第一話 目覚め

彼は草原に腰を下ろし、流れる雲を静かに眺めていた。

余程の暇人にも見える様子だが、彼なりに理由がある。


気付いたら彼は見覚えのない草原に寝ており、

そこに至る経緯を何も覚えていなかった。

周りを見渡してもクリスマスツリーのような木が一本生えているだけだ。

そこがどこであるかを示すものは何一つなく、状況を理解する事が出来ない。


耳を澄ますと遠くから風の流れるような音が聴こえる。

まだ彼の状況理解はその音の正体を想像出来る程には追いついていなかった。


もし荒天になった場合、雷が真っ先に落ちてくるのはあの木だ。

近付く気になれない。

仕方なく木から少し離れた草原に腰を下ろして現在に至る。

彼は自身を落ち着かせる為、分かっている状況を整理し始めた。


頭上には太陽と雲が空にある。

彼の体感では無風だが、雲が流れているので微風なのかもしれない。

近くにあった草をちぎって落としてみても、風は確認出来なかった。


乾いてもいないし蒸してもいない、快適な大気。

そして暑くも寒くもないので過ごしやすい気温。


周辺の草原には十センチ程度の長さの同一の種類と思われる草しかないが、

それが何の草かは彼には分からない。

アイスプラントのような、少し厚みのある植物だ。


先述の針葉樹の高さは恐らく十数メートル程。

幹の太さは片手が一周する程度の細長い木だ。

表面はすべすべしてとても滑らかな触り心地だった。

これも何の樹木かはわからない。

いざという時は、頑張れば折る事が出来る気がする。


やはりどう考えても全く記憶にない場所だった。

しかしこれまでの周囲の様子から自然な状態である気配を感じない。

人工的に手入れされている空間ではあるだろうと彼は結論付けた。

いずれは手入れしている人に会える可能性が高い事に安堵する。


しばらく落ち着いて考えている間、

室内にいるような不自然な快適さに違和感を彼は感じていた。

こんな快適な空間が本当に存在するのだろうか。


果たしてこの場所には自分の意思で来たのだろうか。

無駄な事を考えていると分かっていても、思考が堂々巡りをする。

どうしても思い出す事が出来ない。


頭に怪我を負っている様子はないし、飲酒の習慣はない。

これまで無意識で行動するような症状に見舞われた事はないと彼は記憶している。

誰かに連れて来られたのだろうか。

しかしその場合、理由の見当がつかない。


彼は分からない事を考えるのを諦め、

直近で必要な水と食料の確保を優先する事にした。

手入れされている空間だとしても、すぐに誰かが来るとは限らない。


まずは風のような音のする方向へ行く事に決める。

立ち上がって辺りを見渡すが、やはり本当に何もない空間だ。

向かうにあたり、何となく手ぶらでは心許なさを感じる。

彼は針葉樹に向かい、枝を折ってそれを手に持った。

武器というよりは心の支えだ。

何となく勇気が出た事で音に向かって歩き出す。


少し歩いた先で、音の発生源が見えた。

その正体に彼は眼を輝かせる。水だ。

滝のようだ。

しかし彼が知っている滝とは様子が違う。

何と呼べば良いのか判断出来ない事が彼を戸惑わせる。


上空の七、八メートル程に突然ぽっかりと開いた、

少し大きな穴から水が滝のように流れている。

ここまででもよくわからないのだが、

更にその穴は滝の裏から見ると存在していないように見えた。


地面に落ちる前に水は空間に吸い込まれるように消えていく。

これが遠くからでは水音だと判断出来なかった原因だろうと彼は納得する。

しかし原理は全く想像が出来ない。


彼はしばらくこの滝のようなものを眺めてから肩を落とした。

明らかに自然のものではない。この水は飲んで良いものだろうか。

喉が渇く見た目、それに爽やかな水の音。

天然の川よりも安全性が高い事を信じ、彼は飲んで良いかを検討し始める。


ずっと流れているので淀みはなさそうだ。

生臭さなども感じられない。

周辺植物はが飛沫を浴びているのに青々としている様子から、

薬害もないだろうと彼は前向きに考える。


勇気を出して触れてみたが、ぬめっとした感じも粘り気もない。

さらっとした普通の水のように彼には思えた。

どの確認も飲用可能かを判断する材料としては心細いものだったが、

彼自身を納得させる為には必要なものだった。


意を決して口に含み、口の中で少し転がした後に飲みこんでみる。

硬度も低く、飲みやすい水だった。

思ったより喉が渇いていたらしく、そのままごくごくと飲み続ける。

彼は十分に喉を潤してから地面に寝転がり、一息ついた。

ゆっくりと流れていく雲を見つめる。


まだ彼には食べ物の確保という重大な課題が残っていた。

何も見つけられないという最悪の場合でも、何とか食べられそうなものはある。

その辺りにたくさん生えている草だ。彼は草原にそっと目をやり、ため息をつく。

地面に生えている、よくわからない草を食べるのはさすがに抵抗があった。

しかもこれだけ丁寧に手入れされていると薬害の心配もある。


草を食料の候補として考えるにあたり、

生き物が全く見当たらない事に彼はようやく気付いた。

屋外なのに虫一匹見当たらないのはさすがに異常だ。

余程強力な薬品を使っているのだろうか。

それにしても鳥なども一匹も見た記憶がない。

あの水の流れ方では魚がいる可能性も無いだろう。


彼は先程感じた違和感を再度思い出す。

本当にここは屋外だろうか。屋外に似せた室内なのではないだろうか。

しかし疑念に対する答えは出ない。

手入れを行っている人が来た時に確認する他ないと彼は判断する。


いずれにせよ万が一生き物を捕まえる事が出来ても、

彼には食べる事を可能にする知識も道具もない。

果実や野菜のような即戦力になる食べ物を探す必要があった。


彼は水の確保を第一に考え、先程の水場から真っ直ぐ歩く事にする。

草の上においていた木の枝を拾ってゆっくり歩き出した。


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