きらいじゃないよ

(少し面倒なことになったな)


トルツァは森の中で一人考えていた。

実のところ、トルツァは始めから長の気配が村の中に無いことは分かっていた。そして、その存在が森の中にあることも。 村からだいたい50ガラナほど離れた、なにやら開けている場所から、長の残り香を感じていた。森に慣れないヒトの足で二時間、トルツァの足だと一時間かからずに着くところだ。長が森に入ったであろう時間から考えると、長がまだ生きているとは考えられない。自分が街に来たタイミング、そこに長の死が加われば街人との間に軋轢ができるには十分だろう。今夜には次に向かう場所の目星を立てておこう。そんなことを考えながら森を進んでいく。湿った表皮を持つ木々の間を抜け、一際大きな木の根元に差し掛かったとき、トルツァの背後から、何者かがこちらに向かってくる気配を感じた。


「…っ! セル!」


背後の気配は次の瞬間トルツァへと飛び掛かり、トルツァは思わず眷属の大蛇を呼び出す。大蛇は飛び掛かってきた気配に真横から牙を立てると、そのまま地面に抑えつけた。トルツァが見ると、それは真っ黒な毛並みを持つ、オオカミだった。しかし、本来眼球があるであろうそこには窪みが二つあるだけで、窪みの先には果てしない闇が広がっている。


研究者以外のヒトが森に入ることができない理由、それは森に充満する瘴気によるところがほとんどだが、それ以外にこの真っ黒な毛を持つ生物の存在もある。それらは森に生息し、まれに人里へ姿を現し、ヒトを襲う。失った眼球を求めて人を襲う、なんて言い伝えられている村もあるが、結局のところそれらがどういった理由で周囲の者を襲うのかは全くもって定かではない。


「セル、もういいよ」


トルツァがそういうと、大蛇は口にくわえていた黒い塊をかみちぎった。塊はパアンと音を立てて破裂し、その残骸は大気の中にスウっと消え、同化した。


(ここら辺はあまり黒毛のことは聞かなかったんだけど。長の失踪にこの出現、関係があるのかもしれない)


トルツァは黒い塊が消えた後の空間を見つめ物思いに耽ると、すぐにまた長の気配を追って森の奥へと足を進めた。


少し経つと、目の前に少し開けた場所が見えてきた。トルツァが足を踏み入れるとそこにはちょうどトルツァと同じくらいの高さの碑が、長年の雨風に晒されくたびれた様子で鎮座していた。手前には、長が着ていたと思われる衣服と、大きな丸いトップの首飾り。それは土くれに覆われていて、この土くれが、瘴気によって侵されてしまった長のなれの果てであると容易に想像できる。


(この石碑、所々に古代インステ語の字体が使われている。一五〇〇年前くらいのものか?)


石碑に刻まれている文字をなぞる。表面に苔の生えた石肌に、鋭利なもので傷をつけるようにして書き込まれているそれは、現在セントベルの人々が使っている言語とは少し違う。


(この老人に、読めたのだろうか)


トルツァはちらと長だったものを見る。それは石碑の一、二メートル手前で力尽きるような形で残されている。森の瘴気に満身創痍の中、長の目にこの石碑の文字は見えていたのだろうか。そもそも、隔離された街の中で生涯を過ごした長が、この古代文字を理解できたのか。答えがどちらにせよ、それを知るものはこの世にいない。トルツァは長だったものの中から衣服と、首飾りを拾い上げると、街に向かって来た道を戻っていった。







我等インステノ民、祖ノ地ヲ追ワレ北ニ逃グ。祖ノ地ヲ奪イシ民、パレシトノ民。

我等此ノ日ノ恨ミ忘ルマジニ託チニ之ヲ記ス。我等ノ怨敵打ツマデ深ク眠ル日無シ。







トルツァがセントベルの街に帰ると、大人たちが酒場に集合していた。大人たちはトルツァの姿を見ると、少し悲しげな表情で迎え入れた。きっと街に帰ったら罵詈雑言を浴びせられるだろうと思っていたトルツァは、大人たちの様子に少し驚きつつも、奥の方で静かに酒を飲んでいる店主に長の遺物を渡した。


