22.ドクター離島


 男の皮膚の匂いが媚薬のよう。汗の匂いも、その肌の味も、くっつく感触も好き。

 海からの潮風で幾分か涼しくかんじて眠っていると、そばにあったはずの熱が遠のいていくのに気がついて、美湖は目を覚ます。


「ごめん、センセ。起こしてしまった」

 裸の晴紀が、素肌のままベッドのふちに座っている。

 美湖も乱れた黒髪をかき上げながら、むっくりと起きあがる。

 時計を見ると三時だった。

「漁の、時間?」

「うん。行ってくる。先生はちゃんと朝まで眠ったらいい」

 でも美湖は素肌でいる男の背中に、自分も素肌のままそっと抱きついた。

「寝不足で……、船で事故、しないで……」

「しないよ。外航船に乗っていたら、もっと不規則なシフトだ。夜中の航行も慣れているよ。それより先生も寝不足になって、診療に支障が出ないようにな」

 振り向いてくれた晴紀が美湖の頬を撫でながら、キスをしてくれる。そのキスも軽くはなくて、少し名残惜しそうに、奥まで濃厚に……。気怠い眠さと熱いキスのまったりとした甘さに、美湖もうっとりと彼の唇を愛した。


 身なりを整えた晴紀が出て行った。そして美湖はまたひとり、素肌にタオルケットを巻いて眠りに落ちる。

 朝、シャワーを浴びると、乳房の先がつきんと痛んだ。晴紀の印。湯が滴り落ちる中、美湖はそっと自分の白い乳房を両手で持ち上げ、突きだした赤い胸先を見つめる。そこを愛してくれた男の顔、目、まつげを思い出して。


 後日、晴紀がまた二週間の島外の仕事にでかけていった。


 


・・・◇・◇・◇・・・




 今年の盆も帰省しなかった。毎年のこと。帰省するなら年末年始。実家とはそれ以来だった。

 母から『お父さんが怒っている』とメッセージが来たが『仕事だから仕方がない』とだけの返信しかしていない。


 海辺や港の水辺に海月くらげがふわふわ見える時期。盆も過ぎると、少し海と空の色が優しくなる気がする。


 午後休診日、定期的に往診しているお年寄りのご自宅へ訪問した帰り。往診の日は、ラフなカットソーやティシャツにパンツスタイルにして出掛けている。大きなつばの帽子をかぶって、水分補給のスポーツドリンクも忘れずに、ドクターバッグを片手に美湖は白衣を羽織って海辺を歩く。


 港にある診療所までの岸辺はテトラポットの磯辺。残暑厳しい中でも、海風が暑さを凌いでくれる。潮の匂いにも慣れてきた。遠い水平線まで幾重もの大型船舶が行き来しているのを眺めながら、晴紀がいま乗船している船がこのあたりも通過するのだろうかとふと考えてしまう。


