12.先生はまだ知らない

 また、ハルが来た。


 午後診療の前にダイニングで昼食を取っているところに、『本日のお家のお手入れ報告』として晴紀が勝手口に現れる。『センセ、昨日も一昨日も冷凍のうどん食っていたな』と気がつかれてしまい、冷蔵庫を開けろと迫られた。


「センセ、どうしてまた冷蔵庫が空っぽ寸前になっているんだよ」

 この前は凛々しいスーツ姿でかっこよかったのに、まただらりとしたラフなティシャツ短パンの島男に戻ったハルに睨まれている。

「だって、まだ生協の配達の日じゃないから」

「その生協で頼んだものを計画的に使ってる?」

 すぐ食べちゃうかなー、あるいは腐らせちゃったかな。もしくは、たくさん買ったようで買っていなかったり、一週間分のものを買うバランスというのがよく掴めていない。美湖は自分の管理不足を知られたくなく、ぷいと顔を背けて黙り込む。


 また目の前で、年下の男の子に呆れられてしまう。

「それで、また買い物出不精になって空っぽ寸前なのか」

「島での買い物、すっごく難関なんだけれど」

「ああ、わかるよ。行こうとすると誰かが訪ねてくるんだよな? 休診の時も往診に来てくれって頼まれちゃうんだよな? そうだよな?」

 それのせいだけにも出来ないなと、美湖はまた黙り込む。めんどくさくて行かないのも、多少ある。だけれど、もう彼にはお見通しのようだった。


「わかった。また俺が買いに行くけれど! 俺にも買えないものあるだろう。そういうのないの」

「生理用品とか? それはちゃんと買いだめしておいたから大丈夫」

 またハルが顔を真っ赤にして仰天した顔に。

「だから! そういうことを、臆面もなく言うなって!」

「恥ずかしがる歳でもないし。あ、ごめん、若いハル君が恥ずかしいんだ」

「年齢は関係ないだろっ。女の慎みとかないのかよ」

 慎み? 美湖は首を傾げる。

「ちゃんとした女性としての大事な営みなのに? 恥ずかしがらなくちゃいけないの? 子供が産まれるのに大事なことだよね」

「だから、医者目線で言うなって。一般的な目線で考えろって……! 俺が言いたいのは、女の子が好むシャンプーとか、そういうもんは女性の目で選んだほうがいいんじゃないかって言いたかったんだよ」

「そっちは別になんでもいいけど」

 まったく意に介さない美湖を見て、また晴紀が唸りながら吼えた。


「もう、ほんっとに、先生はかわいくねえ!」

 本日もいただきました。ハル君からの『かわいくねえ』。美湖も溜め息をついた。


「まー、確かに。ちょっと欲しいもの自分で覗いてみたいから、今日は行ってみる」

「そうしたほうがいいよ。先生のプライベートだって大事なんだからな」

「うん、運転する気が起きたら行ってみる」

 またハルが冷蔵庫に手をついて『はあ』と溜め息、うなだれている。

「絶対に、絶対に、面倒くさくなって行かないか、その間に呼ばれて往診に行くか診察しちゃうかになっちゃうだろ」

「可能性大かなー。明後日には生協来るし、あるもので我慢できそう。食べ物以外は、ネットで取り寄せられるから困らないんだけれどねー」

 彼がまたあの険しい眼力で美湖を射ぬく。

「今日、夕方。診療時間が終わったら迎えに来る。誰か来る前にとにかくすぐに、うちの軽トラに乗って商店街に連れて行く!」

「閉店までギリギリじゃない」

「それでも行く! 短時間でも買い物の時間を作るんだ!」

 断ったらまた、きっつい言い合いになりそうだと思った美湖は、本心は『ちょっと買い物したい』でもあったので素直に頷いてしまった。


 


