私訳 戦国乱世

@zurvan496

第1話 千貫

「おい、センガン」

声がしたが、自分には関係無いと思い、書見を続ける。

「センガン」

声は大きくなり、明らかにこちらに向けられたので、竹千代は顔を上げる。

ギョッとした。

そこに若者が一人立っている。

歳の頃は、竹千代より七つ、八つ上の十四、五というところだろうか、珍妙な身なりをしている。

月代を剃っていない総髪を、朱色の紐で束ねている、着ている小袖は、袖が無く白い腕がニョキッと出ている。

袴は履いておらず、裾を捲り上げ、腰のところで荒縄で縛っている。

何なのだこの男・・・・・・。

戸惑っている竹千代に、男はグイッと顔を近付ける。

その顔がまた、不思議なだ。

ぬけるように白い肌、長い睫毛の切れ長の目、真っ赤な唇。鼻筋が通り美しい顔立ちだが、どこか冷たく、優しさよりも恐ろしさを感じてしまう。

少なくとも、竹千代はその顔を見て、ドキドキと動悸が止まらず、顔に血が上っていく。

「返事をせぬか、センガン」

そう若者の、赤く美しい口から甲高い声が発しられた。

「・・・・・・・」

竹千代は黙っって相手を見つめる。

「なんじゃ、口がきけぬのか?」

顔を離し、若者は胸をそらす。

「まぁ、よい耳は聞こえるだろう、ついて来い」

そう言って、若者は部屋から出て行こうとする。

「・・・・・・・・・」

竹千代はその場に座ったまま動かない。

若者はクルリと振り返る。

「・・・・・・・本当に、耳も聞こえぬのか?」

「・・・・・・わたくしは」

竹千代は口を開く。

「松平竹千代に御座る」

キッと相手を見る。

「センガンなどという名ではありませぬ」

そう竹千代がいうと、若者はダンダンと足を鳴らして近寄り、竹千代に告げる。

「お前はわしの親父に、千貫で買われて来たのじゃ」

若者はピッと竹千代を指差す。

「だからお前の名は、千貫なんじゃ」

甲高い若者の声を竹千代は首をかしげる。

センガン?買われてきた?

「・・・・・・・」

少し顎を上げた若者を見ながら竹千代はあたまをひねる。

此奴、何を言っとんじゃ?




 竹千代は、三河松平郷の国衆、松平広忠の嫡子として産まれた。

「竹千代、これからおまえは駿河の御屋形様の所に行くことになった」

ある日、そう父広忠に告げられた。

「・・・・・・・・」

黙って竹千代は父の顔を見つめた。

竹千代は母の顔を知らない。

三つの時に父が駿河の御屋形様に仕えるようになった為、尾張の味方である母の兄が、母を連れて行ったのだ。

新しく母になった真喜さまの侍女たちが、そう言っていた。

「駿河の御屋形様は、海道一の弓取りといわれる、素晴らしいお殿様だ」

痩せて頬がこけている父広忠が、優しく竹千代の頬を撫でる。

行きたくなかった、別れたくなかった。

竹千代は父上も真喜さまも、大好きだからだ。

だが、行かねば父上が悲しむ。

「分かりました、父上」

グッと堪えて、竹千代は言う。

「駿河の御屋形様の下で、父上のような立派な侍になります」

幼い身体から、声を張り上げ、竹千代は父にそう告げる。

少し淋しそうな顔をして、父は頷く。

「ああ、そうだ、立派な侍になれ」

父広忠はそう言って、ギュッと竹千代を抱き寄せる。

「この父よりも、もっともっと、立派な侍になれ」


次の日、竹千代は酒井小五郎や高力与左衛門ら、家中の若い者たちに付き添われ、駿河に向かった。

途中、新しい母である真喜さまの父が、迎えに来てその屋敷に泊まり、次の日、船に乗ってこの屋敷にやって来た。

船に乗った時から奇妙なのは、付いてきたはずの、小五郎や与左衛門の姿が見えぬことだ。

不思議に思い、この屋敷に来てから食事を運んでくる老人に尋ねてみたが、老人は耳が聞こえぬのか、言葉が分からぬのか、何も答えない。

仕方がないので、置いてある書物で書見をしている。

書見といっても、竹千代はあまり沢山の字は読めぬので、ただただ字を目でおっているだけだ。

それでも父上と約束した。

立派な侍になると。

駿河の御屋形様のもとで、立派な侍になると。

屋敷に着いて十日ほどになる。

御忙しいのか、まだ駿河の御屋形様に会えていない。




カワレタ?センガン?

