④

 リビングにもダイニングにも、広い玄関からして、大量の毛髪が敷き詰められている。強い糞尿の臭いは意識を持っていかれそうなほどだ。

 祖父の言う通りあらかじめ鼻の下にハッカのバームを塗っておいてよかった。

 不快感を顔に出さないようにしながら、僕は山岡家の母親と思われる女性に案内されてソファーに腰かけた。彼女は虚ろな目で、あらかじめ用意されたような言葉を抑揚なく話した。身なりは整っており、異常など何も無いように見える。しかしこんな異様な状況を受け入れているということ、そのこと自体が悪魔に操られているということの証明に他ならない。僕は確信していた。

 何があっても神を疑ってはいけないよ、と家を出る前に祖父に言われた。腕にかけたロザリオを握り締める。産まれた時からプロテスタントなのだ。聖書は、キリストの言葉は、血となって体を流れている。今更悪魔の誘惑に負けて神を疑うことは有り得ない。


「いらっしゃい」


 ひどく耳障りな声がした。男がわざと高い声を出そうとしている、そんなような声だ。振り向いて、思わず目が離せなくなった。

 細身ではあるが、明らかに男性が、深いスリットの入ったタイトなロングドレスを身に纏っている。透き通るように色が白い。くっきりと整った目鼻立ちからして恐らくかなりの美男子なのだろうが、めちゃくちゃにほどこされたメイクのせいで台無しだ。彼は真っ赤な唇を吊り上げて微笑み、こんにちは、と言った。

 ハッとしてすぐに姿勢を正し、「功旺社から参りましたSTAR編集部の青山です」と名乗って名刺を渡した。


「随分若いのね」


「童顔なもので」


 下手に言い訳はしない。相手の言ったことには基本的に正面から向き合わず、限りなく同意に近い曖昧な態度を取る。ボロが出るから。これは佐々木るみ先輩が言っていたことだ。僕はきちんと実践できているだろうか。

 僕は続けて横にいる笠島功の紹介をした。


「彼はライターです。横で記録を取ったりしますがお気になさらず」


 あまりにも美しい、不気味な女装をした男性はにこりと笑ってええ、と言った。怪しまれなかったようだ。

 決意を決め、大きく息を吸ってから切り出す。


「大変申し訳ないのですが、ご夫婦インタビューということで、できればご主人様にもここにいらしていただきたいのですが」


「わかりました……でも」


 彼は女性のようにかわいらしく首をかしげる。


「夫はお■■■人形なので答えられないかもしれないですよ」


「おま……え?」


 突然出てきた日常にそぐわない異様な言葉。彼は僕の動揺など気にする様子もなく、立ち上がって玄関とは反対側の扉を開け、呼びかけた。


「こうちゃん、呼ばれてるよ」


 くぐもったうめき声と共に、四つん這いの男が這い出して来る。

 思わず身を引くとソファーについた右手に髪の毛が絡んだ。


「夫のこうちゃん、幸太郎です。お■■■人形です」


「は……じめまして……ご連絡差し上げました青山です」


 山岡幸太郎というのは、斎藤先生が言っていたあの最初に怪異にあった男子大学生なのか。なぜこんな、モノのような扱いを受けているのか全く分からない。彼も、玄関であった女性と同じく、ひどく虚ろな目をしている。

 男性は山岡幸太郎を床に横たわらせるとその上に足を乗せた。


「で、取材、やらないんですか?」


 目を合わせることができない。動悸が止まらない。自分なりに覚悟を決めてここに来たはずだった。悪魔に取り憑かれた、何の罪もない男性を救う、そういう心づもりで訪れたのに、声が、行動が、異様な状況が……今すぐ外に出て逃げ出してしまいたいくらいだった。ふいに右手がチクリと痛む。隣に座った笠島が僕の手をつねっていた。


「……すみません、続けさせていただきますね。奥様のお名前から伺ってもよろしいでしょうか」


「須田……うふふ、今は山岡真理恵です」


「ご職業は」


「専業主婦です」


「差し支えなければ出身大学を教えていただいても?」


「東都大学歯学部です。結婚するので中退しました」


 順調にインタビューは続いていく。やはり間違いない。これは須田真理恵だ。なんらかの形で悪魔となってこの男性の体に憑依した。祖父の話を思い出す。存在を認知させ、攻撃して弱らせ、取り憑く。三段階目だ。僕は今、悪魔と対峙している。恐ろしいのは当たり前だ。談話室で感じたあの這うような視線。あのときは祖父がいた。佐々木るみ先輩がいた。でも今は、その視線の先には僕しかいない。

