Épisode 19「安心したよ、君が猫嫌いで」


「どうせ猫でも紛れ込んだのだろう。レオナールは早とちりでいけないな」

 ヴィクトルのそんな声が聞こえて、ユーフェは咄嗟に呪文を唱えた。

「そんなはずはない。人の髪が見えたんだ。猫なわけが……」

 しかし、ヴィクトルが屈んで物陰から持ち上げたのは、黒い毛並みが艶やかな、翡翠の瞳をもつ猫だった。

「み、みゃー」

「ほらみろ、猫だったろう?」

「な、本当に猫⁉︎ どこから紛れ込んだんだ!」

 びたんっと壁に張りつく勢いで、レオナールが後ずさりした。その反応にはヴィクトルも、そして猫に変身したユーフェも、二人してきょとんとする。

「レオナール? まさか君」

「ヴ、ヴィクトル。不審者じゃないならいいんだ。私の勘違いだった。だからその猫、外に帰してあげてくれないかな。できれば今すぐ」

「外に? 夜はもう肌寒いというのに?」

「猫なら大丈夫だよ、きっと!」

「血も涙もない男だな、レオナール。失望したよ」

「そんなこと君にだけは言われたくないんだけど⁉︎ というかなんで猫には無駄に優しいんだい⁉︎」

 自分より扱いが上な気がして、レオナールは涙目で憤慨した。

 そんな彼に、ユーフェはますます面食らう。

「さっきも言ったろう? 俺は優しくしたい奴には優しくする。それだけだが?」

「し、知らなかったな、君が猫好きだったなんて」

「俺も知らなかったよ。君が猫嫌いだったなんて」

 こんなに愛らしいのにな? とヴィクトルがユーフェを自分の目線の高さまで持ち上げた。

 交わった視線が、なんだか恥ずかしい。だってヴィクトルが、とても嬉しそうに自分を見つめてくるから。

「安心したよ、君が猫嫌いで」

「どういう意味かな? というか、それ以上それを持って私に近づかないでくれ。本気で頼む。いや頼みます」

「そう言われると近づけたくなるんだが……」

 じり、とヴィクトルが距離を詰めた。

 後ろがすでに壁のレオナールは、それ以上行けないとわかっていても、必死に後ろに下がろうとする。

 その様を見て、ユーフェ再び。

(レオナール殿下が、不憫すぎる……!)

 トラウマとか、もう何それ美味しいの? 状態である。

 完全に面白がっているヴィクトルは、本当にレオナールの目の前にユーフェを差し出した。

 呆れる。おかげで、その手から逃れる気力もなかった。ユーフェはもうされるがまま、目の前にいるレオナールと対面する。

「ヴィクトルきみ、あとで絶対に覚えてっ……――」

 すると、そこでレオナールの声が止まった。

 あんなにやめろと喚いていた彼が、急に静かになった。それを不思議に思っていると、何かに気づいたように目を張ったレオナールと、がっちり視線が合う。

 あまりに熱心に見つめられて、ユーフェは頭上にはてなマークを浮かべた。

 様子が変わったレオナールに、ヴィクトルもまた、怪訝な表情で彼を見やる。

 二人から似たような視線を送られているレオナールは、しかしそれに気づくことなく、なかば呆然とその名前を呟いた。

「……ユーフェ……?」

 その瞬間、ヴィクトルが自分の手を引っ込める。

 その勢いたるや、思わず彼の手の中にいたユーフェが「ふぎゃっ」と女らしからぬ悲鳴を上げるほどだった。

「レオナール、頭でもおかしくなったか?」

 そう言う割には、彼の声音は硬いけれど。

「あ、いや、違うんだ。その猫、瞳がユーフェと同じで」

「……ああ、綺麗な翡翠だろう?」

「そうだね。それでちょっと、つい、ね」

「つい、か。そういえば君、ユーフェとは知り合いだったな? どんな知り合いなんだ?」

「どんなって……言ったらヴィクトルは、絶対私をバカにする」

「酷いな。俺をなんだと思ってるんだ? バカにされたいならしてやるが、今はそんな気分じゃない。いや、そんな気分じゃなくなった。早く答えろ、俺が誤って君を殴る前に」

「なぐ……⁉︎ なんでだい⁉︎ わかった言うよっ。初恋の女の子だよ!」

 レオナールがなかば投げやりに答える。

 その答えを奇しくも聞いてしまったユーフェは、顎が外れそうになるくらい口を開けた。

「へぇ、初耳だな。君の初恋は、オルグレイ侯爵令嬢だと思っていたが?」

「あながちそれも間違ってないけど……」と前置きをして、レオナールが観念したように語る。

「ユーフェは小さい頃、何度か一緒に遊んだことがある娘でね。いつも私の後ろをついて回る姿がかわいくて、笑うとまるで花が咲いたように愛らしくて。いつしか私は、彼女を自分のものにしたいと思うようになったんだ」

