第7話 『ごめん』じゃなくて『ありがとう』
「ここは……」
視線の先にあるのは見知らぬ天井……ではないな。
一応数年間お世話になった一ノ瀬家の部屋の天井だろう。
畳の藺草の香りが心を落ち着かせてくれてくれるようだ。
天井が見えていて、布団の上に仰向けになっていることをぼんやりとした意識で理解する。
でも、ここにいる理由がわからない。
俺は道場で康介さんから稽古を付けてもらって、休憩中に凛華と喧嘩して、挙句の果てに試合をして……。
「……凛華」
「どうしたの?」
「ひゃいっ!?」
独り言に反応を返されて、驚きのあまり変な声を出してしまった。
声が聞こえた方向へと首を傾けると、道着ではなくラフな部屋着に着替えた凛華が隣に座っていた。
「タオル変えるよ」
額の上に乗っていたタオルを手に取って、水を張っている桶へと入れた。
水音がパシャパシャと聞こえて、よく水気を絞ったタオルが再び額の上へと乗せられた。
ひんやりとしたタオルが火照っている身体から熱を奪っていくようで心地いいと思う反面、どうしてこんなことになっているのかと考えるけれど、思い出せそうにない。
「……凛華。なんでこんなことになってるのか教えて貰っていいかな」
結局、自分で考えることを放棄して、俺は事情をよく知っていそうな凛華へと助けを求めた。
「……梓は、どこまで覚えてる?」
「えっと、言い合いになって、凛華が落ち着いてきたあたりまで、かな」
「ほとんど覚えてるよね、それ。それで、梓はその後に熱中症で気絶したの」
熱かったから身体がもたなかったのかな……?
それは迷惑をかけたみたいだ。
「ごめん、凛華。こんなことになって」
「ううん、いいの。それと、出来れば『ごめん』じゃなく、『ありがとう』って、言って欲しいかな」
気を紛らわすためか、凛華が頭を撫でてきた。
完全に猫みたいな扱いを受けている気がするが、この際いいとしよう。
心配をかけた分だと思えばこれくらいは安いものだ。
……それにしても、『ありがとう』か。
気恥しいけれど、うん。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
こんなに魅力的な凛華の笑顔を見せられたら、その甲斐もあったというものだ。
自然と、俺も頬が緩んだ。
「……梓、それは可愛すぎる」
「へ?」
今、凛華はなんて言った?
俺の耳がおかしくなければ「可愛い」って聞こえた気がするんだが……?
「あ、そうだ。もうお昼過ぎてるけど、お腹空いてない?」
「そんな時間なの?」
掛け時計を見ると、もう一時も回って二時前という時間だった。
つまり、結構な時間をここで眠っていた計算になってしまう。
くぅぅ、と可愛らしい音がお腹から聞こえてきて、それを凛華に聞かれていたらしく、
「お腹は空いてるみたいね。食欲はある?」
今は気分が良くないし、熱っぽい気がする。
そう考えて、額に乗ったタオルを落とさないように首を振って、
「……あんまり食べられそうにない、かも」
「なら、ゼリーとかないか探してくるね。それと、伊織ちゃんにはちゃんと連絡しておいたから」
言い残して、凛華は部屋から出ていった。
パタンッ、と襖を閉めた軽い音が聞こえて、一人になった俺は状況を整理する。
「熱中症で倒れて、それを凛華が運んでくれて……あれ、そういえば、服が違うような……?」
汗まみれだったはずの道着姿ではなく、着ていたのは着替えとして持ってきていた服だった。
同じようなものだが、匂いを嗅いでみても柔軟剤のいい香りがするだけだ。
……着ていた服、じゃない?