「センセ、待合室で待ってるな」

 診療時間終了十分前に、ほんとうに来た。

 最後に来ていた小学生の女の子を診察している時に、顔を見せた。

「晴紀君、勝手に診察室を開けないでね。レディがいるんだから」

 小学校六年生の女の子がくすっと、付き添いのお母さんと一緒に笑ったから、またハルが顔を赤くした。

「あ、えっと。ひなた、ごめん……」

「ハルおじちゃん、先生に怒られてんの」

 ひなたちゃんが笑うと、ハルもさっさと撤退していったから美湖もつい笑ってしまった。


 海で浜遊びをしていたら腕や足の関節の付け根に湿疹が広がり、痒くなったという箇所を確認。軟膏と飲み薬を処方するが、数日経っても改善しなければ皮膚科へ行くよう母親に説明する。

「お大事に。ひなたちゃん」

「先生、ありがとう。治るまで、海、だめ?」

「そうだね、治るまで我慢だよ。それよりも掻いてできた傷から、またかゆくなっちゃう細菌がでてきて移って広がっていくのね。だから、治るまでなるべく掻くのは我慢しようね。治ったら海で遊んでいいよ」

 よかったとほっとする女の子を見て、浜遊びなんてやっぱり島の子なんだなあと美湖も微笑む。


 ひなたの母親もほっとした様子。母娘の帰宅で、本日の診療は終了。

 雑務を終えて待合室に白衣姿で行くと、ハルが雑誌を眺めて待っていた。


「おまたせ」

「さっさと行くよ、センセ」

 声がかからない内にと支度を迫られる。それを幼馴染みが来てから黙って眺めていた愛美がやっと間に入ってきた。

「もうハル兄はそうして、センセのことばっかり気にしてるんだ~」

 愛美がなにか見透かしたようににんまりと笑っている。途端にハルが素っ気ない顔に固まった。

「だってよ。このセンセ、放っておいたら島で飢え死にしそうなんだよ。不便な生活だって横浜に帰られたら困るだろ」


 いや、私は不便なりに適当にずぼらに暮らしていけるからいまのところ、なんとも思ってないかなと言いたかったが、なんとなく黙っていたほうが平和なような気がしてしまった。


「美湖先生、行ってきてください。私が片づけをしておかえりを待っていますから」

「でも、愛美さんだって帰宅したら一家の主婦なんだから。いまから忙しいでしょう」

 私は気ままな独身。どうにでもなるのだからと思ってのことだった。

「だから先生。たまになんですから。ちゃんと冷蔵庫をいっぱいにしておかないと、またうるさい男につきまとわれますよ~」

「つきまとうってなんだよっ」

 ハルが幼馴染みのからかいに憤ったが、愛美はケラケラ笑っている。

「うん。わかった。つきまとわれないよう、冷蔵庫いっぱいにする」

 美湖も真顔で言うと、おなじようにハルがつきまとってないと怒り出した。それを愛美と一緒に笑い飛ばしてしまった。




 愛美に甘えて、重見家の軽トラックに乗って出発しても、ハルはまだ不機嫌だった。

 助手席で日暮れる密柑山の緑を眺めていた美湖も溜め息をつく。

「まだ怒ってんの、ハル君」

「怒ってねえよ」

「つきまとわれているなんて思ってないって。助かっているって。草刈りもありがとうね。あと……、お母さんと植えてくれた庭のお花の手入れも。すごく癒されている。思った以上に、季節のお花って和らぐね」

 やっと晴紀の不機嫌な表情が緩んだ。

「俺だって……。センセのプライベートに踏み込むつもりはこれっぽっちも……。でも最初から冷蔵庫の食材を保管すること、先生たら自力でできなさそうで……」

「私が適当すぎて、きちんとしているハル君には我慢ならないんでしょ」

「それは、ある……、かも」


 美湖も気がついていた。この子はきっと東京ではしっかり仕事をしてきた男なのだろうと。実家のこと、診療所にした土地と一軒家のこと、そこに招いた医師のこと。きちんと管理してくれている。伯父の会社のアルバイトと島で漁業のアルバイトをこなしながらだった。だから美湖は知らない島に来て多少の不便を感じても、むしろ横浜にいる時より豊かに快適に過ごせているのだと気がつき始めていた。