この奇妙な若者が言う言葉が、駿河の御屋形様に会えぬ理屈らしいが、竹千代にはよく分からない。

「・・・・・・・・」

「あああっ、よいから来い」

竹千代が黙っていると、若者は気が短いたちなのか、甲高い声を上げ、頭を掻きむしると、竹千代の手を引き、部屋を出て外に向かう。


「はははっ、本当に連れてきたよ」

屋敷の門のところに二人の若者が立っており、うち一人が声を上げて笑う。

その若者を見て竹千代は、またギョッとした。

ヒョロリと手足が長いその若者は、袴は履かず着流しで、右側が真っ赤、左側が薄桃の派手な小袖を着ており、これまた派手な紫の帯をしている。

更に手足同様長い顔には、女子がつける白粉をぬり、その上、目や口の端に真っ赤な紅をさしている。

そして首に鳥の羽根の首飾り付け、腰には瓢箪を吊るしている。

奇妙な身なりと言う意味では、竹千代を外に連れ出した若者より、こちらの方が更に異形だ。

「知りませぬよ、また平手さまに怒られても」

もうひとりの若者が口を開く、こちらの方は袴も履き、薄い柿色の小袖を着てまともな身なりだ。

「うるさい、勝三郎」

竹千代を連れ出した若者はそう言って、まともな身なりの若者、勝三郎に答える。

三人とも同じ年頃のようだ、手足の長い奇抜な装いの若者に対し、勝三郎と呼ばれたまともな若者は、小柄で四角い顔にギョロリとした目をしている。

「で、今日はどうするんですかい?若」

奇抜な装いの若者が、竹千代を連れ出した若者に尋ねる。

そうさなぁ、と若者は思案する、どうやらこの若者が首領格らしい。

「漁りでもやるか」

「またですかい?」

「なんだ犬千代、文句があんのか?」

いえいえ、全く、と犬千代と呼ばれた、奇抜な装いの若者が、手を振ってこたえる。

では、行くぞ、と若者が号令をかけると、へいへい、と答え、犬千代と呼ばれた若者が、後に続く、勝三郎という方も、顔をしかめながら、後に続く。

「・・・・・・」

「サッサと来い、センガン」

黙って立っていた竹千代に、若者の怒号が飛ぶ。

ニヤニヤ笑いながら犬千代が近づき、

「さぁボウズ、ついてきな」

と言って竹千代の手を引く。


四人が歩き始め集落に入ると、そこかしこから少年たちが寄ってくる。

「わかさまどこにいくのですか?」

「吉法師さま、今日は何をするのですか?」

先頭を歩く若者に、皆が声を掛けていく。

どうも若者は、吉法師という名で、この辺りの若さまであるらしい。

竹千代も一様、家中の者から若さまと呼ばれている。

しかし、吉法師が木に登り、柿を取り、歩きながらムシャムシャと食べるその姿を見て、自分とは大分違うなぁと思った。

少なくとも吉法師は、立派な侍になる気は無いらしい、そう竹千代には思えた。

「さぁ、着いたぞ」

川に着く頃には、付き従う少年たちは二十を遥かに超えていた。

皆、汚い身なりで、服を着ている者はまだマシで、裸の者や腹掛け一枚の者ばかりだ。

「よし、始めろ」

吉法師が号令すると、いくぞ、と犬千代が答え、彼を先頭に少年たちが川に入っていく。

やれやれ、と呟き、ギョロ目の勝三郎も、袴の裾を上げ川に入っていく。

少年たちは、河原や川の底から石を取り、それを積み上げているらしい。

「おい、何をしているセンガン」

石積みをしている少年たちを眺めていた竹千代に、吉法師の声が飛ぶ。

「お前も行け」

「・・・・・・・」

六つの竹千代にも分かる。こんな事、立派な侍のすることではない。

だから黙って吉法師を睨んだ。

「何見ている、さっさと行け」

甲高い声を上げて、吉法師は食べかけの柿を竹千代に投げつける。

それでも竹千代はその場を動かず、吉法師を睨みつける。

「まぁ、いいから来いよ」

