第6話 カフェオーレの香りに包まれて

 沙耶に唇を奪われ翌日の早朝。窓から差し込む朝日に照らされながら美奈は私服姿でベッドに腰かけていた。


 考える事は昨日の沙耶についてだ。しかしいくら考えたところで正解と言える答えが導き出せない。彼女にとってすんなり答えが出せるものでもなく、ただただ時間が過ぎていくだけだ。


「あっ……時間……」


 時計を確認すれば時刻は6時50分。か細い声で呟いた美奈は立ち上がって、バックを肩にかけて部屋を出るとまだ寝ている父親を起こさぬよう静かに階段を降り、洗濯物を干している母に声をかけて外に出る。


 外は早朝だけあって、スズメのさえずりや散歩をする人や母と同じく洗濯物を干している近所の主婦の姿がある。そんないつもと変わらぬ朝をいつもと変わらず挨拶をしながら自転車に乗って出かける。いつもと変わらぬ日常だが、美奈のその心はいつもとは変わっており、晴天の空と裏腹に心にも靄がかかっていた。


 ・・・


「おはようございまーす……」


 ここは二郷市の新二郷にあるポートシティ新二郷という複合施設。従業員用の入り口から専用のIDをタッチし、テナントの裏口から入って挨拶をする。


 今、美奈がいる場所はシャルロットコーヒーという喫茶店。メインのコーヒーだけではなく、パンやサラダを中心にした軽食やケーキやアイスクリームなど豊富なデザートと店内を包むゆったりとした雰囲気が来店客に受け、顧客満足度でも高い評価を得ており、まだ数は少ないものの全国展開をしているSNSなどで話題になっている店だ。


 何故、美奈がここにいるのか?単純にここでアルバイトをしているのだ。今日はシフトでオープンからと言う事もあり、開店から50分前には店に着いていた。


 制服に着替え終えた美奈。白いワイシャツに黒を基調としたベストとズボンに前掛けを付けたシックなものであった。元々、美奈はこの制服が気に入って応募したのも理由の一つだ。


「おー……。おはよう」


 ローファーに履き替えた美奈に声をかけたのは社員である古橋嘉穂だ。気怠そうな紫色の瞳を美奈に向け、無造作にアップにした髪は飲食店などにはあまり似つかわしくない何ともだらしなさそうな印象を受ける。まだ開店前というだけあって、私服姿で美奈を出迎えた。


「嘉穂さん相変わらず眠そうですね」

「朝弱いんだよ……。まぁアタシはたまにしかオープンじゃないから良いけどさ」


 タイムカードを押して、フロアに出てきた美奈は手を入念に洗いながら、欠伸をしたと思ったら口をもごもごとさせている嘉穂に苦笑しながら声をかける。とはいえ、そんな嘉穂もキッチン周りの準備を手早く進めているのは美奈も感心するところだ。


「でも嘉穂さんって準備早いですよね、みんな言ってますよ?だらしないけど仕事は早いって」

「だらしないは余計だろ……。って言うか、アタシの場合は面倒事はさっさと終わらせてゆっくりしたい性分なんだよ。オープンだって10分前にはやる事ない状態にしたいしなー」


 厨房との窓口にあたるデシャップ周りの準備をしながら嘉穂と話を続ける。美奈と嘉穂は年で言えば7歳くらいの差があるわけだが、互いの性格もあってか、わりとすぐに打ち解けている。


 沸かせたコーヒーをポッドに零すことなく移し、蓋をするとそのまま湯煎している大きな湯を張った容器に入れながら嘉穂は時計を確認する。


 時刻は7時半を周ったところだ。美奈も美奈で早速、仕事をするために濡らした布巾で大小様々なテーブルを拭き始め、窓から目が眩むほどの日差を遮る為にカーテンロールも降ろす。次は新聞の整理だ。段取りを決めながら美奈は素早く動いていく。しかしそんな仕事をテキパキとこなす美奈だが、その表情は仕事とは別の事を考え、思い詰めていた。


 考えていることなどは当然、沙耶のことだろう。だだでさえ啓基の告白もあったと言うのに告白だけに留まらず唇まで奪われたのだ。これを意識せずにしろと言うならどうすれば良いのだ。嘉穂と話している時は少なからず忘れられたが一人で仕事をすればこうなってしまう。


「おはよう、美奈」

「玲菜ちゃん、おはよー」


 時刻は7時45分頃、フロアの準備は一通り終えた美奈はデシャップに戻ってくる。そこには丁度、制服に着替えて出勤した玲菜と鉢合わせした。玲奈も美奈と同じくシャルロットコーヒーでアルバイトをしている。今日は日曜日という事もあって開店時には3人、そこから混雑に備えて少しずつ人を増やして対応していく予定だ。


「今月ピンチだよー……。どうしよう……」

「実は私も……」

「おーそうかそうか。シフトの空きはまだあるぞ」


 オーダーを受けるために使うハンディターミナルに従業員番号を打ち込みながら、懐の寒さから苦々しそうに言葉を交わす玲菜と美奈。そんな二人に嘉穂はシフト表を見ながら話に入ってくる。なんともないその会話は和やかに時間が過ぎていき、開店の時間を迎えるのであった。


