異世界の老人

 ふと夜中に目が覚めた。隣では彼女が気持ちよさそうに寝息を立てている。

 俺は彼女を起こさないようにそっと部屋を抜け出した。

 プロポーズの余韻で眠れないのだろう、コップ一杯の水を飲み干し、ソファに座り込んだ。それからどれくらいの間かわからないがぼーっと天井を眺めていた。

「はぁ、すげぇ幸せだ……」

 呟いた言葉は空気に混ざって消えていく。まさか彼女と初めてあった時は結婚するなんて思ってもみなかったな。高台に行ったのもほんとにただの思いつきで何も考えてなかったし。本当に運が良かったんだな。本当に。

 本当に。

「幸せだよな……俺」

 その言葉は全く消えずに耳に残り続ける。ずっと人生に纏わりつく霧のようなもの。それが晴れない。俺は今間違いなく、生きてきた中で一番幸せだ。自信を持って言える。

 なのに、俺は焦っている。

 何に?

 分からない。

 ただ、正体不明の焦燥だけが自分を追い詰めてくる。

「なんだってんだよ……」

 泣きたいわけじゃない。死にたいほど苦しいわけでもない。生きることも死ぬこともない極限の不安。

 視界が暗くなっていく。俺は焦燥から逃げるように意識外の世界へ潜り込んだ。



 ☆



 翌朝、俺は太陽の眩しさで目を覚ました。大きく伸びをすると、まだ体に疲れが残っているのがわかる。

「ああ……ええっと」

 完全に思考が停止している。謎の不安から逃げたときはいつもこうなる。無意識のうちに心が怖がっているのだ。だから、周りが森なんだ。だから、周りに謎の植物が……

「は?」

 今度は思考だけでなく、体も完全停止する。ゆっくりとぎこちない動きで周りを確認するが、三六〇度、どこを見ても、それは紛れもなく、紛うこともなく、完全に、完璧な森だった。

「え、えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ⁉︎」

 本当に月並みな反応だが、目の前の光景を見て、俺は盛大に叫んだ。おかしい。この状況はおかしい!

「あ……あ……」

 言葉が出ない。待て、落ち着け考えろ。仮にだ、仮にあまりの寝相の悪さに外に出たとしても、だ。近くにこんなジャングルみたいな森あったか?

「ギュルオェェェェ‼︎」

 よく分からない鳥? の声まで聞こえてくる。どこなんだ、ここは!

「ワン! ワン!」

 すぐ側から聞き覚えのある鳴き声が聞こえてくる。犬だ、これは犬の鳴き声だ!