いつの間にか近くてきていた犬千代が、肩を掴み竹千代を川に引きずって行く。

「まったくボウズ、お前さんは度胸があるな」

白粉を塗り、紅を指した犬千代が、ニヤニヤ笑いながら言う。

「・・・・・・・・・」

しばらく黙って竹千代は、川の中で立っていたが、仕方なしに石を拾い、他の少年たちのように積んでいく。

しかし置き方が悪いのか、竹千代が石を積んでも、積んでいく先から、崩れていく。

「何やっている、センガン」

土手の上、木の陰から、吉法師の怒号が飛ぶ。

キッと竹千代は睨むが、相手は涼しげな顔で知らぬふりだ。

「貸してください」

四角い顔にギョロリとした目の勝三郎が、竹千代の崩れた石を、きれいに積み直していく。

「・・・・・・・・」

黙々と積んでいく勝三郎を、しばらく黙って竹千代は見つめる。

「形を見るんですよ」

勝三郎は静かな声で、竹千代に告げる。

「大きな石は、上には載りませぬ」

そう言って勝三郎は、土台に大きな石を置いていき、その上に小さな石を載せていく。

「なにを・・・・・・・・」

同じように石を積みながら、竹千代は尋ねる。

「何をしているのですか?」

伸びをして勝三郎は、額の汗を拭う。

「堰を作っているのですよ」

「せき?」

トントンと誰かが、竹千代の肩を叩く。

振り返ると、痩せたい七、八歳の、歯のぬけた少年が、微笑みながら積まれた石の内側を指す。

ヒョイッと竹千代が覗くと、川の中の小魚たちが、石で積まれた壁に阻まれ、行き場を失っている。

「よし、それじゃあ、そろそろよいか」

犬千代が大きな声でそう言うと、少年たちは石を積むのを止める。

何をするのかと竹千代が眺めていると、皆、石積みの中に入り、行き場を失った魚を、手で掴み取り始めた。

取られた魚は、次々と岸に上げられ。吉法師の前に置かれていく。

「何をしている、センガン」

皆が魚を捕るのを眺めていた竹千代に、また吉法師の怒号が飛ぶ。

「ボサッとせずに、お前もサッサと捕れ」

キッと竹千代は睨み返したが、仕方なしに石積みの中に入り魚を追う。

しかし六歳の竹千代に、初めての魚捕りが上手くいくはずもなく、手を入れても、魚はスルリと逃げていく。

しばらくそうやって、魚を追い回していたが、一向に捕まえることは出来ず、気がつくと、周りの皆は手に手に魚を持って、岸に上がっていた。

諦めて竹千代も岸に上がる。

「なんだ、一匹も捕っておらぬでないか」

顎を上げ、つかえぬ奴め、と吉法師が鼻で笑う。

グッと竹千代は黙って睨む。

勝三郎が火をおこし、皆が魚に木の枝を刺し、焚き火の周りに立て始める。

そのうちに、香ばしい匂いが、辺りに漂う。

「もう、いいだろう」

吉法師が手を伸ばす。

「まだ、早いですよ」

勝三郎が止めるが、聞かずに吉法師は、焼けた魚にしゃぶりつく。

美味い美味い、と吉法師が声を上げると、他の者たちも次々に手を伸ばす。

「・・・・・・・・」

竹千代は黙ってジッと、それを見つめている。

「おい、センガン」

ムシャムシャと魚を食べながら、吉法師が言う。

「お前は喰うなよ、一匹も捕っておらぬのだからな」

吉法師を指差し、竹千代は言い返す。

「お前も、捕っていない」

「誰が、お前じゃ」

そう言って吉法師は、食べ終わった魚の骨を竹千代に投げつけてくる、慌てて竹千代は腕で顔を守る。

 ビシャリと魚の骨が、竹千代の腕に付く。

「わしは大将じゃ」

腕に付いた魚を払っている竹千代に、胸を張って吉法師は告げる。

「今日、大将であるわしが漁りをすると決めたから、皆が集まった」

だから・・・・・・と言いながら吉法師は、隣で今まさに大きな口を開けて食べようとしていた犬千代の、その魚をヒョイっと奪う。

「大将であるわしは、皆の物を喰うても良いのだ」

