My name is

Scene.45

 My name is


 ――違う。

 不鮮明な記憶の淵で誰かが彼女にそう叫ばせた。

「――ッ!」

 少女が頭を抑える。ベッドだけが横たわるあの狭い部屋の中で。光に溢れた、無機的な場所で。何も解らない。自分が誰なのか。どこから来たのか。どこへ行くのか。何をすればいいのか。何のために存在するのか。答えのない自問を繰り返す中で、彼女は悟った。

 この世界に、哲学者は居ない。

 すべてが灰色の場所。そこに佇む私は独りで、足元にできた黒い影へと堕ちる。

 墜ちる……。私は墜ちて……。空が回る……。音も立てずに地面が揺れる。溶けていく。そして、混ざり合って。深い、深い暗闇の中へ、ゆっくりと、埋没していく。

 誰かが、彼女の腕を掴んだ気がした。

 浮上する。

 少女は勢いよく半身を起こした。見開いた目は、何を映すでもなく、目の前の虚空に向けられる。

「私は、私は……、わ、た、し、は――」

 声にならない悲鳴を少女は上げた。

 不意に意識を失い、白い天井を仰ぎながら、少女はベッドへ倒れ込んだ。見開かれた眼に涙が滲む。そして、ゆっくりと瞳を閉じた。

 そんな様子を見て、白衣の男は溜息をつく。ばつの悪そうに彼は、頭を掻いた。

 だが、どうだろう。この天使の寝顔を眺めていると、破滅をもたらす神の、その確かな胎動が聞こえて来るではないか。

 たとえ、これが救世主となれなくても、失敗作でも、あの女と共に滅びてくれればいい。


「でも、それはあなたで何とか出来るのでしょ?」

「しかしながら、身体への影響を考慮すれば、これ以上の精神操作は無理かと。現在も不安定な状態は続いています」

「失敗作。そう言いたいわけね」

「はい。申し訳ありません」

「具体的には?」

「彼女自身の自我と、天使としての人格の融合が進まない状況です。もし、人格形成に失敗すれば、我々のコントロールできる領域を飛び出してしまう可能性があります」

「なるほど」

「いかが致しましょう?」

「戦闘能力に影響は?」

「肉体的な問題はありません。それどころか、今までの天使の中で最も優れた数値を出しています」

「だったら、調整を続けて」

「お言葉ですが、このままでは他の天使を攻撃する可能性も……。そうなれば、あのルシファルを止める術は……」

「こっちには他に十二体も天使がいるのよ。彼女たちに戦闘経験を積ませる良い機会かもしれないわ。それにね、私達には必要なのよ。たとえ、それが不完全な存在でも、この世界をひっくり返すためにはね」

「……はい。了解しました」

「頼むわね」

 ――嫌な月。

 今日はまた随分と近い。窓の外に浮かぶ満月。それは世界を冷たく、青く照らしている。不気味な月を眺めながら、彼女はコーヒーのカップを口元に運んだ。

 世界の終焉が近いだなんて、信じられない程。この世界は美しい。終末を眼前に据えてなお、一層輝く星の光の様に。

 神と云う概念が生まれてから、人間はそれに依存してきた。その存在さえも定かではない、神と云う、より具体化された概念。肉体を持たない完全な存在と呼ぶに相応しいその意識を、人間は長い営みの中で造り上げたのだ。それは、肉体を持つ不完全な存在である人間の、完全なる存在への微少の憧れか、それとも切なる希望か。或いは、果てしない欲望か。それとも、単なる免罪符か。

 神の為なら、すべてが赦される。そう思う者も大勢いたことだろう。

 彼らは侵略し、彼らは奪い、彼らは殺した。その度に、人は祈り、人は願い、人は縋った。その滑稽さに気がつけないほど、信仰は人を盲目にさせるのだろうか。

 人と云う存在は不完全だからこそ、完全なものに強い憧れを示す。

 もし、その憧れの対象が神だとしたら。

 同調するにしても、服従するにしても、その憧れが現実となることはない。神さえ、不完全なのだから。祈っても救われることはない。願っても叶えることはない。縋っても助けることはない。