 そうして彼を想う時、美湖の胸の先が痛む。彼の甘噛みの感触がいつまでも残っている。


『センセ、セックスに無頓着なのは留守にする俺にはちょうどいいかも』

 なんて、生意気な顔で。またスーツを凛々しく着込んで出掛けていった。

『美湖先生がいるし、ほぼ毎日、先生の昼飯を作りに行くし、母も安心しておいていける』

 そして晴紀は最後に言った。『たぶん、母にはばれている』と。まだ清子はいままでどおりに接してくれていて、美湖も息子と恋に落ちたことは見せないようにしていた。



「美湖先生やん!」

 テトラポットの影からそんな声。小学生の男の子たちが数名、わらわらでてきた。

 子供たちから親しげに声をかけてもらえるだなんて、いよいよ私も『ドクター離島か』と思ってしまう。


 晴紀がいない間は、ほんとうに色気なしの女医まっしぐら。

 その中に、いま診察に行ったばかりの『石田家』のお孫ちゃんがいた。


「センセー、タケ祖父ちゃんとこ行ってきたんけえ」

「うん、大輝君のおうちに行ってきたよ。じいちゃん元気だったからね」

「食欲ないってゆうとったけん」

「暑いからね。胃腸がちょっとだけ弱っていたから、胃に優しいものから少しずつでも食べるように言ってきたよ。点滴もしておいたからねー」


 タンクトップに短パン。真っ黒に日焼けして元気いっぱい、島の子らしい。美湖も微笑ましくなる。晴紀も子供の時はこんなだったのかなとつい重ねてみる。


 その男の子たちがひそひそと話して、何故か美湖を見てにやっと悪戯げに笑った。美湖もドキリとする。彼らがそろってバケツ片手に近づいてきた。

「センセ、これ知っとるか」

 大輝がテトラポットに立ったまま、港のコンクリートの岸辺にいる美湖へとバケツを差し出した。


 その中に、なにかがいっぱい入っている。


「なに、これ」

「亀の手なんよ」

 白黒のちょこちょこと指が生えている小さな手がこれでもかというぐらいに入っていた。美湖は絶句、顔面蒼白になって叫んだ。


「ちょーっと! なにやってんのよ!! 亀、亀の手をちぎって遊んでるの! 虐待じゃない、これ!!」


 島の子たちの大胆な遊び方に、美湖はショックを隠せない。なのに彼らは『ほらみろ、やっぱ驚いた』、『都会のお医者さんは知らんのじゃ』と笑っている。

 こら! いくら海の子島の子、昔ながらの遊びでも、これは絶対に絶対にしちゃだめ! こんな遊びを受け継いできたのかこの島は、大人たちに島外から来た人間の目線として抗議してやる――と美湖も息巻いた。


「なに騒いでんじゃ、おまえら」

 漁協の岡氏がちょうど通りかかった。

「岡さん!」

 美湖が会うなりすごい形相で食いついたからなのか、岡が『なんや先生』と後ずさった。

「島ではこんな遊びを許しているんですか。岡さんもやっていたんですか!」

「は、なんのことじゃ」

「この子たちのバケツをみてくださいよ!」

 逆に今度は子供達が焦っている。岡氏が子供達のバケツを覗いた。

「あー、カメノテか。俺も子供ん時、よう取ったわ。母ちゃんが茹でてくれてな」

「岡さんまで! しかも茹でて食べるんですかぁ~……」

 もう気絶しそうな思いで、美湖はおもわずふらついてしまう。あれ、ハル君と清子さんは私が島外から来たから、きっと食べないだろうと思って出さなかっただけ、だけ?


「あー、わかったわ。おまえら、美湖先生にちゃんと説明しないで驚かせたんやろ」

 ちゃんと説明? なんの説明? だけれど子供達が今度は神妙に揃って頷いていた。

「こんな怒ると思わんかったけん」

「都会から来たから知らんおもうて、ちょっと驚かせたかっただけなんよ」


 大輝に他の子供達がごめんなさいと謝ったので、美湖はますます訳がわからない。


「先生。これな、貝なんや。亀の手に似とるやろ。そやから、カメノテという名がついとるんよ」

「貝……?」

「貝の仲間つーかな、甲殻類」


 え、そうなの。と、子供達と見てしまう。子供達がうんうん頷いていた。


「うちで茹でてやるけん。もうここからあがれや。母ちゃんたちにテトラポットでは遊ぶないわれとるやろ」

「そうなんですか。私、父と兄と一緒に沼津まで釣りに行ったら、テトラポットに乗っかって遊びましたけれど」

「このご時世、厳しくなっとるからな。子供たち見かけた聞いて、見回りにきたとこやったんよ。漁協のテリトリーやけんな。なんかあったら漁協の責任てなってまうんや。だからとて叱りたあないけれどな、学校から気をつけるよう言われてるもんやけん」