良かねぇですよ、と隣で犬千代が不満の声を上げるが、吉法師は構わずパクパクと魚を平らげる。

「センガン」

食い終わった枝で、吉法師は竹千代を指す。

「お前は大将か?皆がお前について行くのか?皆がお前に従うのか?」

そうではなかろう、と言って、キャッキャッと甲高い声で吉法師は笑う。

「だからお前は、喰うてはならぬのだ」

「どうぞ」

吉法師の言葉をまったく無視して、勝三郎が焼けた魚を一匹、竹千代に渡す。

「おい勝三郎、勝手に渡すな」

「石積みは、手伝って下さったのです」

それに・・・・と呟き、勝三郎はギョロリとした目を吉法師に向ける。

「こんな小さな子に、大人気ない」

「けっ、くそ真面目が」

勝三郎に言い返すと吉法師は、再び魚を食べ始める、ニヤニヤと犬千代がそれを眺めている。

「・・・・・・・・」

「どうぞ」

竹千代が少し迷っていると、勝三郎が食べるように促す。

香ばしい匂いが漂う、グッと息をのみ、ガブリと齧り付く。

ジュッと魚の皮で唇と舌が焼ける、あっ、と声を上げ、思わず竹千代は口を離す。

「なんだ、魚も食えんのか」

馬鹿にして吉法師が笑う。

「息を吹きかけて、冷まされませ」

勝三郎がそう言うので、フウフウと息を吹きかけ、少し冷ましてから、竹千代は再び齧り付く。

ジュワッと芳醇な汁が口に溢れ、香ばしい匂いが鼻いっぱいに広がる。

堪らず竹千代は、ガツガツと魚を頬張る。

「どうだ、美味いかセンガン?」

吉法師の言葉に答えず、竹千代は魚を食べ続ける。

「尾張の魚の方が、三河の魚なんぞよりよっぽど美味かろう」

キャッキャッキャッと甲高い声で、吉法師が笑う。

腹が立ったので、喰い終わった魚を脇に置き、竹千代は言い返す。

「三河の魚の方がうまい」

「なんだと、このガキ」

吉法師が再び魚の骨を投げようとする、慌てて竹千代はまた、両腕で顔を防ぐ。

「・・・・・・・・」

いつまで経っても、魚が飛んでこない、恐る恐る構えを解くと、顔に魚が当る。

キャッキャッキャッと毎度の甲高い声で吉法師が笑う、隣で犬千代が呆れながら苦笑し、勝三郎は呆れ果てて笑いもしない。

ムスッと竹千代は、吉法師を睨みつける。



それから三日と空けず吉法師は竹千代を連れ出した。

川で漁りをし、畑で野菜を盗み、河原で相撲をとって、山で猪を追い回す。

しまいには、女子たちが水浴びしているのを、覗き見ることまでした。

竹千代は不愉快だった。

自分は父と約束したのだ。

立派な侍になると。

その為に毎日書見をせねばならぬし、庭に出て小枝を振って剣術の稽古もしなければならない。

それなのに吉法師は、竹千代を連れ回すのである。

迷惑だ。

それに何処に行っても、何をしてても、吉法師は竹千代を馬鹿にする。

使えないとか、ノロマだとか、役立たずとか、散々だ。

そんなに使えないなら、竹千代を連れ出さなければ良いのに、それでも吉法師はやって来る。

不愉快だ、迷惑だ。

だけど吉法師が来ない日は暗い気持ちになる、胸の奥に大きな穴が開いたようになる。

明日は来るのだろうか?と夜、眠れなくなる時もある。

そんな日々が、何日も続いた、この屋敷に来た時は暖かかったのに、少しずつ涼しくなって来た。

「おい、センガン、漁りにいくぞ」

吉法師はそう言うと、いつもの様に竹千代を引っ張って外に出る。

そして外には、いつもの様に犬千代と勝三郎がいる。

一行が集落を歩き始めると、いつもの様にそこここから子供たちが、野良仕事を辞め、水汲みを放り出し、一人二人と集まって来る。

川に着く頃には、いつもの様に二十人ほどの少年たちが集まっている。

「よし、堰をつくれ」

号令をかけると吉法師は、いつもの様に木陰に座る。

だが、その日はいつもと違うことが起きた。

