音声記録1-4:『人間がその一生のうちで……』

 人間がその一生のうちで目にしうる最高のものを、私は数多く見たと思う――七色に靄がかる、高密度の星塵トンネルをくぐり抜けたり、船外殻が溶けかけるほど、燃えさかる恒星に限界まで近づいたり。

 星表層で、地獄の鞭さながらのたうちまわるプロミネンスの盛衰、百億のプリズム破片を撒き散らしつつ、太陽を掠めて奔る彗星の旅の軌跡。惑星たち――怪物じみた積乱雲を次々産んでは吹き散らす、全球が海の青い星。かつて星界へ進出するほどの技術力を持ちながら、戦争で母星を半分砕いた悲しい古代文明の星……。

 だが、なにがもっとも印象的だったか尋ねられたら、答えには窮しない。それは、あのブラックホールだ。宇宙のすべての光熱が、最期に行き着く終着地。私たちのクルーズの航路終盤に組み込まれた宇宙の絶景であり、それこそが、あまたある冒険客船においてあの船を特別たらしめていた最大の人気のまとだった。

 天体のはるか彼方から望遠鏡で覗き見るしかない他の客船と違い、私たちの船では、船載機に乗り換え、本当に手が届きそうに思えるくらいの距離まで、それに近づくことができた。クルーズ会社が莫大な費用をかけて無数の観測機器を展開し、天体の状態や、影響を与えそうな飛来物の存在、動向、周辺環境を常にモニターしていたからだ。その情報で、母船はリアルタイムで変化する接近可能航路を緻密に算出できた。そして客は完璧な安全を感じながら、宇宙でもっとも暗い穴の見物を楽しく堪能できた。

 4年前、少女はそうしてブラックホールに最接近したとき、船載機に備えつけの緊急脱出ポッドを射出して、自らホールの墜落ルートに捕まっていったという。当然、資産家の両親は船会社を相手取って大訴訟を開始した。だがしばらくしてそれなりの額の示談に切り替えたのは、少女の自殺を理由付ける何かが出てきたのだろうと思われた。

 世間は騒いだが、結局彼女の死の理由は明らかにされなかった。やがて別の大事件が起きてメディアの矛先もそれると、遺族も含め、誰もが事件を悲劇的な、けれど不運な事故として区切りをつけようとしはじめた。

 それから休止していた船の運行も再開され、半年ほど経った頃だろうか。ツアー中に、少女の姿を目撃する乗組員が出始めたんだという。

 私と同じように、客を連れて行った観光先で遭遇するもの。就寝時間中の、薄暗い船廊ですれ違うもの。賑やかなパーティー会場の人混みや、エンターテインメント・ショーのカーテン袖に佇む姿を見かけるもの。航行中、舷窓の向こう側から覗きこむ顔と目を合わせるもの……。

 場所も時刻もさまざまだったが、彼女がいつも何をするでもなく現れて、何もしないまま消えていくのは同じだった。船員の中にはブラックホールのツアーをやめるべきだとか、他のホールにすべきだという意見もあったが、見学に適した安定な天体を新たに探しだし、安全を保障するには巨額の資金と時間がかかる。その話が流れ、どうやら幽霊も現れるだけで何もしないとわかってくると、この異様な状況にも乗員たちは次第に慣れていった。ただ新しいスタッフが船に加わると、時々彼女は自分を思い出させるように姿を見せるということだった。

 おかしいと思われるかもしれないが、そうした話を聞き集めるうち、私はだんだん恐怖よりも同情を感じるようになった。なぜなら、私にもかすかに覚えがあったからだ――どこか遠い場所、人と社会のわずらいの存在しない、孤独な安らぎへの憧れに。常に新天地を目指そうとする私の性癖は、単純な冒険心だけでなく、幼い頃から家族や友人のあいだにさえ、今ひとつ深い絆を作り得なかった私の寂寥を慰めるためという側面があった。

 大地の果て、大気圏の果て、星々の世界の果て――いつも心のどこかで、私は誰もいない“果て”を求めていた。彼女もそうだったのだろうか? 私はどうしても知りたくなったんだ。二十歳前の若い娘が――もはや無知な子供ではなく、まだ責任ある大人でもない、人生で一番楽しい盛りにあるはずの少女が、なぜよりにもよってあのブラックホールに呑まれる道を選んだのか。

 誰もが知っているだろう。そこは宇宙でもっとも暗く、もっとも遠い場所だ。たとえ銀河の端だとしてもあの穴底に比べればはるかに近い。そこは空間の終わりであり、時間の終わりでもある。一度吸い込まれてしまえば、自身を構成していた分子も原子も、どころか光の一粒一粒にいたるまで決して回帰しえない無限の追放を迎えることになる。どうして、なぜ……、どれほどの絶望が、この宇宙でもっとも容赦のない存在の否定を求めたのだろう……。

 それからというもの、私は暇さえあれば古参の乗員を尋ね回り、少女について聞いて歩いた。まったく馬鹿げた妄想だと笑って取り合わないものもいたし、逆に本気で怯えてしまい話題にするのも嫌がるものもいた。けれどやがて私のやっていることが船長の耳にも届いたらしい。ある日私は船長室に呼び出され、厳重な注意を受けた。