「すいません、これしか…」


「ああ、ありがとう、旅人のニーチャン」


酒屋の店主は、何かを懐かしむように首飾りを撫でた。トルツァがどうすることもできずにいると、酒場の店主がまあ座れと、すぐ近くの席にトルツァを促した。


「あの後な、長、いや、親父の部屋から日記が見つかったんだ」


なるほどな、と、トルツァは思った。トルツァの来訪が引き金になったとはいえ、きっと長には、森に行くという積年の望みがあったのだろう。そしてそれを知ったから、大人たちはすべての罪をトルツァに着せることをしなかったのだ。


「ぼくは、明日の朝にここを出ます。こんな時に、部外者の僕がいたら気まずいでしょう」


トルツァは酒場にいるみなに聞こえるように言った。大人たちも、この旅人に言葉だけでも引き留めをすべきと考えたが、誰もそんな余裕などなく、返事の声はなかった。


翌朝、トルツァは日の光が顔を出すとともに、この街を出た。大方準備もそろって、いざ森に入ろうというときに、トルツァの背後から声をかけるものがいた。


「大事なものじゃなかったんですか」


「おはようございますザスルさん。もう捨てられてしまったかと思いましたよ」


旅人の荷物を預かっていた青年は、そんなわけないじゃないですかとすこし笑いながら、荷物を旅人に渡した。


「実のところ、本当に大事なものだったんです。ザスルさんが持ってきてくれなかったら、どうしようかと思ってました」


「そんなこと、たいして心配してないでしょうに」


旅人は眉尻を下げ、すこしおどけたように言う。青年はそんな旅人の様子をみて笑うが、目元は、悲しみとも、諦めともつかない色を浮かべている。


「どうしてこっちは、止めてくれなかったんですか」


どこかで聞いたようなその質問に、旅人はなにがですかと返す。


「俺が家を出たとき、長、祖父はまだ家にいました。あのあと旅人さんがずっと丘にいたのなら、祖父を止めることができたはずです」


青年は、あくまで淡々と、冷静に事実を尋ねるよう努めていた。しかしその言葉には、批判と遺恨が、少しだけ顔を覗かせている。


「旅人さんは俺が森に入ろうとしたのを止めてくれました。でもだったらどうして」


「まず第一に、」


青年の言葉を旅人が遮る。青年は旅人を見るが、その顔に感情は見えない。


「ぼくはあなたを止めてなんかいません。ただ丘に日光浴をしに来ただけで。たまたまあなたの姿がみえたので、挨拶をしただけです。ただそれだけです」


青年は信じられないという目で旅人を見る。でも、という言葉が青年の口から出る前に、旅人が言葉を続ける。


「第二に、あの後、確かにぼくはあなたのおじいさんに会いました。あなたにしたのと同じように、おはようございますと挨拶をしました。そしておじいさんに「孫を見なかったか」と聞かれたので、「ザスルさんでしたら先ほど家の方に帰っていきましたよ」と答えました。それで、おしまいです。太陽が出てきたので再度ぼくは眠りにつきました」


旅人はそこまで話すと口を閉じた。青年は、旅人の顔を見ること以外に何もできずにいた。旅人は、青年の様子を黙ってみていたが、その後何も言葉がないのを見取ると、ではこれでと青年に背中を向けた。


「ああ、すみません。最後にお伺いしたいのですが」


旅人は顔だけ振り向いて青年に問いかけた。


「ザスルさんは、パレシト人ですよね。その髪色ですから」


青年はずっと動かせずにいた身体、表情はそのままに、口からあぁとだけ、返事とも取れる音を返した。


「おじいさんも、生粋のパレシト人ですか?」


青年は真意の見えないその質問に、再度あぁと答えた。旅人はその返答にふうんとうなずくと、満足したような顔で、それではお元気でと、去っていった。

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