#42





 ●





 先生が死んだことは、リエからの電話で知らされた。

 進行性の胃がん。発見から逝去までわずか二ヵ月だったという。


「聞こえてる? お姉ちゃん、私の声、聞こえてる?」


 リエの声が薄く、受話器の向こうから響いてくる。

 しかしそれは声として認識されることなかった。単なるノイズに過ぎなかった。


 うるさいな、


 とエリは思った。だからワーカムの通話遮断ボタンを押した。そして主電源を切った。世界とつながるラインが、それで、かんたんに途切れた。


 エリはたったひとりで、座敷にへたり込んだ。

 そして、混乱した。

 あの砂浜での出来事の後、まだ先生に会っていなかった。

 その意味では、まだ、抱いてもらってさえ、なかった。

 心を開け放ち、初めてなにもかもをさらけ出した相手は、何の脈絡もなく何の前触れもなくエリの人生の舞台から退場してしまった。

 さよならの一言も告げず。

 ありがとうの一言も告げられず。

 先生は、まるでろうそくの炎を吹き消すようにはかなく、エリの前から姿を消してしまった。


『―――癌なんだ。

 元気そうに見えるけど、多分あと半年。酒は飲めるけど、おでんのような柔らかいものでなくては、胃が受け付けなくてね』


 あれは少しも冗談なのではなかったのだ。

 先生は自分の死期をきちんと知りながら、私の相手をしてくれたのだ、とエリは気づいた。

 だから私を最後まで抱かなかったのか。

 だから私を最後まで、愛さなかったのか。

 去り行くことが分かっていたから。

 残された私が、取り残されぬよう。置き去りにならぬよう、必要以上には立ち入らせなかったのか。


 思えばエリが何もかもをさらけ出すようには、先生はその腹の底を明かさなかった。

 エリはまるで、父親に甘える娘のように、成人してから初めて、誰かにすべてを包み隠さず受け渡した。先生は微笑をたたえてそれを受け入れ、そして何も批評せず、留保もなくそれを受け止めてくれた。


 両親の時は喪主までつとめたエリだったが、先生の葬儀には参列しなかった。

 リエはそれをエリが打ちのめされたせいだと思った。

 確かにエリは打ちのめされていた。

 が、先生の葬儀の日は、街を離れていた。先生の知人の列に並びたくはなかったからだ。先生がどんな仲間に囲まれ、どんな社会生活を送っていたのか。そんなことには全く興味が持てなかった。

 先生とエリはあの磯の見える別荘でだけつながっていた。あるいはあの銀色の小糠雨の降る砂浜でだけ。あるいはあの、おでんバァでだけ。

 それ以外の思い出は、もう必要がなかった。





 ●





 目の前で、小さな炎が揺れている。

 ぱち、ぱちと、生木のはぜる音がして、時折暗闇の中にオレンジ色の光点が心細げに立ちのぼって、揺れては消えてゆく。


 月もない、暗い夜だ。


 砂浜で拾ってきた、完全に干乾びた枝をくみ上げ、エリはひとりで焚火たきびをしている。

 季節は初秋。

 すこし肌寒い夜。

 見上げれば、天の川が空に大きくかかっている。アンドロメダとカシオペイアが天空に広がっている。

 そして振り返ると、砂浜から少し丘を上がったところに、あの先生の別荘が見える。明かりは灯っているが、屋内に人影はない。

 あれから人を頼って、エリはあの先生の別荘を買い付けた。それはリエにも言っていなかった。


 折に触れてこの場所を訪れては、エリはひとりで時間を過ごすことを好んだ。

 秋の気配が訪れるこの頃、エリは別荘の前の砂浜で、ひとりで小さな火をおこした。

 大きな石に腰かけて、時折長い枝で薪の位置を変え、炎の勢いを一定に保つ。

 まるで生き物のようにエリになつき、その些細な心遣いに敏感に反応する炎。

 夜の闇の中にほのかに赤く、心を落ち着かせる力を持つ。まるで先生のように。


 エリはこうして折に触れ、その別荘を訪れては、うしなってしまったものをいつくしんだ。

 夜の窓辺に座って何時間も、月に照らされた海を見ながら、先生がここで何を想い、何に心を動かしたかを想像した。

 さみしさに耐えられなくなるとこうして、砂浜に出て焚火をした。


 気が付くと、月は東からずいぶん西のほうに場所を移し、潮は磯をずいぶん手前まで満たしていた。

 寒さも、静けさも、すべては親密に思えた。

 そしてエリはそこで、先生もきっと同じように、ここで何をするでもなく時間を過ごしたであろうことを確信した。ただぼんやりと、時の移ろいに目をやって、過ぎ行くすべてを黙って見届けたであろうことに、思い至った。


 その時間をこそ、エリは必要とした

 そしてその時間が、静かにエリを癒した。

 先生が去った傷と、もっと昔に負った、あの地下室での傷を。


 炎はエリに育てられ、静かに燃え続けている。

 暗闇に、オレンジ色のその身を揺らめかせ、熱と音、そして香ばしい匂いで人をあたためる。





 ●





 それから2年の月日がたち、先生が予言した通り、エリがどこかに置き忘れてきた心の破片ピースを持った男が現れた。


 彼は世界の辺境で傷つき、すさんだ眼をしていた。

 そして誰をも、愛することができなくなっていた。

 エリは最初、彼がその人なのだと気づけなかった。

 しかし、あの時、モンステラのプリント柄のワンピースを何気なく買い求めた瞬間に、天啓のようにエリは気づいた。


 自分が、その男を捕まえなくてはならないのだ、ということに。

 その男に、自分が抱きしめられなければいけないのだ、ということに。


 それから彼女は持てるネットワークを総動員して彼を探した。結局見つけたのは、ほんの偶然のきっかけであったが。

 そして彼女の前に現れた男は、エリと同じぐらい、心にとした空洞を持っていた。

 アコースティックギターの弦の振動音が、サウンドホールで共鳴し、美しくひとの耳に響くように。

 心にぽっかりとした穴を持ったエリと柏木は、互いの過去を共鳴させながら、たちまちのうちにひとつにつながっていった。






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