2 ピアニッシモ

「遅かったやん」


 由香が慌てて紺色の制服に袖を通していると、ケラケラと笑いながら奈緒美なおみが近づいて来た。


 ちょっとね、と申し訳なさそうに由香はタイムカードを切る。


「店長は?」


「先に帰ってもうたで」


 そう言いながら、呆れた様子で奈緒美がポニーテールを揺らした。

 秋だと言うのに、彼女の肌は少々褐色がいい。その肌は、彼女がこの夏まで運動部で励んでいたことを示していた。


 まとめられた髪が、彼女のシャープな顎のラインを顕にする。その体型を隠してしまうはずの制服の上からでも、彼女の体が女らしいことがはっきりと分かった。


 それにしても、すでに店長が帰ったということは、由香が到着するまでワン・オペレーションが行われていたようだ。


「あの人は、無責任だなぁ」


「遅刻してきた人がよぉ言うわ」


 それもそうだ、と納得し由香は苦笑いを浮かべる。


 由香が、鏡で身だしなみを整えている間に、店頭から流れてきた入店を知らせるメロディに呼ばれ、奈緒美はそそくさと店へと出て行った。


 JR猪名寺いなでら駅前のコンビニエンスストアは、この夕方、お客が少ないというわけではない。


 普通しか止まらないこの小さな駅にも、学校や会社から帰路に着く人たちで賑わいを見せる。やはり、由香が店頭に出ると何人かの客が、列をなしているのが見えた。


「こちらにどうぞ」


 レジに名札のバーコードをスキャンして、待機列の客をさばいていく。慣れた手付きで、タッチパネルを操作して、手際よく商品を袋に詰める。


 二人で稼動して、一分もしないうちに成していた列が無くなった。ちょうど、その列が無くなったタイミングで来た客を見て、由香の声のトーンが上がる。


「いらっしゃいませ」


 由香がそう告げると、細身の女性は優しく口端を上げた。


「いつものやつお願いね」


 グレーのノーカラージャケットが、ワインレッドに染まったガウチョの膝丈ほどまですらっと伸びている。


 腕にかけられたバッグは、飾らない程度に配慮されたものだ。爪先まで手入れが行き届き、程よい化粧はむしろ好感を高めている。


 綺麗な身のこなしのこの女性は、由香が描く素敵な女性像とくっきり重なっていた。


 彼女は、高校生のバイトである由香に、偉そうにすることもなく、丁寧な笑みを浮かべ、いつも優しく接してくれる。


 その服装や態度から、気取らない仕事のできる女性だと容易に推測できた。こういう風に、自分はおそらくなれない。


 由香は、何ごとも他人にまかせてきた。


 バイト先も、奈緒美に誘われて始めたし、中学生までやっていたピアノも、母に勧められたからだ。


 思えば、自らの意思で、これがやりたいと言い出したことはない気がする。大学受験の志望校ですら、自分の身の丈にあった大学を選択した。


 選択と言えば大層なものだ。先生たちが提示したいくつかの候補から、無難な選択をしたに過ぎない。それに向かい努力こそしているものの、ただそれだけのことだ。


 だから、目の前のおしゃれでかっこいい女性には永遠になれないのだ。


 はぁ、とため息をつきながら、後ろの棚の一番端から、いつも彼女が指定するピンク色の細いケースを手に取った。


「ため息なんかついてどうしたの?」


 ふいに放ったため息を指摘され、手に取った煙草を慌てて滑らしかけた。


「おっと。い、いえ、ちょっと色々」


 ふーん、と目を細めた彼女は、なにかを見透かしたように優しく息を吐いた。


「受験のこと? 立花たちばなさんって確か、高校三年生だもんね」


「あ、はい。思うように点数伸びなくて」


 少し返事がうわずる。それは、なんのため息だったのか自分でもよくわからなかった。もしかすると、彼女に指摘されたこととは少し、違っていたからかもしれない。


 あたふたした手付きで、差し出された少し高めのコーヒーと一緒にレジへと打ち込む。動揺でいつも手慣れているはずのレジの操作が浮つく。

 何度かうち間違えて、ようやく会計を終えると、由香は深くお辞儀をした。


 ありがとうございました。そう、由香が告げる前に、「ありがとう」と彼女は、小さく手を振った。由香のお礼を聞いて、彼女は笑顔で店を後にした。


 彼女が由香の名字を知っていたのは、名札にそう書かれてあるからだ。


 彼女は、頻繁にこの店を訪れる。タバコや日用品などをよく買っていく。この辺りに住んでいるのか、この辺りに職場があるからなのか。


 わざわざ、遠出をするワケではないだろうから、そうなのだろうと由香は思っている。


 なんの仕事をしているだとか、彼女の名前だとすら分からない。


 そんな相手に、ただ漠然とした憧れを抱いている。短い会話を重ねるごとに、その思いは増して行く。


 そして、そのたびに少しずつ、彼女と自分との歴然とした差を痛感してしまうのだ。


 その装いも振る舞い、日課的に彼女が買っていく煙草にすら、由香はどことなく胸が踊る感情を抱いた。かっこよく吹かしている彼女の姿を想像する。


 妄想に近いそれは、普段、父が吸っている忌まわしい煙い筒とはまた別のもののように感じた。

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