37.島のお嫁さん

 島に光り輝く青い果実がたくさん実る時。

 極早生の青い蜜柑が旬。島の蜜柑農家が収穫で忙しくなる時だと聞いている。


 美湖も蜜柑狩りにおいでと、密柑山近くの住民からよく声をかけられる。


 しかし、それどころではなくなっていた。


 日が短くなった初冬。二階の部屋、自分の机にモニターが光ったままのパソコン、そして美湖はベッドに横になってすやすや眠ってしまっていた。


『相良、論文、そろそろ仕上げろ。広瀬教授との約束だろ』

 吾妻の念を押す声が聞こえる。


『ひさしぶりだね、相良君。お父さんとお会いしましたよ。期待以上に離島診療に邁進してくれて嬉しいよ。評判もいい。さて、論文はどうかね』

 今度、吾妻と早苗の結婚式が挙げられる。美湖も晴紀も、島のみんな、そして美湖の父や広瀬教授も招待されていた。


『吾妻君の結婚式の時に見せてもらおうかな。いや、急かさないよ。間に合わなければ、当初の約束通りに年内に――』

 横浜から瀬戸内の離島に赴任する時に、『論文を仕上げておくように。優先的に見させてもらう』と教授が言ってくれた。


 見させてもらう――の意味はまだ計りかねている。人より先にチェックしてくれるのか、優先的に取り上げてくれるのか。しかし院内で権力を持っている教授からそう言われたことは医師としてもチャンスでもあった。離島へ赴任するにあたり、条件が呑めたのはそれもあったし、吾妻の勧めでもあった。


『俺も希望を叶えてもらうことで赴任した。相良も声をかけてもらったなら、それをチャンスにしてこっちにこい。損はない』

 チャンスてなんだ。漠然としていた。でもそのまま瀬戸内に来た。

 それはいつか清子に言ったとおりに『打算』も多少あったが、心は『もっと違う世界を見てみたい』。横浜というずっと過ごしてきた隔離されてきた世界から出たかった、なにか一人で始めたかった。


 それがまさかの『結婚』?


