10.口が悪くて生意気

 その日の夕方、美湖が頼んだ買い物を、ハルがお願いしたとおりに買いそろえてきてくれた。

 勝手口に置いて帰るとさっと姿を消してしまったようだった。


 それからまたしばらく……。彼を見なくなる。


 しとしとと雨が多い梅雨だったが、合間に晴れると島の空気が澄んでいて、とても心地よい。

 あの台風接近の暴風雨の被害も収まり、トンネル道は通行止め解除になり、愛美の兄『成夫』も退院した。怪我をした作業員のその後についてはなにも聞かない。そういうものだった。

 だけれど、島にその話が流れたのか、以前より診察待ちの島民が増えたように思えた。

 『成夫ちゃんを助けたんだって』、『足切断になりそうだった作業員をなんとか助けたらしいよ』、『さすが、吾妻先生が呼び寄せた教え子やね』。そんな囁きがされていると愛美が教えてくれた。


「どうやら、わざわざ東側や、海周りの集落からも来ちゃってるみたいですね。診療所のちょっと先に港のバス停があるじゃないですか」

「意味ないじゃない。東側へ通うのが大変だから、西側に診療所つくったんじゃないの」

「そうなんですけれど。でも診てもらうところが多いのは良いことです。それに……、女性は特に女医さんに相談したいという方、多いと思いますよ」

 なるほど。そういえば女性の診察が激増していると美湖は思った。

「今日は午後休診だね。はー、今日は往診もないし、ゆっくりしよう!」

 診察が途絶え、美湖がデスクで伸びをすると、愛美が笑った。

「でも、美湖先生。かっこよかったって、漁協の岡さんたちが言っていましたよ。クールビューティーだって」

 それを言われると美湖はまた、あの日、ハルがそっとしてくれた夜明けを思い出してしまう。


「だから……、医師は、外科医はみんな出来るんだって……。それに、愛美さんもわかってるでしょう……。少し遅れたら、あの、男性の足……」

「そんなこと。私たちの間で、そんなこと……。きりがないですよ」

 愛美も美湖の気持ちが通じているようで、しょんぼりと項垂れている。

「そうだね。そう、ずっと……そうだった」

「そうですよ」

 きっと。この島に来るまでに互いに勤めていた大病院で毎日毎日起きていたこと、わかっていて何度も飲み込んできたことを思い出している。二人揃って。


 なのに。島は恐ろしい。助かったかもしれないものが、簡単に手からすり抜けていく。ただ島にいるだけで。海が人の当たり前を遮る。でも彼らはここで暮らすことを選んでいる。




 午後は休診になり、この診療所での勤めもだいぶ慣れてきたと、静かな午後を美湖は迎えていた。

 二階の部屋の窓を開けると、すぐ目の前にある海が久しぶりの晴れ間に青く輝いていた。

 大きなタンカーと貨物船が水平線に見えるそこで、美湖は仕事の書籍を読み漁る。書きかけの論文のファイルを開いて、ノートパソコンに向かう。


『論文、仕上げておけよ。きっと優遇してくれるよ。広瀬教授が……』

 吾妻に言われた。言うことを聞いて島に来たから、教授の戦略の駒として従順に動いたから、きっと。

 それに期待して保証されるものではないとわかりつつ。でも、三十過ぎると、そんなことを飲み込めるようになる。それを世間は大人になるともいう。


 実家は茶畑に囲まれた田舎、富士の麓。父も兄二人も医師だった。父が開業した個人医院ではあるが、その地域では入院設備がある病院として根付いていた。

 父と兄二人がそれぞれの専門で担っている。兄二人は既婚で、義姉たちもしっかりとお嫁さんとして実家を支えている。


 父も母も、子供達に医師になることを強いたことはない。もっと他の視野が広がるような仕事をすればいいと大らかなものだった。なのに兄二人は医師の道を選んだ。美湖はその家族を眺めてきた。自然と自分も医師になっていた。

 父や兄の白衣姿、聴診器で患者をみる姿。地域の人々に頼られている姿を見てきたせいだろう。

 でも。その地域では目を引く医院とはいえ、父と兄二人がいれば充分。末っ子の美湖までもがそこに入る隙はなかった。だから大学病院にいるまま邁進するしかなかった。


「邁進ってなによ」

 自分でそう思いついて冷笑する。

 高い目標を持ってなにがなんでもやってきたわけではない。だからとて、人の命に向きあう日々を疎かにしたつもりもない。興味あること、なんとかしたいことについては無心で取り組んできた。

 ただ医師であるがために。父や兄とおなじでいたいがために。そこに崇高な精神はないから、美湖は美湖を嘲笑う。


 こんなだから『大人の事情』にも冷めていて、どこにいても同じだと思えて遠い瀬戸内海に来られたのかもしれない。


「でも、いい風。いい色」

 窓辺から見えるものは、蜜柑の花同様に贅沢なものだった。しかも窓辺に蔓薔薇が伸びてきて、赤くて小さな花がちらちらと揺れて見えたり、診療所の入口には雨露にひかる紫陽花があったり、毎日なにかしらの彩りが美湖の心を和らげている。

「さて、いまのうちに」

 久しぶりに自分ひとりの時間を集中。


 どれぐらい経ったか。日が傾き始めた頃、庭からなにか作業をしている音が聞こえた。

 二階の窓から見下ろすと、壁の角で麦わら帽子がひょこひょこ動いているのが見えた。鎌が動いているのも見える。庭の伸びた雑草を刈ってくれる姿。

 ハル君だ。

 美湖は急いで階段を下りた。


 ひとりにして――と、らしくなく号泣してしまった夜明け。それから彼に会っていない。買い物してくれたものもそっと置いていってくれただけで、姿も見なかった。

 もう二週間ぐらい経っている。一階のダイニングに降りた美湖は勝手口に置いたサンダルをつっかけて、外に出る。壁を回って庭へ出るその角で、草刈りをしている背中を見つけた。


 ハル君! この前はごめんね。みっともない姿、見せちゃったね。そっとしてくれて、ありがとう。そう言おうと決めていた。

「……は る、くん?」

 ちょっと感じが違う。ごつっとした肩のラインではなくて、ころっと丸くて小さな背中?