 島でも子供の遊び方には厳しくなっていて大変と聞かされ、美湖は子供達と一緒に岡家へついていくことになった。

 だが子供達がテトラポットから港の舗道、岸辺に上がろうとしたが一人の男の子が転んだ。その子が立ち上がった時、ギャーと泣き始めた。


「おっちゃん! 悠斗がフジツボで手を切った!」

「めっちゃ、血が出とる!!」

 岡と美湖もびっくりしたが、岡がすぐにテトラポットに飛び降りて、泣いている男児へと駆けていく。

「ほんまや。わ、ちょっと深いかもしれんな」

「岡さん、はやくこちらへ!」

 子供達が、ほうや美湖センセがおったとまたざわついた。


 岡が悠斗を腕に抱き上げて岸辺に上げてくれる。美湖もすぐにそばに座らせて、悠斗の手を診る。

 すぐにドクターバッグを開けてガーゼを取り出す。患部を押さえ止血をしながら、傷口を見た。


「大丈夫。切ったばかりで出血しているだけ。消毒をして応急処置をしよう。お母さんに連絡して、診療所でもう少し詳しく見ようか」

「うちすぐそこや。先生、暑いけんそっち行こう。おう、悠斗。おっちゃんがおぶってやるけん」

 悠斗の腕にガーゼを当て美湖も素早く包帯を巻く。それだけで子供達が『はええ、すげえ』と感心してくれる。


「そやからいったやろ。テトラポットで遊ぶ時は父ちゃんか母ちゃんと来い。それか漁協のおっちゃんたちを呼べ。わかったな」

 子供たちがしゅんとしながら、岡氏の後をついていく。

 ほんとうにすぐそこの、港と面しているこちらも古民家なご自宅だった。


 庭の縁側に連れて行ってくれ、よしずの日陰があるところで、美湖はさっそく応急処置する。

「痛いけど、我慢だよ。消毒するね」

 あー、これはちょっと縫うかもしれないなと思ったがここではできない。岡に悠斗の母親に連絡して、診療所に来てもらうようお願いする。


「芳子、これ茹でてやってくれや。スイカか桃あったやろ。あれ、出してやれや」

「あらあ。懐かしい。カメノテやないの」

 岡の妻が出てきて、バケツの中を見て微笑んだ。

「こいつらこれで美湖先生をからかっておったわ。わしまで先生に子供の時にこんな酷い遊びをしていたのか、子供達に継いできたのかと怒られたわ」

 芳子がそれを聞いて笑った。

「まあ、あんたら。なにも知らん先生を驚かせたんかね。そら怒られるわ」

「ま、美人に怒られるのも悪うなかったわ」

「はあ、なにゆうてんのお父ちゃんは、もう!」

 奥さんに頭をぺしりと叩かれたが、芳子は子供たちに待つように伝えてカメノテのバケツをキッチンへと持っていった。


 その間に、岡が悠斗の家に連絡をしてくれる。


「先生、すぐ来てくれるってよ。うちの軽トラ、乗っていきや。おーい、芳子。大輝とか子供たち頼んだでー」

 奥から『はーい』という奥様の声だけが聞こえた。

 大輝たち元気な男児は奥様に監督を任せて、美湖は悠斗を連れて診療所へ向かうことに。ドクターバッグに消毒液やピンセットなどの器具セットを閉まっている時だった。


 縁側、日陰になっている畳の古い部屋からおばあちゃんが現れる。

「美湖先生、これ、持って帰って」

 岡の母親、志津だった。高齢ではあるが元気で、たまに薬をもらうためにお嫁さんの芳子と診療所へやってくる。往診もよくさせてもらっていて馴染んできたところだった。


 その志津の手には、松山銘菓のタルトと桃。


「先生、好きやろ。じいさんの仏壇に備えておったもんやけど、持って帰って」

「ありがとう志津さん」


 心なしか足取りが頼りなく感じた。受け取るために握った手も熱い?


「志津さん。どこか調子よくない?」

「まあ、この暑さじゃけん。しょーもないわ。ちょっとぐったりしとるだけやけん。美湖先生の声が聞こえて、出てきてしもうたわ」

 そう言われると美湖もつい頬が緩んでしまう。

「先生。悠斗が痛がっとるんよ。もう行くで!」

 急かされて、美湖も軽トラックへと向かった。


 


 悠斗の手のひらの傷は専用の固定テープにて傷口を閉じることで、なんとかなった。

「もうちょっと深かったら縫っていたよ。気をつけようね」

 大事に至らず、母親もほっとしたようだった。島に来てから、美湖は母親のこのような顔に何度も遭遇している。


「先生、ありがとうございました」

「ちょうど、通りかかりだったんですよ。往診の帰りで。カメノテで驚かされましてね。本当に亀の手をちぎって遊んでいたのかと、それにもヒヤリとしましたよ」

「あれ、おいしいんですよ。甲殻類なので海老や蟹みたいな味がするんです」

「そうなんですかー、ちょーっとすぐには口にできないぐらい、手のリアリティありましたよ」

 機会があれば是非と悠斗ママが笑う。悠斗も落ち着いたようで、帰りは笑って母親と帰っていった。


 気がつくと夕方になっていた。静かな診療所にひとり。誰もいない、来ない。また診察室でもくもくと雑務をこなす。窓辺が暗くなり、心なしか夜風が涼しくなったように感じる。


 遠い漁り火が見える窓辺で、美湖は晴紀を思う。いま、どこにいるの。瀬戸内海を往く貨物に乗っているとわかっていても、いま彼はそばにいない。


 往診した時のカルテをパソコンに記録しようとドクターバッグを開けた時、志津から桃とタルトをもらったことを思い出す。

 白衣のままキッチンへ向かい、冷蔵庫に桃を入れる。冷えたら寝る前に切って食べようと思いながら……。


 ふと、不安に駆られた。


 診察室に急いで戻った美湖は、またドクターバッグに薬剤と機器を補充。灯りを消して戸締まりをして外に飛び出した。


 走って走って、息を切らして向かったのはすぐそこの港。漁船が並ぶ水辺に立ち並ぶ古民家を目指す。そして岡氏の家へ。


 玄関のチャイムを鳴らすと、岡が出てくれる。

「岡さん、あの志津さん……」

 もう一度よく診せてほしいと言おうとしたら。

「ちょうどよかった先生! ばあちゃん、めまいみたいなの起こして倒れてぐったりしたままなんよ。呼びに行こう思ってたところや!」


 心臓がどくんと大きく動いた。やっぱりあの時、もっとよく見ておけばよかった。でも不安が当たった!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る