。

『わたしは、あなたたちのココロでしか生きてゆけないから』

 ああ、そうだろうさ。

『……』

 本当に。こんな世界で。

 お前を……生かしておくためにはどうしたらいいのか。

『……東へ』

 東?

『理想郷へ』

 たどり着くことのない場所で、干からびていけと?

『干からびていくんじゃない。歩いていくんだ。キミと、キミらがみんなで』

 馬鹿げてる。僕は一度その嘘を呑み込んで、崩れ落ちた。

 同じことを繰り返せって言うのか。

『……キミにはとても酷なことなのは分かってる。けど、キミたちが人間のままで、人間として進んでいける道は、他にはないんだと思う』

 ……畜生。

『許してもらえることじゃないのは分かってる……いくらだってわたしを怨んでもいい』

 ……だが、殺すな、か。

『うん』

 ……僕には確固とした意志も、それを成すための才気も、なにもない。

 未だにお前が大嫌いだし、脳味噌にある地獄の深い穴から、お前を殺せと甘くてやさしい声がずっと響いてきてる。

 だけど、僕は、結局のところあんな獣どもは認められないんだ。自分の全てを破壊と下劣に譲り渡したような、あんなバケモノどもに傷付けられて、壊されて、犯された想い出たちを、ただ忘れていくことなんかできない。

『……うん』

 ……分かったよ。分かるしかないだろう。

 ココロ、お前が理想郷を求めるなら、ずっと東の果てまで行ってやろう。

 そこでなにも見つけることはできないけど。

 道半ばで倒れて、またどうしようもない何者かに成り果てるだけなのだとしても。

 僕はそこへ歩いていく必要があるんなら、そうしてやる。

『……ありがとう』

 生易しい声なんてかけるな。お前が大嫌いだ。

『それでも、殺さないでいてくれて、感謝してる』

 ……もうどっか行っちまえ。

『……さようなら』

 それっきり、もう彼女の声は聞こえなくなった。

 だが、それでいいのだろう。

 哀しいような、さびしいような気持ちなど、今の僕には勿体ないものだろうから。

 ――身体中に、未来を見据えるためのなけなしの力が戻ってくる。

 現実は変わらないが、それでも行動を起こせるだけの気力が帰ってくる。

 ある人からすれば、これは狂気というやつに違いない。

 幻覚と幻聴、妄想を内面化した男が、ジタバタと大暴れしたあげくに、自分のイカれ具合をようやく理解した――そういう、本当にくだらない話。

 ああ、そうかもな。そうなんだろうさ。

「……まだ、立ち上がれるな」

 足音はもう近すぎる。逃げるにしても命懸けになるだろう。だが例えそうだとしても決めたことがあり、護らなくてはいけない可能性があった。

 もしそんなもので、人間らしいということをこの世界に根付かせられるなら。

 僕は、いくらでも戦い続けられる気がした。

 ――バットを右手で握る。

 背中の圧迫感はもうほとんどない。不安とかすかな澱みが腹に溜まるが、それは行く手をさえぎれるほどのものじゃなかった。

 ――膝を折り曲げて、爪先が立つ。

 連中の声すらも聞こえてきた。距離が危険なくらいに狭まっている。

 ――左手を床に押し当てて、力を込めた。

 そして一気に立ち上がると同時に、廊下の端に現れた七匹もの獣を視界に映した。

「イタ!! イタァアアアアア!!」

「来いよ、怪物ども……追いかけてこい!」

 バットを肩に乗せて、すぐさま反転する。

 前のめりになって階段を転げ落ちそうになりながら一段飛ばしで階下へ。

 博物館の一階へ降り立つと、背後からの騒がしい足音に身体が竦みそうになった。

「ハハッ、生きるってこういうことだな」

 乾いた笑いなのは自覚している。それでも笑えないよりはマシだ。

 一階。植物展示フロア手前の通路を駆け抜ける。

 その先にある標識には絶滅生物の化石展示フロアという記載ともうひとつ、非常口のピクトグラムが併記されていた。

 ――逃げられる。

 化石展示フロアへと飛び込む。曲がりくねった展示通路を走りながら、先へ先へと進んでいくにつれて、馬の蹄が床を叩くような音が、背後ばかりか、前方でも盛んに起こり始めているのに気が付く。