「勝手に入って魚を捕るな」

低いどら声が辺りに響く、川に入っていた竹千代が土手方に目をやると、四、五人の農民の大人たちが立っている。

「ここの魚は勝手に捕ってはならぬ」

先頭にいた四十過ぎの髭面の男が、川原に降りて来た。

「お前さん、那古野の若さまだろう?」

髭面は木陰にいる吉法師の方を見る。

「勝手をされては困るわ」

ズンと近づき、低い声で告げる。

「魚を捕るなら、我らの赦しを取ってからにしてもらいたい」

髭面の言葉に吉法師は、プイとよそを向く。

「知るか、そんなもん」

「な、なにを・・・・・・・」

その時、髭面の後ろにいた顔の長い男が、川の方に近づく。

「これ、嘉一」

歯の抜けた少年が逃げようとするが、その肩を男は掴む。

「また、水汲みを逃げ追って」

イヤじゃイヤじゃ、と暴れる少年を男は抱え込んで、連れて行く。

「まったく、若さまにはついて行くなと、あれ程言うたであろうが」

連れて行かれる少年を見て、他の者たちは黙って俯く。

「おい、止めろ」

木陰から吉法師が声を上げる。

「若さまには、関係ねぇ事だ」

長い顔の男が、少年を抱えたまま吉法師の方を向く。

「皆、若さまには迷惑しておる」

「子供らが怠けてばかりじゃ」

大人たちが次々に吉法師に文句を言う。

「・・・・・・・・・」

冷めた目で何も言い返さず、吉法師はジッと大人達の言葉を聞く。

「とんでもないうつけの若さまじゃ」

「ここままじゃそのうち、駿河か美濃の者には攻められ、織田の家は滅ぶわ」

「まぁ、その心配は無かろう」

髭面が顔を歪めて笑う。

「どうせこのうつけさまは、当主にはならぬよ」

顔を横に向け、髭面は後ろの仲間たちに告げる。

「なんでも弟さまの方が、優秀なそうで・・・・・・・」

そこまで言ったとき、髭面の顔に大きな石が当る。

グハッと呻き、潰れた鼻を押さえながら、髭面は石を投げた相手を見る。

「・・・・・・・・・」

吉法師は胸を張り、顎を少し上げ、グッと相手を睨む。

「このクソ餓鬼」

「やっちまえ」

甲高い声を上げ、吉法師が髭面に躍り掛かる、同時に少年たちが次々に大人たちに殴りかかる。

「これ、止めぬか」

「うるせぇ、くそオヤジ」

少年たちは大人たちの三倍以上人数はいた、しかし皆、身体が小さく相手にならない。

それでも腕に脚に取り付き、噛み付き、石を投げ、大人たちに挑み掛かる。

「この悪がきども」

「よさぬか」

「いやじゃ、いやじゃ」

怒号が飛び交い、石が飛ぶ、小さな子供が川に放り投げられるが、石を掴んで戻って来る。

竹千代は声を失った。

石をぶつけられ額から血を流している者や、投げ飛ばされて切ったのか、手脚から血を流す者、彼等が入り乱れて喧嘩は続く。

続くどころこ、周囲から大人や子供が集まり、喧嘩の輪が広がっていく。

膝が震えた、人が殴り合うところを、血を流すところを初めて見て、恐ろしくなった。

そのうち膝の震えが全身に広がろ、逆に膝の震えが止まった。

少し落ち着いて顔を上げると、丁度、鼻血を出している髭面と目が合った。

竹千代は後ろを向いて、逃げようとする。

「まて、逃すか」

そう言って髭面は、竹千代の襟首を掴む。

「放せ、放せ」

襟首を掴み持ち上げられると、首が締まる息が出来ない、竹千代は必死に暴れた。

「勘弁ならぬ、くそ餓鬼め、お仕置きじゃ」

髭面が竹千代の顔に近づく、臭い息が鼻にかかる。

「センガン」

吉法師が叫び、髭面に体当たりを食らわせる。

髭面はよろけ、膝をつく。

掴んだ手が解け、竹千代はその場に転げ落ちる。

首が楽になり、ハァハァと息を吐く。

「逃げろ、センガン」

吉法師の声を聞き、竹千代は立ち上がり、その場を逃れようとする。