 ―― センセ。また、ここで寝ちゃって。

 そんな彼の声が聞こえたけれど、もう美湖は眠たくて眠たくて、気にしないで寝返りを打っただけ。




 ぱちりと目が覚めると、そこは眠ったはずの部屋ではなかった。

 美湖の二階部屋は海側にある。机にパソコンを置いて、仕事で使っている。そして海が見える窓辺にベッドがあって、そこで眠ったはず。


 でも潮騒が遠く聞こえる部屋。それでも夜明けなのか、窓辺は薄青く明るくなってきていた。

「あれ――」

 あたりを見渡して気がついた。すぐ隣に素肌で眠っている晴紀がいる。

 え! 向こうの部屋で眠っていたのに、いつ、いつ、私、この部屋に来ちゃったの??? 困惑した。


「えー、覚えていないなあ。いつ、こっちに歩いてきたっけ?」


 むっくりと起きあがる。喉に渇きを感じて、ひとまず飲み物を探した。それも海側の『先生の部屋』に置いてきたようだった。


 ベッドを降りようとした時だった。


「起きたの、センセ」

 素肌で眠っている晴紀も寝返りを打って、美湖へと向いた。

「ねえ、私、こっちまで歩いてきたの覚えていないんだけれど」

「あ、俺が先生を抱いて連れてきたから」

「え、そうなの! 全然、気がつかなかった」

「すげえ熟睡していたみたいだな、めっちゃ重かった」


 溜め息をつきながら、晴紀が頬杖をついて頭だけ起こした。


「そんな無理してここまで連れてこなくても。放っておいてくれていいから」

「嫌だ。センセ、ほうっておくとあっちの自分の部屋で毎晩眠ってしまって、せっかく作ったこっちのベッドルームに来てくれないから」


 あ、そういうことか――と美湖はなにも言えなくなった。


「先生が論文を仕上げている間は無理に抱こうと思わないけれど。なんにもしなくても、せっかく一緒に暮らし始めたんだから、そばに匂いぐらいは感じたいよ」

「ごめん。今夜こそ眠くなる前にこっちのベッドルームにと思っていたんだけれど。凄く眠くていつのまにか」

「責めているわけじゃないよ。俺が寂しくて勝手に連れてきただけなんだから」


 わー、なんなの。なんでこんなに素直に言ってくれるの!? 美湖のほうが顔が熱くなってしまう。


 そういうかわいい男の顔をされると、美湖もたまらなくなる。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 

「美湖先生、顔に出ていますよ。婚前同居でお疲れの顔」


 一人診察を終え、ひと息ついている時に愛美にそういわれ、美湖はデスクでびくりと硬直する。


 晴紀にプロポーズをされてすぐ、清子と父に報告すると、両家共々すんなりと婚約を許してくれた。


 その後すぐ、清子が『こちらでいっしょに暮らしたら。お母さんは一人で大丈夫だから』と晴紀と美湖が診療所ハウスで生活することを勧めてくれた。

 喜んだのは晴紀で、母親の許可を得るとすぐさま診療所ハウスの二階にある美湖が放っていた荷物で倉庫化していた部屋を片づけ、ベッドをオーダーして部屋に入れてしまった。


 海側の部屋は美湖の書斎となり、放っていた少し大きめの道側の部屋は二人の寝室になった。

 だから晴紀がいまはその部屋で寝起きをするようになって、美湖も濃厚で甘すぎる婚前生活を始めたばかり。


「幸せいっぱいなのは、良いことですけれど、患者さんにも気がつかれちゃいますよ」

「え、目に隈とか? 論文仕上げているからだよ」


 愛美がじとっと見ている。


「眠そうなお顔てことです。あくび、いっぱいでていますよ」


 わ。美湖は口元を手でふさいだ。


「だから論文――」

「先生だけのせいではないんですよ。だってハルの浮かれようが目に見えていて、もう~なんていうか。先生があくびしていると、島のみんなはそう想像しちゃうでしょう」

「ハル君、そんなに浮かれているの? 似合わないなあ」

「もの凄くはしゃいでいるわけじゃなくて、いつもふてぶてしい顔しているくせに、もうにこにこしているからみんなに気がつかれちゃうんですよ」

「それ、わかるな。ハル君、島に来た時めちゃくちゃ怖い顔していたから」


 愛美が『ぷ』と噴き出した。それがいまはにっこにこだから、誰でもわかっちゃうんだと。


「でも、仕事中の欠伸は確かに気をつけます。すみません、仙波さん」

「よろしいのですよ。相良先生」


 そう言い合って、また二人でいまさら名字で呼び合うのくすぐったいと女同士で笑いあった。


「それにしても、早かったですね。まさか結婚しようまでぶっとぶとは思いませんでした」

「私もそう思ってる。ハル君がいつのまにかそのつもりだったなんて……。それに、私も、こんなすんなり『はい結婚しましょう』と思えるなんて、島に来た時には想像できなかったよ」

「私はすっごく嬉しいですよ。ハル兄が過去から抜け出して前を向き始めて、清子さんもとっても嬉しそう。大好きな美湖先生が島のお嫁さんになる覚悟をしてくれて。島の皆さんもそう思っています。診療所も安泰だって」


 その安泰を聞くと美湖は胸が痛んだ。まだそう決まった訳ではない。


「広瀬教授はなんとおっしゃっているのですか。もう美湖先生をここ担当に固定してくれるんですよね。相良のお父さん先生だって通ってくれることになったんですから。ここは父娘で結束ですよね」


