魔人救世主

「無体な……!? この方は、切支丹同胞を救おうとしていたのに」


 千鶴は、怯えながらも榊世槃を咎めた。

 色違いの瞳を持つこの男は、あまりにも無造作に切っ先を突き刺した。理由など、まるでないと言わんばかりに。

 そうだとしたら、浮かばれない。


「ひとつは、機が熟したということ。もうひとつは、気にくわんから、かな」


 せせら笑いながら、世槃は答えた。

 いつの間にか現れた邪々丸が、その脇で楽しげに笑っている。


「気にくわない……?」


 思いもよらぬ答えであった。

 千鶴と同じく救い主の教えを信じ、広めようと異国の地に潜入した伴天連を、そんな理由で殺すものだろうか。


「まるで切支丹のみが虐げられているかのように言う。それが気に食わなんだ」

「違うというのですか」

「ああ、違う。この国では禁教と定められてはいるが、海の向こうでは大きな力を持っている。その教えを巡って無残に殺し合っているのだ」


 疫病と凶作、そして火薬の発達と傭兵の動員によって三十年戦争は酸鼻極まる様相を呈していた。金で雇われた傭兵たちの士気の高揚と異端根絶の背景によって、略奪と殺戮は頻繁に発生した。


「この目と髪の色でわかろうが、俺は海の向こうで生まれでな。幼い頃より、大勢の者どもが木に吊るされる光景を見てきた。まるで果実が成ったようであったぞ」


 世槃は、事も無げに言う。

 それほどに日常だったのだろう。


「こちらの国でも、戦国の世では珍しくはなかったと聞く。神の教えを信じようが、やることは変わらぬ」

「あなたは……切支丹ではないのですか?」

「洗礼は受けたが、『聖書ビブリア』の教えを信じたことはない。俺には信じる理由もない。俺は、魔女の子なのだ――」

「魔女の、子……?」

「そうとも。この瞳こそ、その証。俺の母は、悪魔と交わりその子を生んだ魔女として告発され、狩られたのだ」


 三十年戦争と同じ時期、ヨーロッパを覆った災禍に魔女狩りがあった。

 悪魔と契約し、超然的な力で害悪をもたらす魔女の存在が信じられ、民衆は魔女を告発し、狩り出そうとした。合理主義と人文科学が発達した時代であるが、迷信と偏見、差別による恐慌が多くの悲劇を生んだ。

 ドミニコ会士の異端審問官ハインリヒ・クラーマーの『魔女に与える鉄槌』は、妖術師の実在と排斥を訴えた。

 この書物が、教皇インノケンティウス八世の回勅の引き合いに出されたこと、ケルン大学の神学教授たちの署名によって権威を得て広まっていった(著者クラーマーの工作、捏造も指摘されている)。活版印刷の発達によってこの書物は刷数を重ね、魔女告発と裁判の手引書として活用されることになる。

 魔女狩りは、トリック側だけではなくプロテスタント側でも行われ、は教会の関与しない私刑も横行した。


「母は、この国の生まれだが、人買いに売り飛ばされて海を渡った。異国の地で誰が父とも知れず俺を生んだ。そのうち疫病が流行ると人々は魔女のせいだと恐れた。異国生まれで、変わった目の色をした子を持つ母が魔女だとされた」

「そんな……」

「母は自白したのだ、おのれこそ魔女であると」


 家畜が死んだ、凶作が続いた、何かあれば魔女のせいだとされ、立場の弱い孤立している女性がまず魔女と疑われた。異国から来た娼婦など、絶好の標的だ。

 魔女と告発されると、もう逃れようはない。

 疑わしいものはすべて証拠として採用され、魔女は悪魔と契約すると痛覚のない印を刻まれるとして仕掛けのある針で刺すなど、証拠の捏造さえ行われた。魔女の告発には報酬が出た例もあり、財産は没収された。

 処刑された魔女の多くが、拷問によって自白させられている。


「母は、まず鞭で打たれた。次に、指を潰された。焼鏝も当てられ、人とは思えぬ悲鳴を上げた、泣き叫んでも責め苦は続くのだ。水責め、火責め。挙げ句、その操を弄ばれもした。魔女を裁くと、何人もの男が母の上に覆いかぶさった――」