「は、ははっ‼︎ まさか犬の鳴き声でこんなに安心するとは思わなかっ……た……」

 振り返ると、そこには人間よろしく、長髪を携えたペンギンがいた。三羽、一匹が小さい。親子だろうか。

「じゃなくて! なんでこんな森に‼︎」

 ペンギンは俺の方を見て「ワンッ‼︎」と吠えると、長髪を棚引かせてどこかへ歩いていった。

 あ、あぁ⁇

「と、とりあえず……」

 この事は一旦忘れて……。

 歩く。道はないから、草をかき分けて歩く。歩いている最中で、汗を大量にかいていることに気がつく。

「そういえば、寒くない」

 厚いシャツの袖を捲る。空を見上げると草木の隙間から晴れ間が覗いている。

 ん? あれは。

「うんん?」

 気のせいか、疲れているのか。月らしきものが二つ、いや、三つ見える。

「もうわけ分かんねぇ……」

 とにかく無心で歩く。細かいことを考えていると、頭がおかしくなりそうだった。

 そうして歩いているうちに、これは夢なんじゃないかと思い始めた。漫画やドラマでよくあるやつだ。だけど、こういうときは大体夢じゃないんだよな……。

「うぉ」

 どれくらい歩いたかはよく分からないが、足腰が疲れるくらいには歩いたとき。前方から強い光が差し込んできた。森の終わりだ。

「ぁぁぁやっと…………」

「……」

「…………」

「………………‼︎」

 森を抜けた先、そこに広がる光景に俺は息を呑んだ。そこに広がっていたのは、見たこともない世界だった。

 その時、俺は初めて、を現実として捉えた。全身に立つ鳥肌、ベタつく汗を吹き飛ばす爽快な風。澄み渡る青空。広がる平原。全てが俺の中で感動に変換されていく。

 気づけば俺は、涙を流していた。最初、なぜ自分が涙しているのか分からなかったが、そんな戸惑いも涙と共に流れ落ちていった。

 不純物が、身体の、心の、濁った部分が洗い流されていく。

 こんな感覚は、今までに一度だって……ああ、そうだ。一度さえなかった。

「これは……」

 目の前は断絶されていた。崖のように。しかし、俺の知っている世界と違うのは崖の先、平原が空に浮いていた。遠くにも同じような浮島が何個も見える。

「この島も……浮いてるのか?」

 その時、隣から笑い声が聞こえた。

「フォッフォッフ。これはこれは、こんな辺境に冒険者さんとは」

 声のした方を見ると、そこには一人の老人がいた。

 いつのまにか、というより最初からいたのだろう。老人は、崖に座り釣竿を垂らしている。

「格好からしてチキュウから来たんかえ。危なかったのぅ。反対側に進んでおったら間違いなくエビルエボラに喰われておった」

 こんな場所に老人が一人でいるのは不思議だが、自分以外の人を見て安心した俺は老人に質問をした。

「そのえびるえぼらってなんなんですか?」

「人喰い草じゃ。ワシらの何十倍も大きい。ここは国から少し離れとるから、まだ知られていない生き物も沢山おる」

 想像すると、全身にさっきとは違う鳥肌がたった。こっちに来て心底よかった……。

「それ釣れるんですか」

 老人の物腰の柔らかさに先ほどまでの困惑と緊張が緩和された俺はその場に座り込んだ。

「んんん〜釣れるときは釣れるのぅ。今回は一週間前からこうやっとるが一向に釣れん」

「一週間‼︎」

「わしも暇なもんでのぅ」

 そういうと老人は口の中に何かを放り込んだ。バリバリと何かを砕く音がする

「なあ、冒険者さんや」

 冒険者というのが自分を指す言葉だと言うことに気づくまでにほんの数秒、時間がかかった。

 しかし、老人は特に気にした様子もなく続けた。

「ワクワクするじゃろう。ここは」

 目の前に広がる光景を瞳に映しながら、俺は力強く返事をした。

「はい」

「冒険者さんさえよければ見てくるといい。この国を。世界を」

 返事をしようとした俺は、自分が元いた世界のことを思い出した。

 この世界はすごい。未知で包まれている。だけど、今まで背負ってきた全てを放り出していいのだろうか。そんなの無責任にも程がある。

「すみません……。俺、元の世界に帰らないと」

「そうか。残念じゃのぅ……なら達者での」

 そういうと、老人はまた竿の方に意識を戻した。あれ?

「あのーすみません。帰り方って……」

「知らん」

「知らないんですか⁉︎」

 老人は前を向いたまま長いあご髭を撫でるように触る。

「ここに異世界から人間が来るというのはそこまで珍しいことでもないが、どうやってきたのかは本人達さえ分かっておらん。どんな風に現れたかも分からん。気づいたらおった。まるで、ワシの女房みたいに」

 フォッフォッフォッフと、笑う老人は心底愉快そうだ。

 こちらからすれば、この老人との会話の中でも飛び抜けて重要。笑い話ではない。

「帰るときも同様、気づいたときには居なくなっとる。中にはこちらで家庭を築いていた者までおった。しかし、不思議なことに未だ解明はされておらん。つまり」

 そこで老人が一呼吸置くが、そこまで話してくれれば、この世界のことをよく知らない俺でも分かる。つまり……。

「つまり、帰り方はよく分かっていない……と⁉︎」

 老人はこちらに向かって親指を立てた。

「いや、良くないですよ⁉︎」

 俺は頭を抱えた。もしかしたら、ここで残りの一生を過ごすかもしれないのか⁉︎ わけが分からない。そもそもなんで俺はここにいるんだ⁉︎ くそ……彼女にプロポーズしたばかりなのに……こんなことって……。