 それにもすぐに答えられない自分がいた。


「今度、吾妻先生の挙式に松山まで来るから、その時に今後のことを話そうと言われてる」

「そうですか! わー、楽しみですね。吾妻先生と早苗さんの結婚式。ほーんとよかったとこっちまで幸せになります。ハルと美湖先生も婚約したし、幸せ続きですね!」


 だが美湖には不安がある。あのやり手の教授がなにを考えているのか。

 結婚したいと報告した途端、論文を仕上げて欲しいと妙に急かしてきたのが気になる。

 そもそも結婚しなかったら、美湖を駒としてどう動かすつもりだったのか。吾妻にしても然り。

 自分が点数かせぎと院内政治のために活用している僻地医療サポートと人脈づくりのために派遣した医師二人が、そろって地元の女性、青年と結婚を決めたこともなんと思っているのか。


 忙しければ目をかけている部下の結婚式ですらそっちのけの教授が、わざわざ瀬戸内まで田舎の結婚式にやってくるというのも気になっている。


「先生、結婚式のお洋服、もう決めました? 私、来週、夫と兄と一緒に市街に買いに行くんです~」


 愛美も吾妻と早苗の結婚式を楽しみにしている。


「重見のお家に、外商さんを呼んだらしくて。その時にハル君も清子さんも新調するんだって。私も一緒に見てもらうことにしたの」

「えー! 外商さん、呼んじゃったんですか。でも外商さんだと自分の目で選べないのが難点なんですよね~、すっごく良いもの持ってきてくれるんですけれど」


 百貨店の外商さんがやってくるのが当たり前のおうちが、ここらにあって、美湖はどんだけ金持ちのお家だらけなんだよと苦笑いを密かに浮かべる。


 特に愛美の兄は、市街の港にいくつも不動産を引き継いでいて、港にあるタワーマンションのオーナーだと聞いて美湖はびっくりしている。愛美の婚家である仙波家も市街に不動産やら山やら持っていて、愛美はあっさりしている女の子だが本当はすっごいセレブになってもよいお嬢様で奥様だった。


 よく聞けば、愛美の兄は超がつく遊び人で、港のタワーマンションの一室に夜のお姉さんたちをたくさん呼んでは、よく遊び倒しているらしい。

 島では素朴で漁に勤しんでいて、青年会リーダーのしっかり者のお兄さんだと思っていたら、市街に出るとかっこいい御曹司ばりに大判振る舞いで女の子にモテモテなんだとか。


 美湖も往診中に彼に会うと、よく晴紀と妹の愛美のことを話題に会話をかわすが、頼りがいあるお兄さんと言った風貌しか感じず、特に美湖は女として変にカマをかけられたことはない。

 あ、あれか。年上のかわいくない女には興味なかっただけか――と自分で分かって笑ってしまう。


「お兄ちゃんも落ち着いてくれるといいんだけれど。市街滞在専用の兄のマンション部屋に行くと、いっつも違う女がベッドにいるんですよね~。たまに妹とわかるまですっごい敵意剥き出しの女がいて、絶対にあんなの義理のお姉さんになってほしくない。実家の嫁になるなて思っちゃって。実家の両親も頭を痛めてます。兄ちゃん仕事とかお金を回すのはすっごい出来るだけに、なにも言えないみたいで」


 成夫は東京の大学を卒業して暫くはこちらも東京で勤めていたらしい。数年して晴紀同様跡取りとして島に帰ってからは、その時の経験を活かし自分の財を管理することで、漁をしながら悠々自適に暮らしているとのことだった。

 それでもリーダー格の成夫と、まっすぐでしっかり者の晴紀、そして温厚で人脈がある愛美の夫、圭二の三人は、これからこの地区と島を支えていく青年として、島民が既に頼っている雰囲気も感じていた。


 その青年たちの嫁取りがまた島の目に晒されるとのことだった。

 そこのあたりは、美湖は女医として認められていて、逆に『よかったー、これで先生も島の人や』と喜ばれている。だが、それがまた美湖には不安でしかない。


 とにかく、広瀬教授に会わないことには。そして論文をしあげなくてはならない。



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