第3話 今の『私』は



 その日は、どんよりとした曇り空だったのを、今でも覚えている。

 太陽の光は完全に雲に遮られて、何か良くないことが起きそうな予感がする、そんな日。


「お兄、どうしたの?」


 ベッドに横たわりながら頭を抱える俺を、伊織が心配そうに尋ねてきた。


「ん、ちょっと頭痛がね。偏頭痛って言うんだっけか」


 頭を押さえながら、そう答えた。

 昔からこういう日は頭痛が酷く、体調が悪くなることもしばしばだった。

 伊織は偏頭痛持ちではないらしく、「大変だね」といつものように声をかけてくれた。


「お薬持ってこようか?」

「……お願い」


 恥ずかしい話だが、俺はどちらかといえば身体が丈夫な方ではなく、伊織に頼ることも多かった。

 これでも兄なのに、と何度思ったことだろうか。

 少しして、伊織が水の入ったコップと鎮痛剤を持ってきてくれたので、直ぐに飲むことにした。

 そして、そのままベッドに横になった。


「俺は少し横になってるよ」


 起きているのはしんどかったのでそう言うと、


「私も、隣で寝てもいい?」

「……いいよ」


 少しだけ迷った挙句、返事をした。

 頭痛のせいか思考が纏まらなくて、抵抗ということをまるでせずに、伊織をベットの中へと招いた。

 兄妹なのだから間違いなんて起きるはずがなかったが、それでも女の子らしい伊織と隣で寝るのは少しばかり緊張した。

 伊織に背中を向けて横になっていたが、ピタリと温かくて柔らかい身体が押し付けられる感触を感じた。

 伊織の突然の行動に驚いてビクリと身体を震わせたのも束の間、今度は腕を首元に絡めてきて密着してしまっていた。


「い、伊織?」

「……今だけ、今だけでいいから」


 震えたようなか細い声が聞こえて、頭の中にかかっていた霧が晴れて、思考に冷静さが戻ってくる。

 伊織だって、まだ十歳になったばかりの小さな女の子なんだ。

 母親がいない寂しさとか、甘えたい欲求とかはあるはずなのに、日々はそれを押し殺しているんだ。

 それを理解してしまって、自分のことが嫌になった。

 一番身近にいたはずなのに気付けなかった自分の鈍感さに、視野の狭さに。

 それから、俺は依然として痛みを訴える頭痛を捩じ伏せながら、伊織が眠るまでじっとしていることにした。

 それで何かが変わるわけではないとわかっていても、せめてものケジメだった。


 いつの間にか眠っていた伊織の規則正しい寝息が聞こえてきた頃には、鎮痛剤が効いてきたのかズキズキとした頭痛はなりを潜めていた。

 結局眠らなかった俺は、伊織を起こさないよう静かにベッドから起き上がって、乾いた喉を潤すためにキッチンへと向かおうとした。

 その時、プルルッ、と携帯電話に着信があった。

 番号を見てみるとダンジョンへと仕事に行っているはずの父親からで、何かと思って直ぐに電話に出た。


「もしもし」

『もしもし、四宮梓くん……で間違いないかな』


 聞き慣れない声が聞こえて、さらに向こう側の騒がしい声が聞こえてきた。

 サイレンのような音や、怒号混じりの声もあって、物々しい雰囲気を感じると共に、ぞわりと嫌な気配が立ち上ったのを感じた。


「そうですけど……どうしたんですか。お父さん……じゃないですよね」

『……そうだね。私は警察のダンジョン探索課、京都支部の一之瀬康介。君のお父さんの同僚なのだが……』


 そこでお父さんの同僚だと名乗った人物は言葉を区切って、一拍置いた。


『……落ち着いて聞いてくれ』


 前置きの後に告げられたのは父親である仁がダンジョンで死んだ、という訃報だった。



 ◇



「梓姉、怒ってる?」

「…………別に」


 一口サイズに切り分けた焼き鮭を口へと運び、咀嚼。

 ホロホロと口の中で解けて、程よい塩気が食欲を掻き立てる。

 そのまま白く輝くご飯を食べると、甘さと塩気が混ざりあってもう幸せである。

 シンプルな料理だが、それだけに調理する人の腕が如実に現れる。

 相変わらず料理が上手いなぁ、と心の中では思いつつも、今は口に出さない。

 今の俺は伊織が言う通り、少々怒っている……と言うよりは、恥ずかしいものを見られてあまり機嫌が良くないのだ。


「……そんなに寝顔を見られるの嫌だった?」

「…………違う。伊織の前であんな顔をして、恥ずかしかっただけ」


 隠す理由もないので、正直に不機嫌の理由を伊織に明かした。

 すると、「ごめん」と軽く謝った後に、


「でも、私は嬉しかったな。梓姉と久しぶりに一緒に寝られて」


 愛らしい笑顔を浮かべたのだ。

 最近は、伊織も俺も笑うことが増えてきた。