「このうつけがぁ」

大声を上げ髭面が、吉法師に掴みかかる。

「お前のようなうつけ、生きておっても尾張が亡ぶだけじゃ」

怒り狂った髭面が、叫びながら吉法師をその太い腕で絞め上げていく。

「に、逃げろ・・・・・センガン」

絞め上げられた吉法師の喉から、声が漏れる。

竹千代は震えた、震えてただただ、絞め上げるられている吉法師を見つめた。

「逃げぬか、さっさと」

無理矢理出した吉法師の高い声が響く。

その言葉に竹千代の震えが止まる。

逃げよう、逃げよう、逃げよう、逃げよう。

竹千代の身体をその言葉が包み、心の芯が冷たくなる。

逃げるのだ。

後ろを向き、竹千代は走り出そうとする。

「お前のようなうつけ、おらんなった方がましだ」

足を一歩出そうとした竹千代の背に、髭面の低い声が響く。

「親父まさの、お殿さまのような立派な侍になれぬ、うつけのお前なんぞ」

竹千代の身体が止める。

「ここで死ね」

髭面の声が、竹千代の身体の芯に刺さる。

頭の中であの光景、父との別れの場が浮かぶ。

「立派な侍になれ」

父のあの時の言葉が響く。

竹千代は震えた、しかしグッと手を握りしめた。

「父よりも、立派な侍になれ」

キッと竹千代は振り返り、吉法師と絞め上げている髭面を睨む。

「立派な侍は・・・・・・・」

口の中で、小さく呟く。

「逃げぬ」

相手を見据えて、おおおおっと大声を出しながら、竹千代は一直線に走り出す。

「なんじゃ、このガキ」

竹千代は、髭面の足にしがみ付く。

「放せ、放さぬか」

振り解こうと髭面は何度も足を振るが、竹千代はガッとしがみ付いて決して放さない。

そしてガブリと竹千代は、毛の生えた髭面の太腿に噛み付く。

「痛い、痛い、止さぬか」

痛みに耐えかね髭面は、絞め上げていた吉法師を放してしまう。

吉法師はその場に倒れ、ゼイゼイと息を吐く。

「止めいと言うておろうが」

髭面の大きな手が、竹千代の頭を掴む、しかし竹千代は放さない。

「なんちゅうガキじゃ」

両手を使い、髭面は竹千代を引きはなそうとする。

その時、ゴスン、と鈍い音が響く。

髭面が頭を抱えその場に蹲る。

竹千代が太腿から顔を離し見上げると、そこに薪を持った犬千代が立っている。

「寄越せ、犬千代」

起き上がった吉法師が叫ぶ、犬千代は持っていた薪を、ヒョイッと吉法師に投げて渡す。

「勝三郎」

何処から持って来たのか、勝三郎は薪を三本抱えている、犬千代が呼ぶと、その一本を投げて渡す。

「もう一本」

そう犬千代が叫ぶので、勝三郎は更に一本投げて渡す。

「どうしたおっさんたち、かかって来いよ」

細く長い両腕で、薪を二本、犬千代はブンブン振り回す。

一方の勝三郎は、残った一本の薪を持ち、ピンと背筋を伸ばし青眼に構え、大人の一人と相対す。

この野郎、といって殴りかかって来る相手に、勝三郎は見事な籠手打ちを決める。

「おら、誰がうつけじゃ」

犬千代から得た薪を使い、吉法師は狂ったように、屈んでいる髭面を打ち据える。

「こ、この、もう勘弁ならぬ」

髭面が立ち上がる、かかって来いよ、と肩で息しながら吉法師が応じる。

その時、あ、ああ、あああっ、と大きな声が響く。

竹千代が声のする対岸を見ると、土手の上に吉法師たちと同じ年頃の、身なりのまともな若侍が立っている。

吉法師がその若侍を見ると、相手は頷き、吉法師も頷く。

「やや、やや、そこにいらっしゃるは吉法師さま」

若侍は少し変な調子で大声を上げる。

「ジイが来る、ずらかるぞ」

吉法師は、犬千代と勝三郎に叫ぶ。

逃すか、と掴みかかる髭面をスルリとかわし、吉法師は竹千代を抱える。

「平手さま、こちらでこざいます、吉法師さまは、こちらにいらっしゃいます」