 ・・・


「ありがとうございました、またお待ちしております!」


 お昼時、という事もあるが今日は日曜日。複合施設であるポートシティにあるこのシャルロットコーヒーはいつにも増して混み合っていた。現在も入店する客は絶えず、従業員が対応しては順番待ちの旨を伝えた後、禁煙喫煙を尋ね、客の名前を待ちの客の名前が書かれたウェイティングボードに名前を記す。


 そんな中でレジでの対応をした美奈は釣り銭とレシートを渡し、笑顔で会計を終えた客を送り出す。家族連れだった為、こちらに無垢な瞳を向ける幼児が笑顔で帰り際に手を振ってくれるのを見て、美奈も折角の笑顔に負けないようにと精一杯の笑顔で「ばいばーいっ」と軽く手を振って応える。


「ふぅ……」


 一息つく。どうにもレジと言うのは一度入ったら次から次に来るものだ。漸く並んでいた客の会計を全て終えた所である。


『美奈ちゃん……愛してる』


 レジが落ち着いたという事もあってか、一息ついた美奈の頭にふと沙耶の愛の言葉が過る。完全に無意識であった。それ故に途端にその前のキスも思い出してしまう。思い出さないようにしていたとはいえ、やはりそれだけ記憶には強く焼き付いているようだ。


「美奈ー! オーダーおねがーいっ!」

「っ……!? う、うん!」


 そんな美奈にデシャップでフロアの指示を出している玲奈から呼び声が聞こえ、ハッと我に返った美奈はこんな時に何て事を思い出しているのだろうと軽い自己嫌悪と共に赤面しながら慌ててデシャップへ向かう。


「このミルクコーヒーとトーストを12卓にお願いね」


 厨房でドリンクを担当する嘉穂が注いだ湯気が立った甘い香りのミルクコーヒーを専用のソーサーの上に乗せながらデシャップに到着した美奈に玲菜は指示を出す。


「了解!」と元気よく返事をした美奈は伝票とミルクコーヒーが乗ったトレー、そしてパン籠に入った焼き色のついたトーストをそれぞれ持ってフロアに出る。


「お待たせいたしましたっ!」

「えっ……まだ頼んでないけど……」


 美奈は笑顔を浮かべながらスマートフォンを操作していた客のテーブルまで持って行って快活に話しかけるが、当の客自体はきょとんとした顔を浮かべたと思えば眉を顰めて怪訝そうに答える。


「し、失礼しました!」


「えっ?」と慌ててトレーに乗っている伝票に目をやる。伝票に記載されている卓番を確認すれば、確かにこのテーブルではなく近くの別のテーブルだ。こんな簡単なミスを犯してしまった事が恥ずかしくなり赤面しながら慌てて非礼を詫び、今度こそ正しいテーブルへと向かいだす。


「……?」


 その一部始終をデシャップにいる玲菜が見ていた。もうかれこれ美奈も自分もシャルロットコーヒーで働き出してからもうそろそろ一年経つか経たないかだが、美奈があのような初歩的なミスを犯したのを初めて見た。それ故、玲菜は不思議そうに首を傾げながらもフロアの司令塔である自分もミスを犯さぬよう再び意識を仕事に向けるのであった。


 ・・・


 時刻は16時半を過ぎたところだ。店内もひと段落し、ゆったりとした時間が流れつつあった。それも見計らって美奈も勤務時間を終え、タイムカードを押して退勤する。


 流石に今日は日曜日ということもあってか、混み合った。その疲れが出たのか、すぐに着替えることはせずベストと前掛けだけを脱いでそのまま近くの椅子に座って疲れを吐き出すかのように一息つく。


「美奈、お疲れさまー」


 そんな状態で5、6分が経った頃、同じく勤務時間を終えた玲菜がやって来る。その手にはそれぞれサービスで出されたカフェオーレがあり、美奈の前に一つ置くと美奈が軽く礼を言っている間に自分もタイムカードを押す。


「今日、美奈なんか上の空って感じじゃなかった?」

「えっ……!? そ……そう、かな……?」


 言うかどうか迷っているのか、カフェオーレに口をつけた玲菜は両手にカップを持ちながら美奈の隣の椅子に座り、自分が感じた美奈の違和感について聞いてみる。美奈も美奈で今日に関してはレジの時でも沙耶のことを思い出したりで思い当たる節はあるのだが、そのことを口にする事は出来ず、引き攣った様子で答える。


「何だかそんな感じがしちゃってさ。なにかあったなら聞くよ、私なんかで良かったら……の話だけどさ」


 別にその事について責めようなどと言う気持ちはない。もし原因があって、そんな状態になったのであれば悩み相談というわけではないが親友として聞いてあげたい。一々口に言う事ではないが、友達のことであれば自分なりに力になりたかった。


「えー……っと……その……うん……」


 こちらに向かって首を僅かに傾げて微笑を向けるそんな玲菜の想いを少なからず触れたのか僅かに考えるように俯いた美奈は玲奈にならばと重い口を開く。


「今の私……モテ期……なのかな……って……」

「そんな複雑そうな顔でモテ期って言う人初めて見た……」


 どう言えば分からず、咄嗟に浮かんだ言葉を紡ぎながら話す。しかしその表情はとてもではないがモテ期が到来した人物の顔には見えない。表情だけを見るならば合点がいかず立ち往生している、そんな顔だ。美奈の顔を見て内容と表情が一致していない気がして玲菜は引き攣った笑みを浮かべるのだった。

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