「……クソッ、先回りか」

 考えてみれば当然のことだ。あいつらがこの博物館を根城にしていたのであれば、間違いなく館内構造に関しては知悉していると見て間違いない。そして元人間である”獣”は無様な人間相手に追い込み猟をやるぐらいの知性は有しているのだ。

 焦りながらバットを構え直して、周囲に警戒の視線を送っていると、通路の一角にあった大型展示テーブルの下に空いた、人間がぎりぎり入れるほどの空間が目に入る。

 あそこなら、どうだ?

「(もう時間がない。イチかバチか、やってみるか)」

 恐れがないと言えば嘘になる。それでも立ち上がった自分にアホの勲章を飾り付けてやるほど臆病にも愚かにもなりたくなかった。

 ボロ布を鼻に巻く。周囲で激しくなっていく獣声と物音に背中を押されるように埃をかぶった隙間へ入り込んだ。

 心臓が高鳴る。アドレナリンがじわりじわりと僕の鼓動を締め付ける。

 果たして、奴らは間を置かずに群れをなしてやってきた。

「……イル! イタ! オレハミタ!」

「オマエノメ、コワレテル。ウヒヒ。コワレテル」

 こちらへ来たのは二匹。

 連中の平べったく、傷だらけで、汚れきった青白い足が伸びてくる。足先は黒と褐色が混ざり合った色合いをしており、足裏にもそれが薄く敷延しているのが分かった。明らかな硬質感がある。おそらく奴らの足音がガチャガチャと音を鳴らすのはこれが原因なのだろう。

 たしかに元が人間であった名残は、ある。けれどもそれは、やはり名残でしかない。

 コイツらはもう僕とは違う種族なのだと、寒々しい確信がやってきた。

「イナイ! ナンデイナイ!」

 すぐ近くまで来た二匹の片方が、展示物に対して当たり散らす。

 ガラス片が飛散し、ひゅっと目の前をかすめて横を飛んでいった。

 唾を呑み込む。

「オマエ、ミマチガイ。コワレテル、コワレテル」

「チガウ! コワレテナイ!」

「デキソコナイ。ナンニモデキナイ。ゥヒッ、ウヒヒヒ」

 奥歯が知らず知らずのうちに噛み合う。おぞましさが煮詰まった声だ。

 嘲笑われたほうは小さく不穏に唸りをあげると、踵を返してその場を去っていこうとする。

 そのときだった。

 片方が口角に形容しがたいほどの残忍さを浮かべた。去ろうとしたほうの背中へ近寄ったそいつは、片手を持ち上げるとしなるような勢いで頚部を薙ぎ払う。

 あまりにもさりげなく行われたその行為に僕が驚きを露わにする間もなく、獣の首がぐにゃりと一瞬曲がって通路の壁へと激突する。避けることもできなかった獣は、一度どたんと尻をつくと、奇妙にねじ曲がった頚部を支えるようにして倒れ込んだ。

「グヒッ、グヒヒヒ」

 吹き飛ばされた獣が、細い穴を通り抜けていく風のような喘鳴を漏らし、ぴくぴくと蠢く両手を自身の顔に巻き付けていく。

「(……胸糞悪い)」

 理解ができない、なんてことは言えない。人間もお互いを迫害し、破壊し、殺し合う。

 現に僕はココロの上に馬乗りになって、彼女の首を絞め上げた。

 今は考えることではないと追いやっていても、まるで精巧な悪夢を何度も何度も見続けるかのごとく、いずれは棘になるだろう。ただの頭の中の存在を相手にしていたのだとしても、僕はたしかに身体感覚として悦びを体験したのだから。

 コイツらが善い部分を放り捨てた元人間であるとするなら、眼前の光景は何の不思議も面白みもない、ただの当たり前だ。僕はそう自分を納得させる。そして獣が、獣にどんな暴力を働こうが知ったことじゃない。

 ……本当に? 