とある憶測が脳裏を過ぎる。
「まさか……凛華が俺の服を着替えさせた……?」
状況的にはそう考えるのが妥当だ。
つまり、俺は凛華に裸を見られたということで……。
そう考えた瞬間に、恥ずかしさが津波の如く押し寄せて、冷やされているはずの顔の温度が急激に上昇していくのを感じる。
凛華は女の子で、俺は男ーーあっ、今は俺も外見だけは女の子なんだった。
それなら別にいい……いいーー
「いい訳あるかっ!」
「どうしたのそんな大声出して」
「はうっ!?」
襖が開く音も、足音一つすらも立てずに、いつの間にか隣にいた凛華に驚いて、またしても女の子な反応をしてしまった。
もうやだ、死にたい……。
なんてことを考えてしまい、どこかへ隠れたくなるのだが、身体は言うことを聞いてくれない。
早々に尊厳的な何かを取り戻すことを諦めて、思考をリセットし直した。
そうだ、今気にするべきことは凛華が俺のことを着替えさせたのかということだ。
それは聞かないことには事実として確定しない、いわばシュレディンガーの猫と同じ――
「そういえば汗まみれのままだと風邪引いちゃうから寝ている間に着替えさせたよ」
「……そうデスか」
そんなにピンポイントで心を読まないで欲しい。
反抗的な態度を取ろうにも、凛華なりの気遣いの結果なのだから、責める気にはなれなかった。
「なんでそんな片言なの。大丈夫、今は女の子同士だから」
微妙に慰めになっていない言葉をかけられて、複雑な気持ちになってしまうのは、まだ男だという自覚があるからだろう。
「それよりも、ゼリー持ってきたから食べさせてあげる。起きれる?」
「起きるくらいなら、大丈夫」
お世辞にも体調がいいとは言えず、上体を起こすだけでも手一杯だ。
全身が重くて思うように動かせず、思考もどこか上手く纏まらない。
凛華が持ってきたのは果肉が入っていない桃のゼリーをスプーンで掬って、
「はい、あーん」
俺へと差し出してきた。
……これ、どうするんだ。
どう考えても『食べろ』ってことなんだろうが、俺の中のプライドとか矜持とか、男の尊厳……って、全部同じようなものがゴリゴリと削られていく音が聞こえてきた。
でも、俺は動けそうにないし、凛華の好意を無駄にする訳にもいかないよなぁ……。
仕方なく口を開いて、ゼリーが乗ったスプーンを受け入れた。
「……んむ、冷たい」
非常に食べやすく、もう一口が欲しくなる美味しさで、どこか懐かしい味だった。
「……なんだか昔に戻ったみたい」
「そう?」
「梓が家に引き取られてから、時々体調を悪くしていたでしょ?」
そう言われて苦笑を浮かべつつ、差し出されたゼリーをまた一口。
「でも、最近は身体も強くなってきて、あんまりなかったけどね」
父親が死んでから、康介さんに一時的に引き取られて、稽古をつけてもらい始めたのだが、まずは負荷に耐えられる身体作りからだった。
その過程で何回か体調を崩したりすることがあって、その度に伊織や奏さんに看病して貰っていた。
その頃はまだ凛華とはそこまで仲が良かった訳では無いが、それでも心配くらいはしてくれていたあたり、彼女なりの優しいのだろう。
「それでもいいと思うよ。梓は梓なんだから」
「……そうだね。ありがとう、凛華」
難しいことはわからないけれど、それでも「ありがとう」を伝えたかった。
すると凛華の顔がみるみるうちに赤くなって、
「……狡いよ、梓」
言葉の真意はわからなかったが、甲斐甲斐しく看病をしてくれる凛華の好意を、甘んじて受け入れるのだった。
一度眠ってから起きると夕暮れ時になっていて随分と眠ってしまっていた事実に自分のことながら呆れてしまった。
知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろうか。
寝起きの俺の元に凛華と伊織がやって来て、伊織にやたらと身体の心配をされてしまった。
慌てふためく伊織を宥めていると、「本当に伊織ちゃんの姉みたい」と凛華に笑いながら言われてしまった。
少しばかり心外なことを言われた気がするが、それでも受け入れなければならない事実だ。
それから帰ろうとした俺と伊織は、奏さんに「もう遅いから泊まっていきなさい」と言われて、半ば強引に決められてしまった。
「遠慮は要らないよ。昔のように接してくれると嬉しいよ」
「はい、ありがとうございます」
康介さんにそう言われて、俺も素直に答える。
数年間お世話になったこの場所はとても居心地が良くて、ずっといたいと思ってしまうから。
それでも、今日のところは身体を休めるという意味でもいいだろう。
伊織の負担も減るだろうから、俺としては断る理由もなかった。
夜は奏さんが作った夕食を頂いて、時折伊織がレシピを聞こうとしていた。
それから先にお風呂に入ってきてと言われたのだがーー
「いや、俺は拙いだろ!」
二人にジリジリと追い詰められる俺の姿が、そこにはあった。
その目は餌を前にした肉食獣のようにギラギラとしていて、正直引いてしまう。
「何も問題ないよ、梓姉」
「梓は女の子なんだから、問題なんて起こらないから心配しなくていいの」
至って当然のことを言っているような調子で、二人は距離を詰めてくる。
一方で俺は後ろへ、後ろへと後退るのだが、壁の硬い感触を背中に感じた。
「もう逃げられないよ、梓」
酷く楽しげな笑みで凛華がそう言うのだが、俺は全く楽しくない。
「そもそも、俺は男だぞっ!?」
大前提がおかしいのだ。
俺は男であって、伊織は妹、凛華は言ってしまえば仲がいい『友達』の括りだ。
そんな彼女達と一緒にお風呂に入るなんて考えたことがなかった。
……伊織に関しては最近その節があるように見られるが、上手く躱しているのだ。
しかし、二人はそこで納得してくれなかった。
「……つまり、梓姉は私たちのことをそういう目で見ている……ってことでいいの?」
遂に伊織の言動が壊れてきた。
貞操観念とかそういうのをどこかへ置いてきたのかと言いたくなるが、それは後だ。
「……いや、何言ってるんだよ。俺は何もそこまではーー」
「なら決まりだよ。さ、入るよっ」
伊織の言葉に虚をつかれた俺は、一瞬のうちに距離を詰めていた二人に腕を掴まれて、抵抗虚しくお風呂へと連行されていくのだった。
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