「私もね、横浜ではそれなりに自立して暮らしていると思っていたけれど。それは横浜だからだったんだろうね。都会に助けられていたんだと思う……。けっこう自分が適当で驚いちゃった」


 横浜の別れた彼と同棲していたマンションでは、お互いに分担してうまく暮らしていた。美湖がだめなところを、きっと彼が上手にフォローしてくれていたのだろう。お互いに不規則だから、食事は外食も多かった。院内で済ませることも多く、自宅での食事はたまに。毎日、炊事を強いられることはなかった。食べることは都会の利便性に大いに助けられていたに違いない。


「センセ……、独り暮らしだったんだろ。その時はどうしていたんだよ」

 日が陰ってきた密柑山を抜けるトンネル道を運転しているハルが、前を見据えたまま、ちょっと遠慮がちに尋ねてきた。

「独り暮らしはここ一年だけ。食事は横浜なら適当に出来るから。それまでは一緒に住んでいた彼と分担だったかな」

 ハルが黙った。しばらく……。また横顔が強ばっていることに気がついてしまう。

「……彼、いたんだ」

「別れたよ、一年前に。彼、もうすぐ結婚するんだ」


 今度は晴紀が目を見開いて、助手席にいる美湖へと向いた。


「先生、大丈夫なのかよ」

「うん。大丈夫」

「大丈夫って……。一緒に住むほどだったんだろ」

「五年ね。でも五年一緒に住んで結婚に至らなかったんだから、それまでの関係だったのよ」

 またハルが、今度は納得できないとばかりに眉をひそめる顔を見せている。

「五年も、別れたとしてもこれっぽっちも未練がないっておかしいだろ」

「五年、平気な生活になっちゃったから……。彼が出て行ったと思ってる。私がよくても、彼がよくなかったの。私はそれで納得している」

「五年も……、愛しあってきたんだろ……」

「それすらも、もう……、惰性だったんじゃないかな。あって当たり前で、彼はそれが嫌になったんだと思う。私はあって当たり前で惰性でもぜんぜんなんとも思っていなかった。そんなところが嫌になったんじゃないの? そういう惰性にも無頓着なの、私らしいと思わない?」


 ハルが釈然としないといいたそうにハンドルを操作する姿のまま、またなにも言わなくなった。


「センセ、らしいかもしれない……。ごめん、いろいろ聞いてしまった」

「ううん。私もハル君のおうちのこと、この前教えてもらったしね。横浜に未練ないのかって思ってる? 思ってないよ。こっちに来て良かったと思ってる」

「ほんとに……? 大学病院にずっといたかったんじゃないの、センセ」

 今度は案じてくれる顔。大人の男の顔をしているけれど、こういう真っ直ぐで純情そうなところが時々かわいい男の子に見えてしまう。

「そこはね。おっきな病院の大人の事情。流れに逆らわないのも大人」

「院内事情は俺にはわからないけれど……。美湖先生が不利になる状況にはなって欲しくない」

「大丈夫。吾妻先生がいるから。あの先生もいうことばかり聞いている大人しい医師ではないから」

 それならいいんだけれど。と、やっと晴紀がほっとしてくれた。


 島中心の密柑山を貫くトンネル道なら、島を半周するよりあっという間の時間。なんとかスーパーの営業時間に間に合った。

 そこで美湖はおもいっきり買い物をして、晴紀に荷物持ちをしてもらう。いっぱい買い込んで軽トラックの荷台にも乗せる。

「なんだかんだいって、いっぱい買ったじゃん。センセ」

「あー、やっぱり現物みると買っちゃうね!」

 食材から生活雑貨から買い込んで、さあ、帰ろうとトラックに乗り込んだ時だった。

「あ、母ちゃんに頼まれていたものがあったんだ。ちょっとセンセ、待っていて。すぐに戻るから」

「うん。いいよ。待ってるからゆっくり行ってきて」


 晴紀がひとりでスーパーに入っていく姿を見送り、美湖は助手席でスマートフォンを眺める。吾妻から毎度の『大丈夫かー、困っていることないかー』というメッセージに大丈夫との返信をしておく。


