20.面倒くさがりやのセックスレス

 晴紀の車に乗ってこの部屋を出る。空に微かな茜が差し始める。

 車で港の駐車場へ向かう間、黙っていた晴紀がハンドルを回しながら、躊躇うように美湖に聞く。


「センセ、えっと。その、これからなんだけれど」

 なにが言いたいかわかって、でも晴紀自身が『罪を背負っている』から自分から言えずにいる。だから美湖から。

「夜ならいいよ。二階の部屋」

「なんか、自分が作った診療所に来た女医さんとそんなことしていいのかと思って」

「じゃあ、今日みたいに一ヶ月に何回か市街に出るようにして、一緒に過ごす?」

「一ヶ月に数回?」

 晴紀が顔をしかめる。自分の中にあった思いと異なっているようだった。

「あ、もっと頻繁にエッチしたいってこと?」

「だから! どうしてもう……、センセはそう、直接的に言うんだよ!」

「だって。やっぱりハル君は若いんだなあ、元気なんだなあと。一ヶ月に数回じゃ我慢できないのかと思って」

 晴紀が顔を真っ赤にして黙ってしまった。男として止まれなかったことに今になって照れているようだった。


「センセ、だってさ……。凄かったじゃねえかよ。女のそういうの初めて見たから」

「私も……、初めてだったかな」

 また晴紀が非常に強ばった真顔で黙ってしまった。

「えーっと、初めてじゃないけど、初めてだったんだ」

「うーん、あんなふうには滅多にならない。それにセックスももうしなくていいと思っていたし、三年ぶりだったかな」


 運転をしていた晴紀がギョッとしてこちらを見た。


「三年ぶり!? え、センセ……、同棲していた彼と別れたのは一年前だっただろ」

「だから……、その彼ともしなくなっていたんだって……。別れるまでの二年はセックスレスだったんだって」

「それが別れた原因!?」

「……やっぱりそうなのかなあ。なんとなくしなくなっちゃって。最後に彼が『俺のことを愛していない』とキレた時に、え、やっぱりエッチが必要だったの? とは思ったかな」


 晴紀の車が信号で止まる。そして晴紀もハンドルに額をくっつけて唸っている。


「センセ……、そんなことまで、めんどうくさがっていたのかよ」

「五年も一緒だと、一緒にいるだけで充分と思っちゃって。むこうだって求めてこなかったし、たまにしても、ぜんぜん感じなくなっちゃっていたし」

 まだ晴紀がハンドルにつっぷして脱力している。

「そりゃ……、そのカレシ、怒るって。男から言えなくなることもあるって」

「やっぱり、そうだったのかな。彼も必要なさそうだしそれならいいかなと思ってた。私もセックスに楽しさとかなくなっちゃっていたし、彼と別れてからも、もうセックスなくても生きていけると思っていたんだよね」