吉法師が走り出すと、それを見て、若侍が後ろを向き誰かを呼んでいる。

少しすると馬に乗った侍があらわれる。

「これはなんの騒ぎじゃ?、万千代、吉法師さまは何処じゃ?」

騎乗の主は川原の喧嘩騒ぎを見て驚く、数人の家来とともに、止めぬか、と騒ぎを止めようとしている。

逆向きに抱えられたので、吉法師に運ばれながら、竹千代はそれを見ている。

待て、と言って吉法師を追おうとする髭面を、後ろから犬千代が頭を叩き、勝三郎が脛を打つ、堪らず髭面は蹲る。

そのまま三人は走り続ける。


土手を超え、集落を抜け、畑を過ぎ、坂を駆け上がり、小高い丘に出た。

ハァハァと息を吐き、吉法師はその場に竹千代を放り投げる。

「ハハハハハハハハハハッ」

吉法師は大の字になり大声を上げて笑う、同じようにその場に座り込んだ犬千代も、ハハハハッと笑い始める、少し離れた場所で珍しく勝三郎が、クククッと笑っている。

「アハハハハハッ」

転がっている竹千代も、なんだか可笑しくなって、声を上げて笑う。

「ハハハッ、ハァハァ、犬千代」

一頻り笑った吉法師が、声を上げる。

「酒だ、酒を寄越せ」

「呑めないじゃないですか」

「よいから、寄越せ」

吉法師が土を掴み、犬千代に投げる。

ヒョイとそれを避けると、へいへい、と言って犬千代は、腰の瓢箪を外し吉法師に投げる。

「どうせ、また吐くだけでしょうけどね」

「うるさい」

吉法師は瓢箪に口をつける、そして犬千代の言葉通り、その場でゴホゴホと吐き出す。

「ほれ、やっぱり」

犬千代の言葉を無視して、吉法師は瓢箪を竹千代に渡す。

「呑め」

竹千代は素直に口をつける、ドロッとした何かが喉を刺し、ゴホゴホとその場に吐き出す。

ハハハハハッと吉法師は笑う。

「呑んだか?」

コクリと竹千代は頷く。

「ならば今からわしらは兄弟だ」

「兄弟・・・・・」

そうだ、と言うと、吉法師は胸を張り、顎を突き上げ、親指で己を指す。

「わしのことは、兄と呼べ、竹千代」

「あに・・・・・兄上」

竹千代は、身体の芯が熱くなった、胸が熱くなった、顔が熱くなった。

「兄上」

もう一度、大きな声で呼んだ。

「ああ、そうじゃ」

吉法師は両手で竹千代の顔を挟む。

「兄上、兄上、あにうえ」

「そうじゃ、そうじゃ、そのとおりじゃ」

カッカと吉法師が笑う、ハハハッと竹千代も笑う。

二人でしばし笑っていると、突然、ん?と言って吉法師が、竹千代の顔を凝視する。

「お、お前・・・・・竹千代・・・・・」

吉法師が顔を歪めて笑う。

「歯が抜けておるぞ」

竹千代は前歯を触る、確かに真ん中の歯がない。

「まことじゃ、まことじゃない」

犬千代も寄って来て、竹千代の顔を覗き込んで笑う。

二人に笑われているのに、竹千代も面白くなって笑ってしまう。

「よいよい、戦の傷は、武士の誉れじゃ」

いつもの甲高い声でそう言うと、吉法師は竹千代の頭をグリグリと撫で回す。

「竹千代、これでお前も一人前の侍じゃ」

青く高い空の下、涼しい風が吹く。

竹千代は吉法師のその顔をジッと見上げた。




それからも吉法師は、三日と空けず竹千代を連れ出した。

「今日は何を致しましょう、兄上」

「そうさな・・・・・・」

吉法師はいつも竹千代を側に置いた、竹千代もいつも吉法師の側に居た。

漁りで魚を捕れるようになった、盗んだ大根を落とさずに走れるようになった、柿の木にもスルスル登れるようになった。

勝三郎に太刀の構えを教わり、喧嘩の時にも打ち合えるようになった。

日々はアッと言う間に過ぎた。

寒くなり、暑くなり、また寒くなった。


突然、吉法師が訪ねて来なくなった。

三日経っても、五日経っても、十日経っても、吉法師は訪ねて来なかった。

どうしたのだろう?