 あとは実家の母から。突然、瀬戸内の島へ赴任することになりとても心配していた。ふだんそれほど帰省しない美湖だったため、家族と顔を合わせるのは一年に一回あるかないかだったが、それでもすぐに帰省できる横浜にいたからなにも言われなかったのもある。それが、いきなり、海に囲まれた四国となれば、さらに瀬戸内海のど真ん中にある島となれば、さすがに母もすぐに会えないと案じてくれたようだった。


 母が新茶を含めて荷物を送ってきたのも初めてだった。御殿場の医院ファミリーである家族は、末っ子の美湖が僻地医療に着任したことに騒然としているとか。一度も顔を見せずに赴任したため、特に父が呆れているとの報告だった。


 知らなかった……。いつも実家の医院家業で、両親も兄も嫁いできた義姉たちもいっぱいいっぱいでいい大人になった美湖のことは気にしていないと思っていたから。遠く瀬戸内に一人で来て初めてわかったことだった。


 

『あれ、西の港にできた診療所の女医さんやろ』

『ほうや、ほうや。重見さんとこの息子さんやったな、いまの。重見さんとこの土地に診療所つくった言うとったけん。ハル君が世話しとるらしいよ』


 助手席で静かにもの思いに耽っていると、トラックの背後からひそひそとした話し声が聞こえてきた。トイレの前にあるベンチに座っている初老女性たちの井戸端会議?


『このまえの台風の時、小嶋さんとこの成夫ちゃんが肺に穴開いて呼吸できなくなったの、あの女医さんが処置してなんとかしたって』

『吾妻先生の教え子やってね。それは西の地域も安心やね』


 島に来てもうすぐ二ヶ月。よく耳にするようになった自分の噂話だった。


『若い先生やね。ハル君よりちょっとお姉さんらしいけどな』

『都会からきたけん、あかぬけとるわいね。やっぱり。ほなら、ハル君もちょっと気になるかもしれんね』


 なんだか、あらぬ噂に展開しそうだなと美湖は密かに苦笑いを浮かべていた。またどうせ若い男と女が一緒にいるだけで話されそうな噂でも出来上がりそうな雰囲気。


『そやけど。晴紀君はあかんわ……』

『ほうやね。ハル君はなあ……』


 聞き耳を立ててしまっていた美湖は、その会話に固まる。スマートフォンに夢中なふりをして、そっとそっと耳を澄ます。


『まだあの事件で疑いが晴れておらんのやろ』

『おらんのやろね。そやから清子さん、引きこもっとるんじゃろ』

『そら、外に出られんくなるわ。死にたくなるわ』


 美湖の心に、とてつもない胸騒ぎが。心臓がドキドキしている。清子がそうなった訳が、晴紀から聞いた話の他にあるってこと?

 それを、おばさま方がついに囁く


『同僚を死なせてしまったんやもんな』

『ほうよ、殺人事件で捜査されたんやろ。晴紀君に容疑がかかって』


 スマートフォンを持っていた手の力が抜けてしまう。

 思わず、足下にそれが落ちていく。


『人殺し言われて、東京の商船会社やめたんやろ』

『そう、島に帰ってきたんやもんね』


 最後、彼女達の目線が美湖へと揃って向いた。


『先生、まだ知らんやろうなあ』


 ハルが人殺し?

 心臓の激しくなる鼓動がやまなかった。

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