Épisode 17「さて、面白くなってきたな」


 バタン。

 フラヴィの部屋から出てきたヴィクトルを、フランツが顔中にしわを寄せて待ち構えていた。まるで潰れたブルドッグだ。

「ぶふっ。おまえ、その顔はないだろう」

「どんな顔ですかまた面倒事を持ち込んでくれた主人に心底怒っているというか呆れている顔なら自覚しておりますが」

「ああ、ああ、わかった。それだそれ。そんな顔」

 適当に答えてやると、フランツが大げさなほどに頭を抱える。

「あなたっていう人は……! よりにもよって、今度はレオナール殿下の婚約者ですって⁉︎ 日頃から常々申し上げておりましたよね⁉︎ 頼むから面倒な相手だけは選ばないでくださいって!」

「聞いた聞いた。耳タコだな」

「ふざけてる場合ですかっ」

 歩き出したヴィクトルの背中を追いかけながら、フランツはなおも言い募る。

「どうするんですか。相手は侯爵令嬢ですよ。それも他国の。うまく揉み消せなかったら、あなたがあの令嬢と結婚することになるんですよ⁉︎ ていうかもういい、結婚しろ!」

「おまえ……俺はおまえの主人だぞ?」

 なのに「結婚しろ」とは、なかなか肝の据わった従者である。

「そう思うのなら少しは私の苦労を顧みてください!」

 フランツが本気で泣き出しそうになるものだから、ヴィクトルは仕方ないなと肩を竦めた。

「大丈夫だ。この件においては、おまえに苦労はかけない」

「は? どういう意味です?」

「おまえは俺を盛った獣とでも思っているんだろうが、獣にも選ぶ権利はあるということだ」

 ますます意味がわからなくなったフランツは、首を傾げた。手を出したくせに、選ぶも何もないだろう。そういうセリフは、手を出さなかった場合に有効なのである。

「……え? あれ。ちょっと待ってください。じゃあもしかして……」

「さて、面白くなってきたな」

 悪い顔でニヤリと口端を上げるヴィクトルに、やはりフランツは頭を抱えた。過去、己の主人がこの表情をしたときは、ろくでもないことばかりが起きている。その未来を憂いて、彼はまた泣きそうになった。


 *


 夕食の時間になっても、フラヴィはその席に顔を出さなかった。

 伝言に来た侍女曰く、体調を崩して寝台に臥せっているという。どうして彼女が寝台に臥せっているのか、考えたくもないフランツである。

「コルマンド伯爵、大変申し訳ありませんが……」

 伝言を聞いたレオナールが、言いにくそうに言葉を濁す。

「わかっておりますとも、殿下。食事の後は見舞いに行かれるがよろしいでしょう」

「ええ、そうします」

 それからゆったりと、コルマンド伯爵夫妻を主宰とし、レオナールとヴィクトル、リュカ、ユーフェという、こんなことでもない限り二度と揃わないだろうメンバーでの夕食会が始まった。ちなみに、嫡男のダニエルは事情も事情なので、ここにはいない。

 ユーフェは席の中でも末席にいるため、斜め前にいるヴィクトルを極力視界に入れないよう、ひたすらお皿と格闘した。

 さすが伯爵家だけあって、運ばれるコース料理はどれも美味しい。

 でも、そのどれもが、ユーフェにあの光景を忘れさせてくれない。フラヴィの部屋に入っていった、ヴィクトルの姿を。

 しばらく経っても、彼が部屋から出てくることはなかった。その中で二人が何をしていたかなんて、初心なユーフェでも想像に難くない。

 つまりフラヴィの言うところ、彼はフラヴィを選んだというわけである。

(じゃあもう二度と、彼に会ってはいけない……?)

 ぼんやりと考えながら、出された食事を黙々と口に入れていく。意識の外では和やかに会話を交わしている声が聞こえるが、ユーフェの耳には言葉としては届かない。

 けれど、このときにはもう、ユーフェは意外と落ち込んではいなかった。ぼんやりとしているのは、必死に考えているからである。

(結果は、だいたい想像どおりだったわ)

 そうやっていつも、ユーフェのお気に入りは妹にとられていったから。むしろとられないことがなく、フラヴィがあの宣言をした時点で、ユーフェは実は諦めていた。ヴィクトルはとられるのだろうと。

(わかってた。わかってたから、別にこの場にフラヴィが現れなくても、傷ついてなんかない。仕方ないの。それはわかってる)

 長年の妹からの支配が、ユーフェをそういう人間にした。とられるのは仕方ない。諦めろ。妹は自分よりずっと魅力的で、自分にはそれが足りなかった。だから自分も悪いのだろう。

 そう言い聞かせて、必死に心を守ってきた。今だって心を守っている。

 でも、今までと違うのは、そこで終わりにしなかったことだ。

 今までのユーフェなら、諦めてそこで終わっていた。

 そして今のユーフェは、一人の男によって、少しだけ前を向けるようになっていた。

(でも、二度と会ってはいけないなんて、どうして守らなきゃいけないの?)

 もう逃げないと決めたユーフェは、あのあと、枕を涙で濡らすのではなく、ずっともんもんと考えていたのだ。

 ヴィクトルがフラヴィの誘いに乗った。ならば、彼はフラヴィを拒絶しない。フラヴィとの約束を守るのなら、ユーフェは二度とヴィクトルと会ってはいけないのだろう。

 ただそう考えたとき、どうして律儀にそれを守らないといけないのか、疑問が沸いたのだ。侯爵家にいたときは、あとから両親に怒られた。フラヴィの言うことを聞きなさいと。ときには殴られたこともある。

 けど今は、誰もいない。父も、母も。見て見ぬ振りをする、侯爵家の人間も。

 だったらどうして、フラヴィとの約束を守る必要があるのだろう。前を向き始めた彼女は、その結論に達した。

 自分でもわかる自分の変化に、彼女は一種の光を見た気がした。

 だから、落ち込んでばかりはいられないのだ。女の闘いには、相当の精神力が必要だと本に載っていた気がするから。

(今は食べる。とにかく食べて元気を養うのよ。このあとにでも、わ、私から、誘えるように)

 人付き合いの経験値が少ないユーフェが、考えて考えて考え抜いた結果が、それである。

 とられたのなら、とり返せ。

 やはりこれもまた、いつか見た本の中に書いてあったことだった。

(とり返せということは、私も彼を誘えばいいってことよね? とり返すってそういうことよね?)

 誰かに意見を求めたいところだが、如何せん、こんな相談ができる友人をもっていない。まさかリュカに相談できるはずもなく。

(が、頑張れ私。ここで頑張れば、何かが変わる気がする……!)

 食事中、彼女がそんな決意をしていたなんて、内心でユーフェの料理を恋しく思いながら食事をしていたヴィクトルには、知る由もないのである。


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