竹千代は不安になった。

何かあったのだろうか?

病気にでもなられたのだろうか?

考えれば、考えるほど不安になる。

もし明日やって来なければ、屋敷を出て探しに行こう。

でも何処を探せばいいんだ?

それにもし、自分がおらぬ間にやって来たらどうしよう。

何日も、竹千代はそんなことばかり考えている。

そんな或る日、数人の男たちがやって来た。

皆、きちんとした身なりの大人の侍である。

なんだろう?と思った。こちらへ、と言って男たちは、竹千代を外へ出し駕籠に入れた。

何処へ連れて行かれるのだろうか?

父のもとに帰れるのだろうか?

揺れる駕籠の中で、竹千代は考える。

もし父のもとに帰れるとしても、吉法師には会いたい、そう思いながら竹千代は、駕籠の中で揺れていた。

しばらくすると駕籠が止まり、戸が開いた、出ると立派な屋敷の前だった。

三河の竹千代の家より、大きく立派な門が立つ屋敷だった。

男たちが、どうぞ、と言って、竹千代に屋敷の中に入るよう促した。

ここはひょっとして、駿府の御屋形さまの御屋敷だろうか?

もしそうなら、キョロキョロすれば失礼なのかもしれないと竹千代は思い、身体を硬くして、中に進んでいく。


「竹千代」

廊下を進むと、竹千代を呼ぶ甲高い声がする。

顔を廊下の向かい側にむけると、そこに吉法師が立っていた。

「兄上」

吉法師はズンズンと足首を鳴らして竹千代に近寄って来る。

「なぜ、兄上はここに?」

思わず顔がほころび竹千代は尋ねる。

「ここはわしの家じゃ」

「まことにですか?」

驚いて竹千代が声を上げる。

見ると、周りの男たちは皆、片膝をつき、吉法師に頭を下げている。

「・・・・・・・・・・」

黙って吉法師は竹千代を見つめる、竹千代も見つめ返す。

なぜ近頃、やって来てくださらぬのですか?

そう尋ねたかった。

しかし吉法師がいつになく、その冷たい目で、ジッとこちらを見つめて来るので、竹千代はただただ見つめ返すしかなかった。

突然、バッと吉法師は竹千代を抱き寄せる。

竹千代は驚き、頭に血が上り、顔が真っ赤になる。

「お前はこれから、駿府に連れて行かれる」

耳元で吉法師のいつになく低い、小さな声が響く。

「でも、必ずわしがお前を助けてやる」

ギュッと抱きしめ、吉法師は告げる。

「必ずわしが、助けてやる」

小さいがしっかりした声で、もう一度、吉法師は言うと、顔を離し、ジッと竹千代を見つめる。

白く美しい顔で、切れ長の澄んだ瞳で、ジッと竹千代を見つめる。

「だからそれまで短気を起こすな、頑固も駄目だ」

両手で竹千代の顔を挟み、吉法師が告げる。

「分かったな?」

コクコク、と二度三度、竹千代は頷く。

すると吉法師は、よし、と言って竹千代の頭を撫でた後、ズンズンと足音を鳴らしてその場を後にする。

「・・・・・・・・・・・」

しばらく竹千代は、顔を真っ赤にして呆けていた。

周りの男たちが、こちらへ、と言うので、正気に戻り、屋敷の奥に向かう。


男たちに連れられて入った奥の部屋には、男が一人座っていた。

この屋敷の主人であろうか、立派な身なりをしていた。

この屋敷の主人なら、吉法師の父親なのであろうか、色は白いが、皺が多く、目の周りが窪んでいる、あまり顔は似ていないように竹千代には思えた。

「・・・・・・・・」

男は黙って竹千代を見つめている、竹千代も静かに見つめ返す。

結局、男は何も言わず、片手を上げると、先ほどの男たちが現れ、竹千代を屋敷の外に連れ出し、再び駕籠に入れる。

必ずわしが、助けてやる。

駕籠に揺られながら、竹千代は吉法師の言葉を、何度も何度も思い出していた。


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