「教えてほしい。君は自らの行為が周囲に及ぼす影響を理解して、行動しているのかね」

 船長の憂慮はもっともだった。オーナー会社も船員も、客の死という一番起きてはならない事故から立ち直るため、多大な努力と忍耐を要したに違いないのだから。ここでまた幽霊の噂が広がれば、次こそクルーズ自体の廃止にもなりかねない。彼は言った。

「君は航宙士だ。私と同じで、生身の目で見る世界よりも、観測機が捉え、レーダーに示された数値に信を置く人間のはずだ。単なる集団パニックをこれ以上広めることに何か意味があるのかどうか、もう一度考えてみてくれ」

 それに船長は中央星域の人間には珍しく、古風な考えも持てる人だった。

「一歩譲って、人に魂と呼ばれるなんらかの形相があるとして」と、彼は微笑んで言ったよ。「光すら脱出できないブラックホールから、どうやって幽霊が船に戻るのか? 周回軌道観測機の分析では、彼女の乗ったポッドが穴に落ちたのは確実なのだから」

 言われてみればそうかもしれない――そう、皆は納得したようだった。私は罰として、自分の口から乗員たちに船長の言葉を伝えるよう指示されていたんだ。

 そうだな……、もし、あの叱責が船長室以外で行われていたら。私も皆と同じ気持ちで、少女を気にかけるのをそこでやめていたかもしれない。そうすれば、私はのちのち死ぬような目にあうこともなかったし、まだあの船で航宙士をやっていたんじゃないだろうか。

 だが現実はそうならなかった。船長の思惑とは裏腹に、以降私はますます彼女に固執するようになってしまった。あのとき話しながら船長は、壁棚にしまわれていた少女の投影型立体ホロ像を起動して私に見せてくれたんだ。それは遺族からの贈り物だった。事故を忘れないために、と。

 浮かびあがった胸像こそが、決定的だった。私は息が止まるかと思ったよ――肩口で切り揃えた黒い髪、頬にいくらか浮いたそばかす、まだあどけなさを残す顔立ち。一方で、うつむき加減の微笑みには妙に大人びた憂いが見える。服は白でもなくワンピースでもなく、若草色のシルクのブラウスだったが、その襟に飾られていたのは大ぶりのブローチだった。

 極めて高価な石を配した、上品な襟飾り。見事な蝶の銀線細工は、今にも風を受けて羽ばたきそうにみえた。少女の近影を目にしたのは初めてだったにも関わらず、私は確実にそのブローチに見覚えがあった。思い違いでは決してない。それはあの花畑で振り向いた彼女が身につけていたものだった。

 ――今から考えると、とても正気とは思えない。だからたぶん、この頃にはすでに、私は彼女の幽霊に取り憑かれていたんだろう……。

 仲間内で交わす会話がありふれた世間話に戻ったあとも、相変わらず私は彼女のことを一人で考え続けた。ひとつの可能性を思いついていたんだ――ブラックホールに落ちたものは、なんであれこちらに戻れない。だが私は確かに少女を見た。ならば、観測結果のほうが間違っていたのでは?

 緊急脱出ポッドは手動操縦の範囲が限られている。そしてブラックホールに向かうものは、速度や軌道によっては吸い込まれずに弾かれる場合もあるんだ。もしかすると少女のポッドもそうして弾かれ、まだホールの周回軌道を回っているんじゃないだろうか。もちろん生命維持装置の電力は枯渇し、亡くなってはいるだろうけれど……。

 以来、私は積極的にツアー客の顔ぶれに彼女を探すようになった。

 人々が寝静まった船廊、客が去ったあとの滑走路、誰もいない展望デッキ、照明の落ちたダンスホール……。姿は見えずとも、私はたびたび彼女の気配を身近に感じていたよ。そして虚空に向かって――本当に、実際に声に出して――幾度もこう呼びかけたんだ。

「なぜ、君は死んだんだ? なぜ何度も姿を見せるんだ。もしかして、まだどこかをさまよっているのだろうか? たぶん君は自殺したことを後悔している。あの虚ろな穴に向き合いながら、何もできないのはどんなにか恐ろしいことだろう。君は、私たちのすぐそばにいるんだろうね。そして救ってほしいと願っている。……家に帰りたいのだろう?」

 つねに返事はなかったが、この声が届いていると私は確信していた。

 そして結局、それは正しかったのだと――そう言い切るべきか、常軌を逸していると思うべきか、私にはいまだに混乱がある。だがともかく、ここから先の話が、私が航宙士の職から遠ざかった理由であり、旅をやめて平凡な惑星の大地に足を降ろした理由であり、そしていまだに忘れきることができず、ここで虚空に向かって一人喋っている理由でもある。

 忘れもしない……、忘れられるわけがない。私の4期目のクルーズ、 あのブラックホール宙域で。

 とうとう私は、彼女と二度目の再会を果たしたんだ。

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