第15話 『始まりはグラウンド整備から』

 氷室姉妹の口論が収まったのは他のメンバーがグラウンド整備を開始してから三十分後のことだ。それまでの間、一息つくこともなく続けられた口論は姉妹ならではこそ。そして口論が終わって平常心を取り戻していくことで現状をより強く把握することになる。その時の反応は瓜二つで、二人が血の繋がった姉妹なのだとより一層に思える。


「口論は終わりましたか?」


 表情を暗くして気まずそうな空気を漂わせる氷室姉妹の姿を目で捉えながら敢えて訊いた。二人の声が聞こえない時点で口論が終わっていることは明白だが、そのことで色々と迷惑をかけていることを自覚させる為の処置だ。


「それで結論はでましたか? でたのであれば早く手伝ってほしいのですが」


 自分でも驚くほどに低い声が出た。その影響によるものか、氷室姉妹は体をビク、と反応を見せたかと思えば、岩のように硬直してしまった。どことなく顔色も青褪めているように見える。


「そ、そのー……怒ってる?」


「怒ってはいませんよ。ただ怒るのも馬鹿らしいほどに呆れているだけです」


「うっ! わ、私にも敬語になってる……」


 朱音は約半年ほど費やして築き上げた信頼関係が一瞬にして崩れ去った音が聞こえた。そもそも信頼関係を築けていた保障もないが、少なくとも現時点では底辺を行き来しているのは間違いない。


 朱音は両肩を落とした。


「ほら、みなさい! 貴方がいつまでも食い下がるから遠夜君も呆れちゃったじゃない」


 朱里は勝ち誇ったような余裕の表情を浮かべた。今の状況からそれだけの自信がどこから湧いてくるのか疑問である。


「先生も同罪ですよ」


 だから現実を突き付けた。


「え? い、いや! ちょっと⁉」


「同罪です」


 驚くほどに狼狽える朱里に改めて言った。そこから見せる姿は妹と瓜二つ。両肩を落とした姿だ。肩を並べて同じように落ち込む姿を見ているとこちらが悪者になったかのような罪悪感を覚える。


「ご、ごほん!」


 わざと咳払いをして場の空気を変える。


「とにかく二人とも手伝う。今週の土日には練習を始めれるだけの準備は済ませたいですから」


 自身が考える予定では土日から練習を開始できるというものだ。人数不足やルール改定を訴える運動も大切だが、それらが順当に進めば七月に始まる夏の予選が待ち構えている。練習も碌にやらず挑んで勝利できるほど高校野球は甘くないだろう。仮にルール改定が夏の大会までに間に合わないとしても男子だけで出場し、成績を残すことで後々のルール改定が有利に働く可能性もある。


「朱音。こっち手伝う」


「う、うん!」


 澪の誘いで朱音はスムーズに手伝いに入っていく。取り残される形になった朱里は若干、あたふたと落ち着きのない動きを見せ始めた。教師という立場だけに澪のような助けの手はこない。こうなってくると不憫に思えてしまう。


「ほら、先生。こっちで石拾いしますよ」


 だから俺自身が助けの手を差し出す。こうなってくると教師と生徒の立場が逆転しているように思えるが、野球部という組織ではお互いに一年目の新人。顧問とキャプテンの二人三脚で協力するのがベストな選択だろう。さすがに手を取って引くようなことは恥ずかしくてできない。


 一悶着はあったものの、氷室姉妹もグラウンド整備に加わったことで加速する。昼食を取ることも忘れて作業に没頭すること一時間、二時間、刻々と経過していった。


 空模様が蒼色から茜色に変化を始め、早めに切り上げた部活の生徒たちが帰宅の路に着く。十七時を告げるチャイムが校内に響き、それを皮切りに各部活が片付けに入る。通常は十九時まで練習する部活もあるが、午前授業であることから時間が早まった。片付けに入ったグラウンドからは談笑が届く。それを合図に下ろし続けていた腰を持ち上げて背伸びをする。凝り固まっていた骨がポキポキと耳あたりの良い軽快な音を鳴らす。自然と手が腰に伸びては労うように軽く叩く。


「先生、そろそろ終わりましょう」


「……そうね。日も暮れてきたみたいだから頃合いかな」


 朱里は空を見上げた後、腕時計に目を落として時間を確認した。教師として割り当てられた仕事は全て済ませていることから時間に余裕はまだあるが、初日から飛ばしていては一週間ももたずにガス欠してしまう。その辺りのコンディションを管理するのも顧問の役目だと朱里は考えており、その心構えをマネージャーである雛と協力し、それを各選手に意思付ける必要もあるだろう。


「……みんな、この後、何か用事はあるかしら?」


 面々は朱里に視線を送ると、それぞれ首を左右に振った。


「せっかくだから晩御飯を食べに行きましょう。懇談会、と言ったら少し硬いわね……」


 朱里は少し悩む素振りを見せる。


「……そうね、創部記念ということにしましょう」


「ですが、まだ創部届けを提出していませんよ?」


「それなら大丈夫。この後、校長先生に提出するから」


 朱里はそう言ってスーツの上着から創部届けと書かれた封筒を取り出した。


「それでしたら先生は今から提出してきてください。片付けは俺たちでしておきますので」


「そう? それじゃあ、お願いするわ」


 俺からの提案を受け入れた朱里は早足でグラウンドを去って行く。その後ろ姿を見送り、俺は掌を打ち合わせて面々の視線を自分に集めた。


「そういうことだから片付けに入ろうか。雑草と拾った石は用具箱前に一箇所で集めておこう」


 キャプテンからの指示に元気のある返事がグラウンドに響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る