「お前さんも難儀じゃなぁ」

「へ?」

「他人じゃとか前の世界じゃとか、そんなもんどうだっていいじゃろうて‼︎ 大事なのはお前さんが今どう思って、何をやりたいかじゃろ‼︎ 他人なんかクソくらえ‼︎」

 オラァッ‼︎ と、さっきまでが嘘だったみたいに、突然前のめりに熱く語った老人に、俺は思っていることを一つだけ言った。

「なんか、他人事だと思ってノリで話してません?」

 数秒ののち、老人はなぜか数度、屈伸をして無言で釣りに戻った。

「なんかこいつ放り込んだら面白そうだなーとか、だんだん説明するの面倒臭くなってきたとか思ってません?」

「…………」

「図星ですか⁉︎ 『ワクワクせんか?』とかそれっぽく言っておいて実は、他に選択肢なかっただけだったんですか⁉︎ 答えてください‼︎」

 老人は俺の問いには答えず、また何かを口に運んだ。

「ちょっとさっきから何食べてるんですか‼︎」

「え? 煮干しじゃが」

「急に現実あっち感出すのやめて‼︎」

 なぜ煮干しを持っているんだこの老人は‼︎ しかも袋ごと‼︎ 思いっきり日本語で煮干しだよ‼︎ 煮干しって書いてあるよ‼︎

「んんん〜うん、やっぱ釣れんな、ここ」

「一週間経ってから言う言葉じゃないよそれ‼︎」

 老人は釣竿を担ぐと、何事もなかったかのように聞いてきた。

「ワシはもうここを離れるが、お前さんはどうする? ここで帰れるように祈るか?」

 老人の言い方に少しだけ腹が立つ。どうするって、行く以外に選択肢はない。なのに、わざわざそんな言い方しなくてもいいじゃないか。

「祈るんならワシも手伝うぞい」

「手伝ってくれるんですね……」

 そんなこんなで俺は改めて、この世界を旅する覚悟を決めたわけだが。

「どうやって移動するんですか。これ……」

 下を覗き込むだけで胸の辺りがヒュンヒュンする。下には海らしき青が見えているが、この高さでは万に一つも助からない。なんせ、雲と同じ高さなのだから。

「安心しなされ、こういうときは」

 老人は指を二本咥えた。おお、これは指笛! これで何か飛べる生き物を呼ぶのか!

「ヒューヒュースコー」

「全然、鳴らせてない‼︎」

 下手にも程があった。まぁ、俺も指笛なんて吹いたことないけど。

 老人は指笛をやめると、服に備え付けられていた(どういう原理なのかは不明)金色の縦笛を取り出して吹いた。なぜ、最初からその笛を使わなかったんだろう。

「ちょっとじっとしとれよ」

 俺が反応する前に老人が、こちらを指で差した。すると、俺の着ていたシャツやズボンが魔法のように他の服に変わった。

「いくら冒険者に慣れているとはいってもあちらの格好じゃと浮くからのぅ」

 老人がこさえてくれたのは茶色のブーツに深い緑のズボン、身体のラインが分からない緑のコートに黄色いスカーフ。そして、背中にはリュック、極め付けはオレンジ色の羽が付いた緑色の大きな帽子だった。

「うぉぉ‼︎ すげえ‼︎」

 俺は素直に感動した。元の服は消えてしまったが、そんな細かいことはこの際、いいだろう。

「冒険者さん。ここはエルドラド・バグリア。かつて龍が作ったとされる、神龍の治める世界じゃ」

 そのとき、何かの鳴き声がした。鳥じゃない。今までに聞いたことのない……これは。

「うわぁぁぁ‼︎ なんだ‼︎」

 体が浮き上がりそうなほどの突風と共に姿を現したのは八枚羽の巨大なドラゴンだった。

 ファンタジーここに極まれり。

「後は頼んだぞい」

 あまりの強風に体が浮き上がった。しかし、まるで計算されていたかのように、俺の体はドラゴンの真っ赤な背中に落ちる。

「流石にそいつと国まで行くと、みんな驚くからのぅ。国の手前で降ろしてもらう。そこからは歩いてくれの」

「あの‼︎」

 ドラゴンの背中で老人に必死に呼びかける。まだ、なんとか聞こえるみたいで老人はこちらに向かって首をかしげた。

「本当に‼︎ ありがとうございました‼︎」

 老人は穏やかに笑った。そして、静かに親指を立てた。

「あと、この格好どう見てもスナフ……」

 最後の言葉はドラゴンの咆哮によってかき消され、老人には届かなかった。



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