真冬の花束
真冬の花束
Scene.38
真冬の花束
ハートを象った銀色のピアスが小さく揺れる。
連絡を受けて彼女が駆けつけたのは、静かに雪の降る日の午後だった。
白い息を吐いて、礼拝堂の扉を白い兎が押し開ける。冷たい風に、蝋燭の焔がざわめく。深紅の絨毯の向こう側、彼女の目には礼拝堂の奥で俯く、少女の小さな背中が映る。オレンジ色のコートがやけに暗く見えた。
ぽつり、とイルゼが呟く。
「メリッサ」
歩み寄ろうとしたイルゼを、黒衣の牧師が制止する。今は一人にさせてあげましょう、と。彼の言葉に、イルゼは小さく頷いた。
外は、真っ白な雪が降っている。そして、ゆっくりと、落ちている。白い空から、絶え間なく、幾つも、幾つも……。それは、この街の日常的な光景だった。しかしながら、その日常が、より大きな空白を産み出す。
雪に埋もれる墓標の列を眺めながら、イルゼが白い息を吐いた。
「ありがとな。正直、何て声かければいいか分かんなかった」
「そうですね。きっとそれは彼女も同じでしょう。何を話せばいいか、どんな顔をすればいいか、どうすればいいか、わからなかったと思います。それに、私でも迷います。このような職についていながら、死と向き合う人に対して何と言えばいいのか、私にもよくわかりません」
牧師は続ける。
「だから、大切な人を亡くしたときの世界は美しく見えるのでしょうね。どんな言葉よりも、人は世界の美しさに救われるのかもしれません」
「牧師さん、天国ってどんなところだろうね」
「多くの人にとっては、見渡す限り緑の大草原で、心地良い風が吹いていて、あたたかい日差しが降り注いでいる。そんなところでしょうか」
「在るのかな、そんなところ」
「南方から来る貿易船は、そんな場所から来ているかもしれません。こんな世界にも、きっとそういう場所が存在すると思いますよ」
「あいつ、行けるかな」
ふわり、と落ちる雪を、イルゼが掌で受け止める。ゆっくりと溶ける雪を見つめながら、彼女は続けた。
「いい奴だったんだ。この街には勿体無いくらい」
「彼ですか?」
「まあ、この街じゃ仕方ないことだけどさ。何人目だろうな。あいつが大切な人を亡くすの」
「確か、彼女のご両親も?」
「……うん。死んでるよ。それに、地下街にいたって話だし、仲間も何人かは死んでるだろうね。珍しいことじゃないけどさ、天涯孤独ってやつ。そう言えば、家族に連絡は?」
「彼は孤児院で育ったそうで……。妹がいたそうなのですが、彼が八歳の頃、里親に引き取られてからは消息不明だそうです。葬儀の方は明日、軍警が執り行う、と」
「だからメリッサに、ね……」
治安の悪いこの街では、殉職する警官は珍しくない。警官を見たら引き金を引く、そんな人間もこの街には存在するからだ。制服警官を“自殺志願者”だと笑う者もいる。それでも、安定した収入を約束された軍警は、大人気の就職先だ。
今までの彼は、運が良かったのかもしれない。
それでも人の命は、いつか雪みたく、淡く、溶けて仕舞う。
珍しいことではない。寧ろ、日常茶飯事だ。性質の悪いジョークやアクション映画みたく、あきれ返るほどの悲劇がこの街を飛び交っている。それは誰もが理解しているだろう。偶然、今回は彼に当たった。人の死なんてものは、それだけしか、残らない。けれど――
イルゼが墓標に背を向ける。彼女はコートのポケットから引っ張り出した金貨を、指で弾いた。それは弧を描いて、牧師の手のひらに落ちる。
白い雪と共に。
「それで花束でも買ってやってくれないか」
「お祈りくらいされて行かれてはいかがですか? 私としては止めたいところですが、あなたは聞きそうにもありませんし、せめて、顔を見るくらいはしてあげてください」
「私が殺んなかったら、たぶんメリッサが殺る。そんなの、あいつは望まないからな」
「そうかもしれませんが……」
街も、空も、真っ白な日だった。白昼のキッチンストリート。レストランを襲った強盗を追っていた際、彼は撃たれたという。通行人を庇って。
美談だった。それも有り触れた話。都合だけが綺麗な結末。明日の朝刊の片隅に載るような話。ほとんど誰も目を通さない英雄譚。本当は怯んで、這いずって、命乞いして……。もっと無様で、ずっと惨めな最期だったのかもしれない。けれど、実際はどうだったかなんてどうでもいい。彼は死んだ。その事実は変わらないのだから。今は、メリッサの一粒の涙と、手向ける安物のウヰスキーが、彼の魂を慰めてくれることだろう。
息は白く、空に溶けてゆく。
教会の扉を、少女が開けた。雪の中で、二人が振り返る。
赤く腫らした目で、彼女は白い兎を見上げた。
「一旦、家に帰ります」
「今日は傍に居てやんな?」
「いえ、もう気は済みましたから。止めないでください」
「……気持ちは解るけどさ。メリッサ、復讐なんてしたって何になるんだよ」
「慰めくらいにはなります」