 僕はもう一度強くロザリオを握り締める。この男性を助けなくてはいけない。祖父のように専門家ではない。先輩のように度胸も知識もない。それでも僕はキリスト教徒で、神の子羊だ。


 このインタビューは笠嶋が考えた作戦である。

 彼のオリジナルなのか、神道に由来するものなのかは分からないが、スタンダードな憑き物落としの一種だという。

 対象の人物に質問を投げかけていく。それは名前でも、好きな食べ物でも、週末の過ごし方でも何でもいい。質問に答えさせながら対象者の人物画を少しずつ描いていく。百の質問が終わり絵が完成したとき、悪いものは対象者の中から追い出され、絵の中に封じ込められるという。

 悪魔にこれが効くかは分からない。もし効かなかったとしてもその場に拘束できればよい。その後の始末は僕の祖父に任せる、そういう作戦だ。

 雑談を交えながら、質問は半分を過ぎた。笠島が目配せをしてくる。いよいよ、だ。


「この家の髪の毛はなんですか」


 質問をした瞬間空気がピシリと音を立てたような気がした。目の前の男性の薄茶色の瞳がギラギラと光っている。


「髪の毛ってなんですか」


 男性は息がかかるほど近くまで顔を寄せて尋ねる。長い睫毛が鼻に触れ、思わず仰け反る。

 笠島が立ち上がり、テーブルの上を指ですす、となぞって言った。


「こん髪の毛ですわ。これ、なんですか」


「ああ、髪の毛ですね、私の、髪の毛です」


「さいですか。えらいすいませんね、皆さんに聞いとるんですわ」


 男性は再び笑顔に戻り、僕から顔を離すと足を組みなおした。


「ほな、青山さん、インタビュー続けましょ」


「はい……では続けますね」


 それからの質問は、どれも絶対にファッション誌ではありえない、それどころかアンケートでさえなく、の彼が学力の高い学生だとしても、おそらく即答などできない質問だった。しかし彼は瞬時に、呼吸のように答えていく。


 仏教の刹那とは、具体的に何秒を表すのか。

 ――七十五分の一秒。


 もし太陽がなくなったら十年後に地球の気温は何度になるのか。

 ――マイナス123.3度。


 ものごとを無理矢理ある基準に当て嵌めることをギリシャの慣用表現で何という。

 ―― Προκρούστης,Κρεβάτι


 西暦1500年以前に刊行された活字本の総称はラテン語で何という。

 ――incunabula


 第42番目の卦は。

 ――風雷益。



 70問目の質問が終わった時だった。

 絵はほぼ、完成している。高い鼻、清々しいまでに潤った唇、妖艶な口元の黒子、しかし彼の顔の中で最も印象深い目の部分だけは未だ空欄のままだった。


 深呼吸して気合を入れなおす。

 そこでやっと、肩が重いことに気付く。冷えたか、それとも緊張か。この家に入った時からずっと気が張り詰めていた。自分でもどうやってここまで話し続けられているのか不思議なくらいだった。喉もからからに乾いている。出された紅茶を口に含むと――吹き出した。それと同時に耐えがたい激痛が口の中に走る。たまらずせき込むと血がデニムにべっとりと付いた。

 吐き出されたものをよく見ると、大量の髪の毛と蛆虫が――


「気付いてますよ」


 耳障りな裏声に、ノイズのようなものが混じった。


「気付いていて付き合ってあげたんです。青山幸喜くん。伯明大学二年生の青山幸喜くん。ひいお爺様がアイルランド人の青山幸喜くん。小学校ではマラソンが嫌で授業をサボっていた青山幸喜くん。中学三年生のときに彼女がいると見栄を張って従妹のリリーちゃんとデートした青山幸喜くん。高校二年生で彼女とのエッチのとき失敗してフラれた青山幸喜くん。全部分かっているんです。お前がどこで生まれて何をしてここで死ぬのか、分かっているんですよ」


 やられた、と呟いた笠嶋の声が聞こえる。彼の手元のスケッチブックに、ヤギのような、たくましい男性のような、蛇のようなものが描かれている。そんなもの、さっき見たときにはなかった。美しい男性の目だけが欠けていたように、今の絵には首だけがない。黒で塗りつぶされている。何もかもがおかしかった。