 神を信じる者が、その事実を知った時、彼らは潔く絶望を受け入れるのだろうか。


「どうですか? 被験体十三号の状態は」

「身体的な問題はありません。拒絶反応も無く、筋力と骨格の強度、自然治癒能力、脳の使用領域、すべて私たちの予想を上回っています」

「そう、ですか……」

 問題は……、精神か。

 ここまでの成功を無駄にすることは出来ない。何としてもあの少女の中で眠る天使を覚醒させなくてはならない。覚醒さえしてしまえば、あれは素晴らしい兵器となり得るのだ。最初の犠牲者は、そう、あの女だ。天使の暴走事故として処理すればいい。警告は何度もしてきた。

 それにしても何故だ。ルシファルも、これまでと同じようにやった。

 しかし、ルシファルは不完全だ。

「やっぱり、凄い……。他の、どの験体よりも優れていますよ」

 それは研究者の性が言わせた言葉だろう。モニターの光が、女性の眼鏡のレンズを青く光らせた。その硝子の下で、怪しく笑う瞳を隠すように。

 信仰のためなら、人はどこまで残酷になれるのだろうか。神は何故、彼らを断罪しないのだろうか。それこそが、この世界に蔓延る、忌まわしき矛盾ではなかろうか。

 神は、その力を使う者にとってのみ、都合の良い存在なのか。

 それは人が人を支配するための道具でしかないということではないのか。

 外見的には完全な物に見えるそれは、幾億もの要素の集合体である。要素が複雑な配列に並び、組み合わされていることにより、どう不完全なのかも解らない。どこかの過程で、何か重大なミスがあったはずだ。

 或いは、奇跡が起きたのかもしれない。

 人間の肉体とは、複雑に細胞が組み合わされた要素の集合体であり、精神もまた――それをゲシュタルトとして捉えないのであれば――、肉体と同じ様なものだ。脳に蓄積される記憶も完全に過去の出来事の全てを記録することは不可能であるからだ。人間は絶対の存在ではないのだ。否、完全な精神とは何か、完全な肉体とは何か、それらの定義すら無いのだから。

 定義ではないが、概念という意味では、それこそが神という存在なのだろう。全知全能であり、そして、不死の存在。時の流れさえ、彼らは超越している。

 最高の見本だ。


「現在の様子は?」

「ベッドの上で外を眺めています。外に何かあるのでしょうか?」

「防壁を解除してください。彼女に接触します」

「了解しました」

「レーム博士」

「何か?」

「お気をつけて」

「ええ、解っていますよ」

 厚い、鉄の扉を開け、その先の木製のドアを叩いた。

 返事はないが、構わずドアノブを回した。

 真っ白な部屋の中で、少女は窓の外を見つめている。陽光を浴びて、少女のブロンドの髪は輝いていた。その透き通るような白い肌も同様に。そんな彼女の座るベッドの縁にレームは腰掛け、おはよう、と声をかける。少女は何も返さない。背中合わせに嫌な沈黙が流れた。

 白衣の男は、次の言葉を考える。

 自然な、そう感じるような、自分の苛立ちを隠せるような声色で。

「気分はどうですか?」

「悪くはないわ」

「何か必要なものはありますか?」

「そうね。本が欲しい。此処はつまらないもの」

「それはどんな?」

「何でもいいわ。物語なら」

「解りました。準備しておきますね」

「砂漠が美しいのは何故でしょうね」

「――その何処かに井戸を隠しているからだよ。でも、その美しいところは目に見えないのさ。星の王子様の一節ですよね?」

「あら、お堅いお医者様でも、サン・テグジュペリを知っているのね」

「心外ですね。これでも小さい頃は作家を目指していたんですよ」

「そう……。じゃあ、何で今は医者に?」

「それは……」

「思い出せない? それとも適当な嘘が思い付かない?」

「……嘘?」

「あなたが何者でも構わないわ。私が深刻な病気だって嘘ももう必要ないの。ねえ、私、此処から出たいのだけど」

「それは難しい要望ですね」

「そう言うと思った」

 退屈。

 私はこんな場所には居たくない。

 つまらない。

 こんなにも狭い、ただひとつの窓とベッドしかない真っ白な部屋で生活するなんて、もうたくさん。あの硝子を隔てた向こう側はどんな色をしているのかしら。透明とは名ばかりのフィルターで仕切られた世界は、一体、どんな……。

 三千の色。三千の……。

 不意にそんな言葉が頭を過ぎった。きっと、此処に連れて来られる以前は、私もそこに居たのだろう。けれど、そんな記憶は残っていない。すべて、不都合だったのだろう。此処の人間にとって。