「やめて……!!」


 あまりの痛々しさに、千鶴は耳を塞いだ。

 聞いていられないほどの光景である。世槃は、その光景を見せつけられたのだ。

 「悔改めよ」とは贖罪を説くキリスト教の言葉である。ゆえにその罪に比した苦痛は贖いであり、罪を浄化して悔い改めるものと解釈された。

 この思想によって異端審問の拷問技術が発達していく。世槃の母親の指を潰したのは、親指潰し器という拷問具だ。その他、苦悩の梨、ユダの揺り籠、リッサの鉄櫃てつひつなど、人間に苦痛を与える方法と道具が考案された。


「異端審問官は母にこう言った。『お前が魔女でないなら、悪魔との間に生まれた子が災いをもたらしたのであろう。次は、この子の番だ』とな。母が悪魔と姦通し、魔女であると罪を認めたのはそのときだ。生きたまま火炙りにされ、灰となった」

「ああ……」


 瞳の特徴によって母親が魔女とされ、目の前で責め苦に遭い、燃やされた――。

 これほどむごい地獄があるものだろうか。


「悪魔の子と蔑まれた俺だが、修道院に預けられてな。信仰の道で立ち返らせるという名目だ。しかし、悪魔の子は、その中で苛まれ、犯されても誰も信じてはくれぬ」


 世槃もまた、地獄を味わった。

 瞳の色を悪魔の烙印とされ、浄化の名目で苛まれ続けた。

 いかに虐げられても、魔女が生んだ悪魔の子と烙印を押されれば、助けを求めても聞く耳を持つ者はいなくなる。

 犯されたと告げても、余人を貶しいれるために嘘をついたのだとされてしまう。

 そのような境遇から這い上がり、この国にやってきたのが榊世槃であった。


「あなたの苦しみは、わたくしごときではわからぬものかもしれません。それでも、それでも……」

「それでも、何かな?」

「いつか、救いの御手が差し伸べられます!」


 信仰に基づく、希望の光。

 母から伝えられたその教えを、千鶴は信じて今ままで生きてきた。


「さすがは聖女のごときお言葉だ。しかし姫よ、深い地獄に堕ちた者が、本当に救済を求めるとお思いか?」

「……違うというのですか?」

「いかにも、違う。救われると信じることができるのは、まだ助かるという望みがあるからだ。まことに望みを失うと、おのれが救われるなど到底信じることができぬ。ただ、その身が味わった地獄に引きずり込み、これほどの苦しみを受けたのだと世に知らしめてやりたい思うのだ」


 それこそが絶望、死に至る病――。

 青と緑の世槃の瞳が、闇を宿した。

 憎悪のみを残し、他の感情が消え失せてしまったと思えるほどの色。

 その業の深さに、千鶴は、ただただ、震えるしかなかった。


「しかし、苦しみの果てにこそ、神はある。その神とは、俺のみが見たものだ。聖書と教会がいう神ではない」

「あなたは……」


 尊い神の実在を疑うのは、その壮絶な経験から無理もないことかもしれない。

 聖書の教えを信じる理由がないと言ってのけた世槃の言葉が、深く突き刺さった。


「煉獄の業火がこの国を覆い、あらゆるものが焼け払われれば、衆生は苦しみから逃れようと救い主を求める。俺は、その業火の中にこそ降臨する」

「あなた自身が、救い主になると……!」

「そうだ。魔女から生まれた悪魔の子が、真の救世主アンチ・クライストとなる――」


 アンチキリストは、新約聖書にあるヨハネの手紙で言及されている。

 終末に現われ、御父と御子を否認する者とされる。奇蹟と霊感によって惑わして救世主に成り代わり、偽りの教えを広める不法の者であると。

 未曾有の苦しみを引き起こし、救いを求める人々の願いに乗じて救世主とならんとする。

 これこそが、魔人榊世槃の企みであった。


「そのためには、切支丹の教えも幻であると打ち砕かねばならぬ。ゆえにこそ、聖痕を宿した奇蹟の姫にはいただく」

「――……!?」


 思わず、千鶴は牢の中で後ずさった。

 カトリック勢力と隠れキリシタンの結束を強めるための聖女とするのではなく、その信仰を根底から覆すべく、棄教を誓わせようという。聖痕を刻まれた奇蹟の姫が教えを否定すれば、信徒たちに走る動揺は計り知れない。

 ゆえに、信仰を打ち砕く。


「さればこそ、人はこの榊世槃のみを崇めよう。存分に苦難をその身に受け、神がおるのかを見極めるがいい」


 そうして岩牢の戸が開かれる。

 怯える千鶴に、憎悪を宿した魔人の手が伸びていった。

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