 それは俺がこの姿になったことで生活にはまず困らなくなったということも理由としてはあげられるが、何より二人でいる時間が増えたことが大きいと思う。

 仕事で三葉重工へ行ったり、数年前からお世話になっている所で稽古をする時以外は、ほとんど伊織が傍にいた。

 これからは週に何日かダンジョンに行くことになるだろうけれど、それでも一緒に居られるなら、可能な限りはそうしたい。


「確かにそうだな。でも、俺も昨日は助かったよ。あのままだと朝まで起きていただろうから」


 とてもじゃないけれど、あの夢を見た後では一人だと眠れそうにはなかった。

 あれは、俺の後悔でもあって、忘れることが出来ない、一種のトラウマのようなものだから。

 今思い出しても寒気がしてくる。

 もしも、あのままだったら――


「――え、梓姉っ」

「っ、えっと、呼んだ?」


 気がつけば、伊織が俺の名前を呼んでいた。

 どうやら思考がトリップしていたらしく、何も聞こえないくらいに没入してしまっていたらしい。


「箸が止まってるよ。早く食べないと、ご飯が冷めちゃう」

「ん、ああ、そうだな」


 確かに、折角伊織が手間暇かけて作ってくれている朝食を冷ましてしまうのは勿体ない。

 そう思って、ほんのりと温かい味噌汁を啜って、


「今日も美味しいよ」


 日頃の感謝も込めて、伊織に伝えるのだった。

 すると、嬉しそうに伊織は笑ってくれる。

 何気ない日常の一幕かもしれない。

 同時に、手放したくない大切なものなのだと、改めて実感するのだった。



 朝食を済ませた俺と伊織は、外出用の準備を済ませていた。

 鏡を見れば薄らと化粧をした自分の顔が写っている。

 化粧はまだ自分では上手く出来ないので伊織にやってもらっているが、その度に恨み言を言われるのだ。

 やれ肌が綺麗過ぎるとか、パッチリ二重許すまじとか、もうちょっと言葉遣いに気をつけるべきだと兄としては思わざるを得ない。

 しかし、やることはしっかりやってくれるので、こうして無事に出かける準備が整っているとも言える。


「……自分で言うのもなんだけど、可愛いな」


 苦笑を滲ませながら、客観的な評価を自分に下した。

 服装は夏らしいパステルカラーのキュロットスカートと、ノースリーブの白のブラウス。

 襟元には控えめながらフリルがあしらわれていて、シンプルながら可愛らしいデザインになっている。

 黒のキャスケット帽を被って、変装のために縁の薄い伊達眼鏡を着用しているからか、なんだか賢く見える気がする。

 そんな訳で、以前の自分では考えられない女の子らしい格好である。

 伸びる手足は健康的な白さかつ、華奢な身体つきで慎ましくはあるが胸の二つの膨らみが女の子であることを如実に表していた。

 ぷるりと瑞々しさを感じる唇には薄く紅をさしていて、頬もほんのりと桃色に染まっている。

 どこからどう見ても、俺の中では美少女としか言い様がない女の子が、今の俺なのだ。


「でしょ? だからもう少し自分に自信もってくれないと、私がへこんじゃうよ」


 俺の化粧の手伝いをしていたせいで少し遅く準備が整った伊織が、いつの間にか後ろに立っていた。

 伊織はデニム生地のショートパンツと、ゆったりとしたストライプ柄のオフショルダーという、ラフな雰囲気のものだ。

 俺よりも二歳年下――十五歳の伊織の胸はそれなりのもので、中々に主張が激しく、目に毒だ。

 ショルダーバッグを下げていて、紐が胸を真ん中で真っ二つに分断していて、つい視線が向いてしまう。

 自分との戦力差をあからさまに見せつけられているようでなんかイラついたが、やりようのない怒りを心の底へと押し込めた。


「梓姉、日焼け止めは塗った?」

「塗ったよ。……というか、塗らないと酷いことになるの知ってるだろ」


 刺激に弱い白い肌は、日に当たると直ぐに赤くなってしまう。

 前に一度やってしまった時はお風呂に入るのも難しいくらいに赤くなってしまって、さらに熱を出してしまった。

 伊織が甲斐甲斐しく看病をしてくれて、一日かけてようやく熱が引いたのを覚えている。

 そのため、外出をする時は日焼け止めが欠かせないし、なるべく日が強い時間を避けるのが無難だ。

 忘れ物がないか確認して、玄関で靴を履き替える。

 夏らしく、ブラウスに合わせて白いミュールに足を通して、履き心地を確かめる。

 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて立ち上がると、伊織が扉を開けた。


「じゃあ、行こうか。梓姉!」

「……うんっ」


 外での『私』へと気持ちを切り替えて、女の子としての笑顔で答えた。

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