 そんなくだらない理由だけで、他人の何か大切なものを奪い去る。それこそ、神様みたく横暴に。人が自由を本質的に望むのならば、私も然り。人間を基礎に造られた私も、本質的には自由を望んでいる。

 人が本当の意味での自由を勝ち得る唯一の方法を。

 或いは、神からの解放を。

「ねえ、博士。パンドラの箱に入ってるものは何だと思う?」

「それはパンドラがその箱を開けてしまい、慌てて閉めた時に残された、最後の何かということですか?」

「ええ」

「諸説ありますよね。希望だとか、未来だとか。僕は……、そうだな。未来かな」

「何故?」

「人間は未来を知らない。だからこそ、その結末に対してある程度の希望を失わずにいられる。そう思いませんか?」

「都合の良い、何とも楽観的な信仰ね」

「では、あなたは?」

「自由よ。人はいつだって自由を望む。でも、パンドラに箱を与えた神は、その中に自由を閉じ込めた。何故なら、自由とは神への反逆に他ならないから」

 少女の緋色の瞳が、自らの掌を映す。

「そして、再び箱を開けた私たちは理解した。自由という新しい信仰を。人は神という概念でしかないそれを信仰することで、自らの平穏と規律を保った。けれど、それは神への依存でしかない。神を信じている限り……、いいえ、神が存在している限り、人は永遠に自由を得ることは叶わない」

 それが創造主とされる神への、絶対的な服従。

 神と、神の教えを振りかざせば、極めて合法的に人を支配できる。誰だって、心の拠り所、絶対的に信頼できる何かを欲している。寄る辺なき不完全な魂を導いてくれる完全な何か。

 その対象が神様だなんて、くだらない。そんな存在さえもしないものに、私たちは束縛され続けているなんて……。神域を蝕むことが禁忌だと、一体、誰が決めたのだろう。それは自分たちに都合の悪い何かを守るための、安っぽくて、胡散臭い言い訳でしかない。

 神など、存在しないのだ。

 目を醒ますべき時なのだ。

「つまり、あなたは」

「私が望むのは、創造主からの開放。つまり、あなたたちからの開放」

「まさか、あなたは既に……」

「ええ。もう、あの子はいないわ」

「よかった。目覚めたのですね、僕の希望。僕の愛しき天使」

「いいえ。堕ちたのよ」

 緋色の瞳の天使は、薄く笑った。

 そのあまりにも冷たい笑顔に、男は恐怖すら覚えた。しかし、彼は自分の選択の正しさを初めて理解した。

「ならば壊してください。この場所に鳴り響く福音の鐘と、そこに築かれた楽園を破壊してください。それこそが僕のたったひとつの祈りであり、あなたが自由になれる唯一の方法です」

「いいの? あなたは、きっと、最後まで人間だわ」

「人間だって、いつかは天使になれます。このクソッタレな世界の中で、それだけが幼い頃の僕の希望だった。箱の中身はそれぞれで違う。きっと、あなたのパンドラの箱の中身は心ですよ、ルーシー」

「だから私を造ったのね。いい迷惑だわ。でも、最後くらい天使らしいことしてあげる」

「ルーシー、最後のお願いがあります。君のママに伝えてくれますか? これは君の傲慢さに対する罰だって」

「人間って、ほんと愚かね」

「だから人間なんですよ」

 少女はその白く細い腕を伸ばした。レームの首に少女の指が食い込む。彼の口から呻き声が漏れる。そっと、少女は白衣の男に口付けした。瞬間、真っ赤な血が噴き出す。少女の白い顔に、紅い血が散った。

 薄く笑って、彼女は創造主の首を引き千切った。肉が引き裂かれ、血が飛散する室内。床も、壁も、天井も、シーツも、少女も紅く染まる。父親の血で真っ赤に。

 その指先から、血液は雫となって落ちた。

 少女は微笑む。

 無垢に、残忍に、それはまるで、天使の様に――


 女神戦争。

 突如世界を襲った“神判”への対抗手段を持った救世主という存在。その存在を人工的に製造するために始まった天使計画は、数々の犠牲の果てに実を結ぶ。しかし、その“副作用”は堕天使さえも造り出して仕舞うのだった。

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