 ならこの頭の後ろがちりちりとするのは何だ。

 なぜ、僕は、アイツを、アイツに成された行為を……正さなくてはならないと……。

 気が付くと、あらたに数匹ほどの新顔が集まってきていた。

 そいつらは思い思いに弱り切った獣に近寄っていき、殴ったり、蹴ったり、爪で引っ掻いたり、あるいは身体を掴んで床に叩き付けたりする。

「ヨワイ! ヨワイ! シネ! シンデイイヤツ!」

「ウソヲツイタ! マケイヌ! コロス!」

「ナイテルナイテル! ナイテルヤツハナグッテイイ!!」

 泣いている?

 まさかとは思った。だがそれは事実だった。中心で苛烈な暴力の波に襲われている、瀕死の獣は、口から泡を吹き出しながら白目になって、滴のようなものを垂れ流していた。

 それは涙と形容するには、あまりにも非人間的で、残酷で、醜悪だ。

 僕らは感情で泣くだろう。けれどアイツらのは生理的反応に過ぎない。ほかにどんなリベン的解釈がある?

 そう思った直後のことだった。

 獣の身体が思い切り蹴飛ばされた余波で横倒しになり、こちらのほうへと視線が向けられた。

 その拍子に意識が戻ったのか、眼球がぎょろりと動いて、意思を成す。

 僕と、目が合う。

「ア」

 瞳孔が肥大化するのが見える。

 背中に焼きごてを押しつけられたらこうなるかのような、怖気。

「イッ――――」

 奴が叫ぼうとしたその瞬間だった。

 そいつの頭がふっと僕の視界から消える。

 いや、違う。蹴り飛ばされたのだ。

 そいつは他の展示物テーブルに頭部をぶつけられて、トイレのパイプ管が詰まり出したような、汚らしい悲鳴をあげる。

 さらには腕を掴まれて、まるでおもちゃを扱うみたくねじり上げられる。獣はあらゆるところから哀れっぽい声を吐き出そうとしたが、それは獣たちの嗤笑を増すばかりで、遂には常軌を逸した腕力により、腕がそのままねじ切られて宙へ飛んだ。

 どす黒い血液が周辺を覆い尽くす。

 僕の目の前にも、ぴしゃりと落ちてきた。

「ビ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!!」

 なぜだ。

 なぜ、僕は涙を流している。

 どうして、あいつも涙を流している。

 唇は血の味がして、苦い。手足は小刻みに揺れて、頬は焼けるようだ。

 アイツは獣だ。僕らの敵だ。いくら何をしてもそこは変わらない。

 人の情は、人の情でしかないんだ。それは僕たちにとってのかけがえのなさであって、アイツらにとっては何の意味も成さない。僕らの勝手な共感も、同情も、あるいは慈悲も、連中にとっては弱さの表れとしか映らない。

 邪悪は邪悪のまま、殺されたやつは殺されたまま。

 変わらないことと、意味のないことだけは、厳然としたルールがある。

 ……でも、だからじゃないか。

 それだから僕らは……なにかを示さなくてはいけないんじゃないか。

 そうしたルールにくそくらえって蹴りをかますような。

 僕はずっと、”そういう生き方がしたかった”んじゃないのか。

 人間ってものが本当に、ただの部分でしかない事実に抗うための、未来がない、それでいて意味がある行為を成すことを。

 なにもしなければ生き延びられるだろう。

 そして東へと歩いていって、もしかしたら本当に”理想郷”を見つけられるかもしれない。

 アイツとの約束を護れるかもしれない。

 だけど……だけど僕は……バットを握った。

 だれを助けるわけでもなく、無意味な結果を喜ぶわけでもなく。

 ただ、僕自身の”過程”を救い出すために、今やらなくてはならないことがある。

 それは所詮自己満足であり、生存という種にとっての本質から見ればあまりにも浅はかな痴愚だ。僕の理性はそのことを理解できている、考え直せと怒声を浴びせている。

 ああ、考えた。そして決断を下した。

 ここで自分のどうしようもなく愚かな気持ちに嘘を付くくらいなら、死んだほうがいい。

 ――人間の”正義”ってものを叩き込んでやる。

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