 麦わら帽子が振り返る。精悍な青年ではない。初老の女性。

「あら、相良先生」

 え、どなた? 美湖がただひたすら訝しんでいると、その女性が立ち上がってにっこりと微笑んだ。


「晴紀の母です。重見清子です。息子があれこれすみません……」

 え、ハル君の、お母さん! 美湖もびっくりして、背筋が伸びる。


「いえ、ハルく……じゃなくて、晴紀さんにはいつもお世話になっております。島に来てわからないこと助けていただいて」

「でもね。あの子、気が強くて口が悪くて生意気でしょう」

 さすが、母親。よくわかっていると美湖は笑いたくなったが、それでも可愛い息子だろうから堪える。

「私も口は悪いし、生意気だってよく言われます」

「あら。だからかしら。先生のお手伝いに行くと言って、帰ってきたらあの子すごく機嫌が悪い時があったの。先生、あの子にガツンと言ってくださったのかしらと思って」

 あー、きっとそうです。と、美湖は苦笑いをこぼしつつそう言いたくなった。

 そんな申し訳なさそうな美湖の思っていることなどお見通しなのか、清子がくすっと可愛らしく笑う。


「いいんですよ、先生。大人のお姉さんにガツンと言われるぐらいが、あの子にはちょうどいいと思って黙ってみています」

「いえ、あの……。晴紀さんとぶつかって、その、私も初めて気がついたことや反省していることはいっぱいあるんです」

「まあ。では、先生にもちょうどよろしかったのかしらね」

 うふと柔らかく笑ったその表情、彼の母親にも品が窺えた。農作業の割烹着ともんぺ姿で麦わら帽子、ほんとうに田舎のお母ちゃんみたいな姿なのに、表情に品がある。晴紀もそうスーツ姿は品があった。不思議な感触。


「あ、先生。お休みのところ、勝手におじゃましちゃってごめんなさいね。この一週間でものすごい勢いで草が伸びているみたいだったから、つい」

 雨が降って緑の草がぎゅんと伸びていたことには気がついていた。でも、なんとも思わなかった。田舎のそこら中、草むらだらけなので、そんなもんだと思っていたから。しかし、一軒家に住むということはそんなことに気がつかなくてはならなかったのだと、適当に暮らしている大人の女として急に恥ずかしくなってきた。


「申し訳ないです。気がつかなくて……」

「よろしいのよ。都会でマンション暮らしが長かった方にはなかなか気がつかないものですよ。そのうえ、相良先生は患者さんに集中していただきたいですから。うちの土地ですからお気になさらず」

「手伝います」

 すでにラフなパンツスタイルになっていたので、美湖もお母さんの側にしゃがみ込んだ。

「いいんですってば。先生は中でお休みになっていて」

「いえ、そういうわけには……。あ! お母さん。先日、バラ寿司の朝ご飯、ほんっとうに美味しかったです。ありがとうございました」

「まあ、良かったわ。あんなことしかできなくて……。大変だったでしょう。成夫君も何事もなくて良かったわ。作業員さんも助かったようね。先生がこちらにいらしてくださって、良かったわ、ほんと」

 そのことになると、美湖の心はまだ痛みを覚える。

 お母さんの手のそばにある雑草を美湖も素手で引き抜く。

「いいえ。運が良かったんです……、私が……」

 波がある程度収まったから救急艇が来た。しかも吾妻の機転で急いで西側の港に来てくれた。吾妻という凄腕の先輩がいたから、あの患者は搬送中もなんとか耐えられ、市内病院での処置も間に合った。美湖がやったのは初期的な止血だけ。

「先生。島はそういうものですよ」

 優しい手だった。背中に小さくて柔らかい感触の手が置かれて、そこからじんわりと熱が伝わってくる。


 こんなふうに、母ぐらいの年齢の女性に労ってもらえたの。いつぶりかと思ってしまった。


「母ちゃん! いないと思ったら、ここにいたのかよ」

 その声に、清子と一緒に美湖は振り返る。

 そこには、また黒いスーツ姿のハルがいた。

「晴紀。お帰りなさい」

 しかもその母の隣で草を一本引いただけの美湖がいて、ハルが驚いている。

「美湖センセ、なにやってんだよ」

「えーと、草抜き……、手伝ってません」

「は? 手、汚れてんじゃん。先生はそういうことしなくていいから」

 さらにハルが母親を険しい目で睨んだ。美湖に真向かうときと同じ眼力!

「母ちゃんも、俺が留守の間は無理すんなって。熱中症で倒れたり、また骨折したりしたらどうするんだよ」

「うるさいわね。ちょっと動く気になったのに。また引きこもっちゃうからね!」

「か、母ちゃん?」

 かわいくて品の良いお母さんがぷんとすると、晴紀のほうが呆気にとられていた。

 だが美湖はいままでまったく姿を現さなかった彼の母親にもなにか事情があったのではと初めて思ってしまった。

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