 肩はさっきよりずっと重くなっている。僕はもう、座っているのさえやっとだ。


「あのね今私はとても幸せなの。全部がうまくいってるの。彼が私に力をくれたからなんだってできるの。おまえたちは邪魔だ、いらない。いらない。騙しやがって。いらないんだよ」


 足元から真っ黒な髪の毛が迫ってくる。もう、指先さえ動かせない。


 ――たかあまはらにかみづまりますすめかみたちいあらはしたまふとくさみつのたからをもってあまてるひこあめほあかりくしたまにぎはやひのみことにさづけたもうことおしえて


 絞り出すような声で唱えている。しかしきっと、それは意味がない。

 意味がない、ことはない!

 僕は懸命に信徒信条を唱える。

 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

 我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。


「神様が何をしてくれたんですかァ」


 全能の父なる神を信ず。


「神様はいつお前を助けましたかァ」


 全能の神なる父を信ず。


「神様を信じて見返りはありましたかァ」


 全能の父なる神を信ず。全能の父なる神を信ず。全能の父なる神を信ず。全能の父なる神を信ず。全能の父なる神を信ず。全能の父なる神を信ず。

 こんなに必死に祈っているのに、大量の毛髪は肌を引きちぎらんばかりの勢いで食い込み、目の前の闇はなお暗く、耳にはもう悪魔の声しか届かない。


「三回神を疑った、お前の負けだ」


 耳元で悪魔が囁いた。


 ――神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり

 さればたとひ地はかはり山はうみの中央にうつるとも我儕はおそれじ――


 ああ嫌だ。こんなときでも聖句がこびり付いている。「神はわがやぐら」という賛美歌の歌詞だ。神様はやぐらのようなもので、どんな辛い時も常に共にいてくださる。それであるならどんな困難があっても恐れずただ神を信じる、そういう内容だ。生まれた時から信徒だった。筋金入りだ。しかしそれは同時に環境的要因で信徒になったに過ぎないということでもある。

 そうだ、彼の言う通りだ。神は助けてくれない。神を疑っている。やぐらは崩れた。

 いままさに悪魔は彼の体を破り、その肢体を露ににしている。山羊のような太い角がとぐろを巻いて眩しく輝き目を奪う。これが敗北というならそれも悪くはない。明け渡してもいい。

 マルティン・ルターは悪魔は肛門に棲むと言った。だからそれは唐突に肛門から始まった。突き入れられたそれは肛門を通って腹に広がる。強烈な吐き気が襲ったがそれが気にならないほどに頭は言い知れない何かで満たされていた。

 幼い頃から常に傍にあったはずの神様は何もしてくれなかった。神様は助けてくれなかった。そしていま、幸せというのは。

 悪魔は瞬く星のような深い色の瞳だった。なんて美しい。目が合っ


 ゴン、と何かを叩く音がして、急に肩が軽くなる。

 小太りの女性が目の前に立っている。


「遅くなってすまなかったでござるな。少々邪魔が入りましたゆえ」


 佐々木るみ先輩だ。彼女が天使にも見えて、思わず腕に縋りついた。暖かくやわらかな感触に涙がとめどなく溢れる。

 涙でにじんだ視界の端には男性の太ももが見えた。

 笠嶋が服についた髪の毛を忌々し気にむしり取りながら、


「ねえちゃんにはかなわんわ」


 と呟く。


「いやあ、こうするしか方法はありませんでした、ドゥフ」


 佐々木るみ先輩は照れたようにハンマーを振って見せる。

 殴り倒した、ということなのだろう。あらためて僕は先輩の豪胆さに舌を巻いた。


「幸喜、よく頑張ったね」


 気付くと祖父が正装をしている。そういえば午後には来ると言っていた。

 爺ちゃんごめん、神様を捨ててしまったよ、そう言おうとしてもただただ涙と鼻水が溢れた。


「それでは皆さん、今のうちに彼を縛り上げてください」


 祖父が聖水を散布する。


「確実に蝕まれています。彼も、この家も」


 祖父はそう言い切ってから僕に目を向ける。


「お前は後だ、幸喜」


 祖父は優しく微笑んだ。


「神は全てを許してくださる、例えお前が疑っても」


 涙が止まらない。




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