11 不安(間奏曲)

 窓の外の大きな飛行機を、そうはぼんやりと眺めていた。防音設備の整えられた部屋からは、外の飛行機の音は聞こえない。

 飛行機の音に驚いてか、庭の木の枝にとまっていた数羽の鳩が飛び立った。伊丹いたみ空港へと離発着する大型のジャンボジェットが、この部屋からはよく見えた。


 颯は、大きく背中を伸ばした。恥ずかしげもなくあくびを漏らし、背中の辺りの骨をポキリと鳴らす。ピアノの椅子に腰をかけ、自身の演奏を振り返る。簡潔に言えば、上出来だ。おそらく自身ほどの年齢でこれほどの演奏ができるものは、そうそういない。

 

 それは、部屋に飾られた多くの賞状やトロフィーが物語っている。だが、颯は自身の演奏に満足していなかった。正確に言えば満足ではない、そんなものは、永遠に訪れることがないものだろう。演奏者とは、決して自身の出来に満足してはいけない。常に向上心を持ち続けなければいけないもの。自分は、それを生涯かけて追い求めていくのだ。


 だが、今、自身に足りないものは、もっと単純なものだ。テクニックや表現力ではないもの。それが何なのか颯には分からなかった。昔は、もっと鮮明にそれを捉えていたはずなのに、音楽の中で演奏の中で見いだせていたはずなのに。


 颯は、ピアノの椅子から立ち上がり、壁に並んだ数多くのCDの中から一枚のCDケースを抜き取った。

 透明なケースのジャケットには、薄い紙が一枚だけ挟んである。ケースを開けば、そのチープな作りを露呈した。ラックの中にはもっとしっかりと体裁を放ったものがたくさんあるのに、このCDだけは異彩だった。


 大きなコンボの繋がった音楽プレーヤーにCDをセットする。コンボは、大きな音を立てながら床を振動させた。颯は、一人掛けのソファーに腰掛け目を閉じる。


 部屋に美しいピアノの音色が響いた。だが、その音は未熟なものだった、弱々しくぎこちない。ただ、どこか揺るぎない真っ直ぐさを感じた。演奏者の感性が音に乗り移ったかのようなその演奏を、颯はひどく気に入っていた。


 ガチャっ、と扉の開く音が音楽に混じる。


「また、そのCDを聴いてるの?」


 扉の方に目をやると、千夏ちなつがお盆に湯気の昇るマグカップをふたつ運んできていた。


「はい。懐かしいので」

「それを聴いているっていうことは、また迷ってるってことね」


 千夏は、ソファーの前のカフェテーブルにお盆を置くと、颯にカップを手渡した。颯は、二度ほど強く息を吹きかけると、恐る恐るカップを口へと運んだ。


「はい、まだ少しだけ……」


 颯はそう言うと、テーブルに置かれたリモコンを操作し、オーディオを止めた。


「追い込み過ぎはダメよ。あなたには十分過ぎる実力がある」


 千夏が颯の向かい側のソファーに腰掛けた。七分丈のガウチョからは、彼女の白い足が見える。


「どうでしょうか。僕より上手い人は、世界中にいますよ」


 颯は、肩をすくめる。できるだけ嘘のない表情を浮かべる。謙遜をしているわけではない。よもや、自分の実力を過信していないわけでもない。ただ慢心しない。それは、自分の長所であり、自身を苦しめる悪魔の正体でもあった。


 千夏が、ココアを口に含んだ。甘ったるい味が口の中いっぱいに拡がったのか、彼女は顔をしかめた。

 音楽について悩んでいる時、千夏がしてくれるアドバイスは、音楽家、ピアニストとしてのキャリアで得た経験則のことだった。

 技術、所作、振る舞い、それもすぐ抜かれていくことだろう、と彼女は話す。自分には、それだけの確固たる才能がある、と何度も聞かされた。


 自分の腕が勝っているその間だけでも、本条颯という才能を育てた一片として携わりたい―― 千夏のそういった思いは、まっすぐで真摯なものだと、颯は感じている。


「昨日、また教室に行ってたんでしょ? 別に、構わないんだけど。もう少しは、私を信用してほしいな」


 千夏は、頬をほころばせた。まるでイタズラなことを言って、困らせたい子どものような表情だった。


「そんなことないですよ。先生には、いつも感謝しています。僕の大切な先生です」


 颯は、凛とした態度で口端を柔らげた。トゲのない言葉に、千夏の表情が崩れる。


「あら、褒めても何もでませんよ」


「知っていますよ」


 誘った動揺が空振りに終わったからか、大人ぶった彼女の返しを軽くあしらってみせたからか、千夏の表情は少しだけ曇った。


 千夏はおもむろに、カーディガンのポケットに手をかけた。


 口の中に纏わりつく甘さを嫌ってか、ばつの悪さからか、無意識に出た行動だったようで、彼女はすぐにその手を止めた。生徒の前であると我に返ったらしい。ポケットにしまわれたタバコケースが、出ててくることはなかった。


「教室に度々行くのは、構わないんだけど。宮本先生には、迷惑かけちゃダメよ」


 千夏は手持ち無沙汰からか、口直しにならないはずのココアを再度、口に含んだ。


「はい、心得てます」


 颯は、座ったまま頭を下げた。きっと、気品に満ちた動きだったに違いない。それでも、千夏はどこか不安げな表情を浮かべる。


 おそらく、子どもらしからぬ言動が、颯自身を苦しめなければいい、そう思っているのかもしれない。

 自身が、大人という下駄を履いているのは分かっている。自分が作り出している大人は、張りぼてに過ぎない。あまりに脆く、弱い。

 だが、そんなことは承知の上だ。ただ、創作されたメンタルを本物だと思いこんでいるんじゃない。

 たとえ、どんな表現者でも、心は自ら鍛えなければならないのだ。弱さを知り、脆さを知る。それが、あらゆる世界で生きる為、もっとも必要とするものだ。

 プロである千夏は、それを弁えている。自分の弱さも脆さも、受け入れ演奏をする。自分にそれが出来るだろうか? 千夏の不安は、そこにあるはずだ。そして、それは自分自身の不安でもある。


「向こうでなにか、立ち直るヒントは何か掴めたのかしら?」


 柔らかい色をした双眸が、こちらを見つめる。颯は、その視線を拒まぬように、目を閉じた。


「いえ、ただ、昨日はいいものを聞けました。少しだけ気分が晴れた気がします」


「それは良かったわ」


 見開いた視界の中で、千夏はマグカップを手に取る。窓の外を眺め、そっと赤い紅の引かれた口を開いた。


「それと、例の件はまだ先でいいわ。春までに返事を聞かせてね。それじゃ、少しレッスンしましょうか」


 颯は残ったココアを、グッ、と飲み干す。甘い味が口の中に広がった。窓の外に見える飛行機雲が、じんわりと青空に溶けていく。不安というものは、いずれあんな風に消えて無くなるものだ。そう、心の中で呟いた。




 ――第二楽章へ続く

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