3 くるみ

 白い吐息を手の中に集めた。体内から吐きだされた温もりが、ほんの少しだけ寒さを和らげてくれる。由香は、手袋を忘れたことを後悔しながら、阪急伊丹駅からまっすぐピアノ教室を目指していた。


 十二月に入り気温はグッと下がった。コンビニやスーパーは、サンタの帽子をかぶりだし、街路樹にイルミネーションが施され、街中のいたるところが気の早いクリスマスムードを作り出していた。


 教室へと続く整備されたこの道の木々に、小さな電球が巻き付けられている。生々しく映える昼間の電線たちは、夜になれば美しい色に輝き、街を彩ることだろう。


 複雑な感情が、この電線のように心に巻き付く。高鳴る胸の正体が、不安なのか高揚感なのか、教室に近づくに連れ足取りは重たくなっていく。それでも、もうすぐ会えるんだという喜びが由香の体を推し進めた。



 彼と会うことになったのは、模試からの帰り、西に相談した直後だ。汐織に西に言われたことを話すと、ひどく共感された。

 それから半ば強引に、宮本に連絡させられてしまった。颯は快く承諾してくれたが、会って何と言えばいいのか。「好き」だなんて文字を思い浮かべるだけで頭の中はパンクしそうになった。


 恐る恐る教室の扉を開ける。何度も開けたことのあるはずのこの扉が、ひどく重たく感じられた。未だに、顔見知りが宮本しかいなく、ほんの少し緊張する。中に入ると、いつもの受付の女性が座っていた。別の生徒と何やら会話をしているようでこちらには気づいていない。髪の長い中学生くらいの女の子は、鍵を受け取るとすぐにその場を離れていった。


 由香に気がつくと、受付の女性はおどけた表情で奥の部屋を指さした。


「手前の教室。本条くんが待ってるで」


 名前が出てきただけで胸がドキッとする。それをわかったように、彼女はクスクスと笑った。


「宮本先生から聞いたよ。随分、素直になったんやね」


「素直だなんて。半ば強引なんですけどね」


 そう言って由香は、苦笑いを浮かべる。宮本に電話できたのは、汐織に携帯を奪われて無理やり操作されたからだ。


「そうじゃなくて、顔、少しニヤけてるで」


 彼女は自分の頬を指さしながら口端を緩めてみせた。指摘されて、由香は慌てて両手で顔を隠す。明らかに火照った頬は、どうも暖房の効いたロビーのせいにはできなさそうだった。


 彼女は、頬杖をつきながら由香をじっと見つめた。豊満な胸が彼女の手元に置かれた紙を少しずらした。


「頑張ってね、応援してるで」


「はい…… がんばります!」


 彼女の期待に答えれるか分からないが、その屈託のない笑みに、由香は柔らかく返事を返した。



 受付の女性に言われた部屋のドアのノブに手をかける。ドキドキと打っていた心臓がまたその速度を上げた。ノブを回す手に力が入る。ゆっくりとドアを開けると、優しいピアノの音が隙間から流れ込んできた。


 音をたてないように部屋に入ると、颯が由香に背を向ける形でピアノを弾いていた。


 由香は、マフラーを外し、コートをハンガーに掛け、近くの椅子に腰掛けた。軽やかに弾ける音符に耳を傾ける。目を閉じると、小さなくるみ割り人形が、美しく踊る姿が思い浮かんだ。


 穏やかな時間を噛みしめた。流れてくる美しい8分音符の波を、できるだけゆっくりと感じ取る。一つ一つ彼の放つ音を聞き逃さないように、わずかな空気の振動にも集中する。楽しげなリズムが、彼の指から溢れ出してきた。


 暖炉に暖められたような、温もりが部屋に広がった。カーテンを伝う柔らかな陽が、水面に映る波ように揺れる。適温に保たれた部屋のせいか、彼の奏でるピアノのリズムのせいなのか。居心地の良い部屋は、由香にわずかな眠気を与えた。

 瞼が不意に重たくなる。コクリ、コクリと首が船を漕いだ。霞む意識の中で、彼の奏でるメロディがまるで由香の身に纏うように包み込んだ。確かな温もりを全身に感じながら、気持ちの良い世界へと由香は落ちていった。

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