 信号が青になり、やっと晴紀がハンドルから顔を上げ、アクセルを踏む。

 目の前に海が見えてきた。もうすぐ港――。夕の色が映えてきた水面を見つめている晴紀が呟く。


「じゃあ、なんで、俺と……」

「だから。私も驚いている。ちゃんと欲しいし、出来るんだ、感じるんだって。『レス』じゃなかった、私。ハル君だから、だったのかな。素敵だったよ」


 車内がシンとした。

 助手席にいる美湖の車窓は海の色。晴紀の車が駐車場へ向かっている。


「センセの、部屋に行くな」

「うん」

 すんなり美湖も頷いていた。


「そうしないと、センセ、めんどくさがりやで俺のことも『なくていいや』って、忘れられそう」

「あ、それはあるかもなー。素敵だったけれど、別にあってもなくてもいいもんね」

 また晴紀が怒った顔になる。

「なんだよもう! そりゃカレシも出ていくわけだ!」

「そうそう。美湖はかわいくないってその時も言われましたー」

 またしっとりした空気を美湖がぶち壊したので、晴紀がぷんぷんしながらハンドルを回しているのを、つい笑って見てしまっていた。


「もうセンセはかわいくなくていいよ。……そういうところが、俺もけっこう気が楽なことあるから」

「別に、男のために自分を変えるつもりもないし。よろしくね」

「なんか、ぜんぜん、嬉しくない『よろしくね』なんだけれどっ」

 それでも晴紀がちょっと照れてうつむきながら言った。

「俺は、絶対にセンセに忘れられないようにするから。忘れられないように会いに行く」


 もうそういう、大人の顔をしているくせに、かわいいことを言ってくれちゃうから、美湖もきゅんとしてしまう。そしてかわいくないことが口に出てくる。


「患者と急患が最優先、それと、論文に集中している時は素っ気なくなるかも」

「もちろんだよ。あそこは診療所、俺たちが先生にお願いした仕事なんだから。わかってる」


 かわいくなれなくて出た言葉だったのに。晴紀が真剣に返してきたから、申し訳なくなってしまった。

 黒いHUMMER(ハマー)を駐車場に置いて、ふたり一緒にクルーザーを停泊させているマリーナに向かう。


 港町はマリンスポーツをする人々がよく見かけられるせいか、スイムウェア姿のハルと美湖が歩いていても誰も気にしない。


 また鴇色の夕凪。マリーナの水際を歩いている時も、晴紀がさりげなく美湖の腰を抱き寄せて、寄り添って一緒に歩いた。


 感じているよ。私もちゃんと。甘い空気。こんなに暑い夕なのに、晴紀と寄りそう伝わってくる彼の体温。熱くても全然平気。潮の匂いがするその胸元に、美湖もそっと寄り添ってしまった。


 


・・・◇・◇・◇・・・


 


 夕陽でオレンジ色に輝く海を往く。

 また美しい色彩に美湖は包まれる。船首の操縦席には操舵を持って波しぶきを散らしてクルーザーを動かしている青年の姿。


「綺麗だねー、ほんとうに、なにもかも綺麗」


 美湖がそう言っても、晴紀はなにも言わないで、またオレンジ色の水平線と燃える夕陽を見据えている。


「センセ、グリーンフラッシュて知ってる?」

「グリーンフラッシュ?」


 晴紀の目は美湖へ向かない。ずっと燃える夕陽を見ている。綺麗なまつげも夕焼けにそっと艶めいている。でもその眼差しも表情ももう優しい。


「日が昇る時、沈む時。一瞬だけ緑色に光ることがあるそうなんだ。それがグリーンフラッシュ。外航船で長く航海をしていると、大きな海原でたまに見られるらしい」

「滅多にみられないの? 赤い太陽なのに緑の光?」


 晴紀が頷く。


「そう滅多に見られない。それを見られたら幸せになれるんだという、船乗りがいつか見てみたいと思っているものだよ」

「幸せになれるかはともかく。滅多に見られない現象なら、それを見られただけでやっぱり幸せだね」


 美湖の言葉に、晴紀が嬉しそうに微笑んでくれる。


「それを見たかったな。いまは、センセに見せたい。俺は見られなくても――」


 やだ。そんな健気なこと言われると……。かわいくない先生でも泣いちゃいそう。美湖はつい夕陽を眺めるふりをして、操縦している晴紀から背を向けてしまった。


「そんなもん見られなくても、幸せになれるよ!」


 でも。自分が見たかったものを、先生に見せたい、自分は見られなくてもいいからなんて言ってくれる男の気持ちが美湖には切なくてしようがない。

 晴紀はもう俺はそれを見られないだろう。見る資格もないだろう。でも先生にはその資格があるからそうなってほしいと言われているようで。


 この罪を心に刻んで生きている青年と一緒に、これからも。美湖もそこは心に刻む。


 クルーザーが島のマリーナに到着した頃、ちょうど日の入りになり、あっという間に海が紫色に鎮まっていく。




 船から桟橋へ移ろうとするその前に、薄暗くなったマリーナ、クルーザーの甲板で晴紀に抱きしめられる。

「ハル君……」

 後ろから抱きしめられ、美湖もそっと肩越しに振り返る。

「嬉しかった。でも……」

 でも……。その先が言えずに憂う声色。美湖もそっとうつむき、自分の両肩を囲う逞しい男の腕に顔を埋める。

「先のことはその時に。今は今で一緒にいよう」

 その腕にそっとキスをした。

「明日、おいでよ」

 そう答えると、やっと安心したように晴紀が離れた。我に返ったようにして気後れした顔で、美湖の手を取ると、そのまま桟橋へとあげてくれる。

 帰ろう。診療所に。

 またそこで、いままでとは違う彼との毎日が始まる。美湖の手を引く青年、晴紀の手に任せて。一緒に帰る。


 

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