 これはもう、口を開けて固まるレベルではない。それが本当なら、ユーフェは今すぐ人の姿に戻りたいと思った。

 戻って、「嘘つき!」と平手打ちの一つでもお見舞いさせたい。

 しかしそのとき、ユーフェを抱くヴィクトルの手に、ぐっと力が込められる。

 どうしたのかとそっと見上げれば、なんだかんだいつも笑っているヴィクトルが、珍しく表情を失くしていた。息を呑む。

「でも、彼女はそうじゃなかったんだ。彼女には別に好きな男がいて、なのに、私にも『好きです』なんて言って、私を弄んでいたんだよ!」

 悲痛な声だった。だからこそ、ユーフェは困惑する。

(ど、どういうこと? 私、弄んでなんかない。あのときは本当に、レオナール殿下のことが好きだったのに)

 ヴィクトルといい、レオナールといい、あっちにもこっちにも動揺させられて、ユーフェの頭は今にも爆発しそうだ。

「ヴィクトル、君も気をつけるといい。もし君がユーフェを狙っているなら、彼女は君のことも弄ぶだろうね」

 ガン! と、頭を鈍器で殴られた気分だ。あまりのショックに、ユーフェは言葉を失った。

 初恋の王子様に裏切られたと思って、あのときも傷ついたけれど。

 今のほうが、よっぽど深く傷つけられた。まさかレオナールが、自分をそんなふうに思っていたなんて。

 しかも、それをヴィクトルに告げるなんて。

「みゃっ、みゃあ!」

(違う、私は、誰も弄んだりなんかしてない!)

 抗議も含めて暴れれば、ヴィクトルが優しく背中を撫でてくれる。

「大丈夫だ。わかってるから、落ち着け」

「みゃあ……っ」

(でも……っ)

 他の誰でもない、ヴィクトルにだけは、誤解されたくないのに。

「一つ聞くが、レオナール」

「なに?」

「それはユーフェが言ったことか?」

「え?」

 ヴィクトルの質問に虚をつかれたのか、レオナールは一瞬置いて、答える。

「えっと、違うけど」

「なのに君は、それを信じたのか? ユーフェに『好き』だと言ってもらっておきながら?」

「ち、ちょっとヴィクトル? どうしたんだい? なんか顔が怖いんだけど」

「もとからこういう顔だが」

 その寒々とした声音に、レオナールだけでなく、ユーフェもぶるりと身体を震わせる。

 怒っている。それは間違いない。

 ではいったい、彼は何に怒っているのか。

「ほら、答えろレオ。それで? 君はどこの誰ともわからん奴の言ったことを、ユーフェよりも信じたと?」

「なんか棘のある言い方だね……。でも、どこの誰ともわからない奴じゃない。言ったのは、フラヴィだよ」

(フラヴィ⁉︎)

 驚き半分。でもやっぱり、と。納得が半分だった。

 ヴィクトルが鼻で笑う。

「変わらないな。オルグレイ侯爵令嬢だろうと、他の誰であろうと、君がユーフェを信じなかったのは間違いない。彼女に『好き』だと言われておきながら? 俺はまだ一度も言われてないのに? なぜおまえみたいな泣き虫が俺より先に言われてるんだ。納得いかない」

「はあ⁉︎ 意味わかんないんだけど! ていうかヴィクトル、今私のこと『おまえ』って言った? それすら気を遣わなくなっちゃったの⁉︎」

「おまえなんかおまえで十分だ。全く、こんな奴のどこがよかったんだ?」

 まるでユーフェに尋ねるように、ヴィクトルは手の中の猫に話しかけた。

 ドキリと心臓が跳ねる。まさか、彼が自分の正体を知っているはずがない。

 適当に「みゃー?」ととぼけてみせる。といっても正直なところ、今のユーフェは、レオナールのどこがよかったのかちょっとよくわからなくなりつつあったけれど。

「ほう、とぼけるか。それなら、俺に何をされようと仕方ないよな? 悪いのはユーフェなんだから」

 猫に語りかけるヴィクトルを、レオナールは頭のおかしな奴でも見るような目で見やる。

 しかし、彼が本当に驚いたのは、その次の瞬間だ。

「こんなに腹立たしいのは初めてだ」

 そう言って、レオナールの目の前で、彼が黒猫にキスをした。

 ただの動物とのふれあいだ。動物愛護者の中には、そうやって愛情を深める者がいることをレオナールも知っている。

 けれど、今レオナールが見たのは――いや、

 そんなかわいらしいものではない。

 獰猛な獣が己の所有物を明確にする、牽制も含めたキスだった。愛おしそうに猫を見つめるヴィクトルの瞳が、男のレオナールでもドキリとするほど、たっぷりの色気を含んでいて。

「み、み、み……」

「ふん。ざまあみろ。過去とはいえ、君が余所見をするから悪い」

「みゃーーっっ‼︎」

 全力の猫パンチを食らったヴィクトルは、頬にまた一つ、引っ掻き傷をもらったのだった。


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