第四章

第46話 もう駄目だ

 ――あれから三日。

 永慈は病院のベッドの上にいた。以前、身体異常を起こしたときに運び込まれた医療センターだった。

 永慈は再び入院患者となっていた。

 

 ――昴成を救出した後。

 彼を自宅に送り届けると、たまたま昴成宅に泊まりに来ていた明依に見つかった。

 娘に物凄い剣幕で迫られ、そのまま即、永慈は病院に連れて行かれた。

 当初の言葉通り、対応は浦達医師が行い、入院の決定が下された。


 ここまでの流れを、永慈はぼんやりとしか覚えていない。

 気力が湧いてこない。

 身体に力が入らない。

 頭の中の冷静な部分が警鐘を鳴らす。心も、身体も、非常に危険な状態になっていると。

 以前の――エリュシオンに突入する前の永慈ならば、どんなに辛くても前に進む意志を見せることができた。だが今は、永慈にとって一番大事な、存在意義と言ってもいい部分に亀裂が走っていて、そこから次々と生命力が漏れ滴り落ちていた。


『今度この世界で俺の前に姿を現したら――アンタを殺す』


 冗談ではなく、このまま干からびて死んでしまうのではないかと、霞のかかった思考の中で永慈は思っていた。

 涙も出ない。

 涙腺を緩める力も涙を流すほどの感情の強さも失われたのかもしれない。『泣く』ことは力溢れる者だからできる立派な行為なのだと、どこか他人事のように考えた。


 時刻は消灯を過ぎた頃である。

 前回の入院と同じ病室。窓の外の視界は広く、街の灯りが残酷なほどよく見える。あのひとつひとつに、程度の差はあれど、普通の、幸せな家庭が宿っていると考えると辛かった。

 永慈は窓に背を向けるように寝返りを打った。


 そのとき、病室の扉が開かれた。一瞬、永慈の全身が硬直する。

 間仕切りのカーテンを開いて現れたのは、浦達医師であった。

「おや、まだ起きていらっしゃったか」

 いつもと変わらない口調である。

 浦達は枕元に立つと、患者の顔色をうかがったり、脈を測ったりした。ふむ、と小さくつぶやく。永慈はされるがままだった。


 その間、別の人物が病室に入ってきた。大柄で、黒々と顎髭あごひげを蓄えた男である。

 永慈の記憶が、ひとつの単語を引っ張り出す。

「所長……」

 永慈が胡乱な目を向けると、男は驚いていた。永慈の呼びかけには応えず、浦達の隣に立つ。


「浦達先生、俺がここに来ることを彼に伝えていたのですか?」

「いいえ。単にが来たから声をかけただけでしょう」

「参ったな。

「何をおっしゃる。彼の本来の力はこの程度ではないことは、あなたがよくご存知ではないですか。深津浜研究所の長たるあなたなら」

「まあ、そうなのですが」


 二人の視線を感じる。

 サイレンの音が遠い。高層階にある病室には、地上の響きはなかなか届かない。

 今の永慈にとって、その隔絶感は有り難かった。

 自分でもわかる。今、三阪永慈という人間の目は恐ろしく空虚だろうと。


 大柄な男がため息をつく。

「浦達さん、始めましょうや。。このような姿を見るのは、俺も心苦しい」

「わかりました。行きましょう」

 固定が外され、病室の外にベッドごと運ばれる。

 自分でも不思議なほど平淡な心持ちで、永慈は尋ねた。

「俺は処分されるのですか?」

「検査と調整をするだけですよ」

 浦達が答えた。永慈はそれ以上追求しなかった。


 誰もいない廊下を静かに運ばれていく。天井タイルの継ぎ目が視界を流れる。

 急に。まるで切れた電線から火花が散るように。永慈の思考に疑問が弾けた。

 ――処分とは、何だ?

 ――調整とは、何のことだ?

 心臓が一度、強く脈打った。自分の発した言葉なのに、何でそんなことを言ってしまったのか理解できない。

 そのとき永慈は、「これが死ぬ間際の人間が考えることなのか」と寒気がした。


 恐怖で頭に血が巡り始める。それを合図にしたように、いつか夢に見た光景がフラッシュバックした。

 無機質な四角い部屋。

 白衣の人間たち。

 薄暗いどこか。耳をつんざくばかりの咆哮。

 規則正しい心音。

 巨大な牙。

 巨大な――蛇型のモンスター。隣に立つ美しい女性。

(夢でも、幻でもないのか?)

 ごうごうと、耳の奥で血が巡る。

 フラッシュバックが繰り返される。凄まじい勢いで繰り返し、繰り返し。

(俺は、全部、知っているのか?)


「三阪永慈さん」

 浦達の言葉が降りてくる。彼のかさついた手が、永慈の視界を遮るように添えられた。

「お忘れなさい。あなたにはもはや、真実を受け入れる時間は残されていないのですから」

 医師の言葉が、永慈の心の動きを鈍く沈めていく。意識がブラックアウトしていく。

 

 ――結局。

 永慈はこの夜、自分がどこに連れて行かれ、どんな処置が施されたのか知ることはなかった。

 目を覚ましたとき、彼はこの病室での夜のことを――自分が何に気付いたかさえ――覚えていなかったのである。

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