3 楽譜の在り処

 半開きになった扉から、由香は中の様子を伺う。受付には、土曜日もいた大学生らしい女性が何やらパソコンで仕事をしていた。


「あら、立花さん」


 背中から声がかかった。ひゃっ、と声を上げた由香は、驚いた勢いでピアノ教室の中へと入った。

 急に飛び出してきた由香に、受付の女性も驚いたようで、少し目を開きながらこちらを見る。


「また、あなたですか」


 あはは、と由香は苦笑いを浮かべた。彼女のあっけらかんとした表情から逃げるように振り返ると、宮本先生が楽譜の冊子の束を抱えて立っていた。


「もう、電話してくれたら部屋用意してあげるのに、今日はもうレッスンで埋まっちゃってるで」


 宮本は、よいしょと弾みをつけて腕に抱えた冊子の束を受付の台に置いた。どっしりとしたその冊子の束は、練習生用の楽譜らしくかなりの量があった。

 受付の女性はやりなれた作業なのか、宮本に指示を乞うことなく、冊子の山から数枚を抜きとり一つひとつをホッチキスでまとめていった。手早い動きで、いくつかの山が出来上がっていく。


「いえ、今日はこのあと予備校なので、教室は開けてもらわなくて大丈夫です」


「そっか。立花さん、今年大学受験やもんねぇ。時間が経つのは早いなぁ。こないだまでこんなんやったのに」


 そう言いながら、宮本は自分の腰辺りに手を差し出す。


「そこまで、私、小さく無かったと思いますけど」


 とても小柄な宮本の腰辺りのというと、小学校の生学年くらいだ。少し不機嫌に返した由香に、宮本は頬を緩めた。


「ごめん、ごめん。この歳になるとついつい、懐かしくなっちゃうんよねぇ」


「先生、まだまだ若いじゃないですか」


「あら、そんなこと言ってくれるんや。うれしいなぁ」


 お世辞でなく、宮本先生は昔から綺麗な人だった。確か、この教室に通っていた時に二十代後半だったはず。その時から、物腰がやわらかくとても優しい先生で、生徒から人気もあったと聞く。

 由香に褒められて、素直に照れている姿がどこか幼さを残していて可愛らしかった。


「うーん。それじゃ、今日はどうしたの?」


 宮本に問われて、由香は本来の目的を思い出す。


「楽譜を取りに来ました。この間この教室に忘れてませんでしたか?」


「楽譜?」


 宮本は、首をかしげながら、受付の方に目をやった。受付の女性は、話を聴いていたようで作業をしていた手を止めると、すぐに首を横に振った。


「届いてないみたいやけど……」


 宮本は、随分と申し訳なさそうな顔をしながら「本当に忘れた?」と由香にもう一度、確認する。


 由香は、記憶を手繰る。やはりあの時、慌てて教室を出た。片付けもそこそこに飛び出した気がする。記憶の中の楽譜は、しっかりとピアノの上に置きっぱなしになってしまっていた。


 てっきり、あの男の子が届けていてくれていると思っていた。楽譜の行方が掴めず、由香が頭を抱えていると「あ」と受付の女性が声を上げた。 


「そう言えば、すっかり忘れてました。本条くんが『次、立花さんが、来たら知らせてください』って言ってました」


「どうして本条くんが?」


 そう言いながら、宮本はなにかを思い出したように手帳を開き始めた。華奢な手が、小さな革製の表紙を捲る。


「立花さんに貸した教室って、次に本条くんが使う予定じゃなかったっけ?」


 当日の教室の貸出のスケジュールが書かれているらしく、宮本は自分の手帳の予定が合っているのか、受付の女性に確認した。


 それを見て、由香は恐る恐る言葉を繋いだ。


「本条くん……って方、だと思うんですけど。私、その日に男の子にピアノ教えて頂いたんです」


 あの日、あの教室で教えてくれていた男の子が、本条くんという人なのかもしれない。ドキドキ、と早る心臓の鼓動を由香は必死に抑えつける。


「そうだったの? それなら、本条くんが持ってんのかな。でも忘れものなら受付に届けてくれればええのに」

 

 どうやら、あの子が本条という子らしい。なんとなく、由香はその名前を心の中で繰り返してみる。


「一度、メールで確認してみましょうか?」


「は、はい」


「もし本条くんが持ってるなら、こっちで預かっておくからまた取りにきて」


 そう言って、メールを打ち込んでいた宮本を、受付の女性が制止する。


「連絡して来てくださいってことは、直接、渡したいんじゃないですか?」


「どうして?」


「宮本先生、疎いですか?」


 そんなことない、と宮本は子どもっぽく顔をしかめた。目尻に出来たわずかな皺が、彼女が三十代なのだと唯一教えてくれる。メールを打ちかけた明るい画面が、薄っすらとした皺を照りつけ隠す。


 ただ、受付の女性の棘のある言い草を、由香も理解出来なかった。


 受付の女性は、含みのある笑みを由香に向ける。わずかに赤らんだ頬が、どこか幸せそうな香りを放っていた。柔らかく穏やかな声で、女性は由香に告げる。


「次に来る日を知らせてあげればいいんじゃない? きっと持って来てくれるよ」


 持ってきてくれる。つまりは、また彼に会えるということだ。心臓の鼓動のピッチが、またキュッと上がる。指の先まで一気に、血の気が巡っていく。全身に運ばれる血液に、幸せを感じた。


「明日来ます」


 はっきりと由香は告げた。それを聞いて、受付の女性はクスクスと笑い出す。


「会いたいのは分かるけど、来れるかどうかは本条くん次第でしょ。宮本先生、明日いけるか聞いてあげてください」


 宮本は、どういうわけなのか分からない様子でメールを打つ。「どうして?」としきりに、宮本は女性に問いかけていた。


「本当に鈍いですね」


 と、女性は言いながら、由香に優しく目配せをした。


 上がっていく体温のせいか、火照った吐息が由香の口からふっと抜けていく。いても立っても入られず「よろしくお願いします!」と頭を下げた。

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