第18話 老化

 ――午後の授業は、体育だった。

 まだだるような暑さではないにしろ、授業内容が五十メートル走のためか、生徒たちの士気は低い。

 永慈の表情もまた冴えなかった。ただ、内心はクラスメイトと違う。


『いつかちゃんと言おうと思ってたんだけど……あいつ、最近学校をサボりがちらしいの』


 昼食時に明依から聞いた話だ。

 永慈のイメージでは、慧はどちらかというと人付き合いが苦手で、本ばかり読んでいるような子だ。父親の色眼鏡を引いても抜群の容姿をしているから女生徒にはモテたようだが、特定の誰かと付き合うという話は一度も聞かない。

 授業を放棄するほど不真面目ではないはずなのだ。


『慧君、何か悩んでいるみたいでした。私で力になれればよかったのですが、やんわりとかわされてしまって』

 いつもほがらかな穂乃羽が、慧の話をしたときだけ悲痛をにじませていた。

 慧の悩み。思い当たる節はひとつ。


『俺は生まれ変わりたいんだ』


 親子だ。瞳を見れば慧が本気かどうかはわかる。

 今まで、子どもたちが真に望んだことであれば、どんな道だろうと全力で応援するつもりでいた。その結果親元から離れていくことになっても、それは立派な自立であり、巣立ちであり、親として耐え喜ばなければならない通過儀礼なのだと考えていた。

 だが家族どころか親しい間柄の人間にも何をしているかを明かさず、加えて学校まで無断で休むとなると――普通ではない。

 慧の言葉を信じて任せるべきか。

 親として介入すべきか。

 一度、こうと決めたら突き進むことを信条とする永慈だけれども、今は迷っていた。

 慧の言葉が蘇って胸に刺さる。『俺は、あんたを父親とは認めない』――。


 ――クラスメイトたちが不意に湧いた。

「すげ。重政しげまさの奴、六秒ジャストだってよ」

「鬼はえー……国体行けんじゃねえの?」

「あれで陸上部じゃないんだろ。やべー身体能力してるわ」

 どうやら凄い記録が出たらしい。気がつけば永慈の番になっていた。

 教師に促されスタートラインに立つ。

 とりあえず思いっきり走って頭をスッキリさせよう――そう考えながら前を向く。ゴール地点で先ほど走った生徒がこちらを見ていた。遠くて表情はわからないが、腕組みをして悠然と待ち構えているように見えた。

 ゴール地点から教師が手を上げる。

「よーい、スタート!」

 右足に力を込め、走り出す。元々運動能力には自信がある。伊達に公務員時代にあちこち走り回っていない。併走する男子よりも前に出る。


 違和感を覚えたのはスタートからわずか五メートルほどの地点だった。

 周りの風景が、やけにゆっくりと流れている。

 足に力が入らず、スピードに乗れない。クラスメイトには早々に追い抜かれ、その背中がどんどん小さくなる。

 動きが鈍いだけではない。急激に体力を消耗し、ぜえはあと荒い呼吸を身体が勝手に始めてしまう。心臓の鼓動は耳にうるさいほど鳴り響いているのに、うなじの部分がぞくりと冷たく震えた。

 この感覚。車検前のボロ車がいよいよヤバい音を出し始めたときに感じる悪寒と似ている。

 本能的に悟る――このまま無理して走れば、倒れる。


「三阪、十秒一。疲れてるのか? もうちょっと頑張れ」

 教師に声をかけられても応えることができなかった。膝に手を当て荒い呼吸を繰り返す。本当はへたり込みたかったが、根性で自制した。

っそ」

「女子より遅いんじゃね?」

「なんか速そうに見えるんだけどなあ」

 クラスメイトたちの驚きと困惑の声が聞こえてくる。


 なかなか息が収まらない中、永慈は自嘲の笑みを浮かべた。

(なるほど。『若返り』ではなく『老化』か。お医者様の言ってたのはこういうことかよ)

 自らの衰えと寿命を、まざまざと突きつけられた気がする。


 震える手を見る。

 永慈は、何のためにこの場にいるのかを思い出した。

 この命を懸けて、子どもたちに財産を残す。自分がいなくなった後も前に進めるだけのモノを残すのだ。

 そのために、ここにいる。この道を進むと決めた。

(だからお前も前に進め、慧。たとえ拒絶されようとも、俺はお前を信じよう)


 ふと、肩を軽く叩かれる。あの腕組みをしていた男子生徒だ。近くで見ると永慈と同じくらいがっしりした体型をしていた。

「お疲れ。しっかり見させてもらったよ、君の走り」

 細い目が永慈を見下ろしている。

「あんなタイムで笑みを浮かべるとは、ずいぶん会心の走りだったようだ」

「……自分でも……驚いてるよ……」

「そうか。己の実力を正確に把握するのは大事なことだ。あとは、身の丈に合った振る舞いをすることだな」

 再び肩を叩き、男子生徒はきびすを返した。彼の前をクラスメイトが次々と避けていた。


 ようやく上半身を起こした永慈は、汗を拭って息を吐く。

「……肝の据わった高校生もいるもんだな」

 タイムが遅いのは事実なので別に腹は立たないが、人を見下すあの言動は微笑ましいを通り越して心配になる。自信に溢れ、自分より下と見た人間にはチクリと棘を刺すことを忘れない――社会人をやっていたときに時々出くわした人種だ。

 周りも大変だろうにと考えたところで、自分もその『周り』に属するのだと気付いた。

 寿命問題。我が子のこと。クラスメイトとの人間関係。

 越えるべき壁は大きいと改めて永慈は痛感した。

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