「誰の為の? お前の憂さ晴らしにしかならねぇーだろうが。チンピラひとり殺したくらいで、お前自身にケジメつけたと思ったら大間違いだよ」
「ずるいですよ、イルゼさん。自分だったら真っ先に復讐するくせに」
メリッサが語気を強める。「パパとママのことも、ジャンのことも。他人には死にたくなきゃ関わるな?! ああ、そうですかって、納得できると思いますか?! そんな忠告、親切なんかじゃない! ただ苦しいだけだよ! 自分勝手なだけだよ!」
「お前に何ができるって言うのさ」
「そんなの……。そんなの、どうにだってなります! もう、たくさんです。何も分からず、何もできず、ただじっとして苦しむくらいなら、いっそ死んだ方がいい」
「生きてた方がいいだろン。どんなに惨めでも。どんなに悔しくても」
「無理だよ……。耐えられる訳ないじゃん。 私は……、私の大切な人たちなんだよ? それなのに……。どんな顔して生きていけばいいって言うの?!」
メリッサの頬を涙が伝う。
「復讐なんて、また新しい憎しみを増やすだけですよ、メリッサさん。過去を清算して、現在の大切なものを失うかもしれない。そうじゃないですか?」
「そんなの誰かの都合じゃん! 何も変わらなくていいの。殺されたって構わない」
白い世界の中で響く泣き声。
仕方のないことだった。諦めるしかなかった。今は犯人が誰かもわからない。もし、警官殺しの犯人が複数で、彼らがどこかのマフィアの構成員か、地下ギャングの連中だったら……。血には血を。それがこの街のルールなのだから。マフィアのアジトに単身乗り込んで殺しまくってハッピーエンドなんて、そんな映画みたいな結末は期待できない。
結局、呆気なく殺されて、それで物語は終わり。それが結末なのだから。
どんなに叫んでも、どんなに訴えても、それは変わらない。
黒いブーツが雪を踏んで、少女の元へと歩み寄る。メリッサの前に立つと、イルゼはイングラムの冷たい銃口を少女の額に突き付けた。
真っ赤なルージュさえも冷たく映る。凍える様な色の空の下で。
「賢く生きなよ。どっちが損か得か。よーく考えた方が身の為だぞン?」
爛々と輝く紅い狂気に満ちた瞳を前にしてもなお、メリッサは怯まずに睨み返す。その右手にエンフィールド・リボルバーを握って、イルゼにその銃口を向けた。
ゆっくりと、撃鉄を起こす。
「そうやって、気に入らないなら力で脅す。それが賢い方法だと言えますか?」
イルゼは今にも泣き出しそうな少女の目を真っ直ぐに見つめる。
「なあ、メリッサ。お前が今、その手に持っている“それ”を愛おしいと思ったことはあるか? 引き金を引いた瞬間、銃声が響いた瞬間、弾が相手に当たった瞬間、愛おしいと思ったことはあるか?」
――私はね、大嫌いだよ。
「でもね、お前も私も“それ”に縋って生きていくしかない」
――クソッタレな世界だろ?
イルゼが溜息をついて、銃を下した。そして、空を見上げる。
「なあ、赤ん坊が産まれたとき、何で泣くか知ってるか? このクソッタレな世界に産まれたことが悲しくて、泣き叫ぶんだってさ」
白い雪が、降っている。
「そんな世界、ぶっ壊してやりたいだろン? でも、できないって知った。だったら自分がこの世界から消えればいいじゃんって思った。でも、それもできなかった」
その緋色の瞳に雪を映したまま、ぽつり、と彼女は呟いた。
「人間って不便だよね」
イルゼが切なく微笑む。
「ごめん。偉そうに言ったけど、アタシにもよく分からない」
「……イルゼさん。今は、傍にいることにします。でも、忘れませんから。いつか、必ず、私が殺りますよ。私にも通さなきゃいけない道理があります」
「その時は手を貸してやるよ。さあ、中に入ろっか。寒いし」
ふわり、とイルゼが牧師の方を振り向く。
「なあ、牧師さん。お金なら払うからさ。一晩だけ礼拝堂貸してくんないかな? 私たちは葬儀に出らんないから」
「解りました。ですが、お金は要りません。どうせ誰も来ませんから」
「ありがとね。さて、あいつのバカ面でも拝みに行くかな。ねえ、メリッサ。いい顔してた?」
「うん。最高のバカ面だった」
「……そっか。らしいな」
――教会の中の花壇の前にしゃがんで、そこに咲く花々を見つめるイルゼの背後から牧師が声を掛ける。
「珍しい組合せですね」
イルゼは立ち上がりながら、「似合わないって言いたいの?」
牧師は苦笑する。
「いえいえ。そういえば、メリッサの花言葉を知っていますか?」
「共に歩もう、かな」
「そう訳すのはあなたくらいでしょうね」
「間違ってるか?」
「いえ。あの子らしいと思います」
「だろ?」
氷の都トロイカ。
いつか人は死んで仕舞う。そのいつかまで、自分を囲むすべての人と、精一杯の思い出を残せたら、きっと幸せな人生だろう。そのいつかまで、共に歩もう。それが小さくて白い花をいくつも咲かせるメリッサの花言葉。
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