奇蹟洞

 千鶴は目を覚ます。

 暗く、冷たい、岩の牢であった。

 薄い襦袢だけの格好に、冷たさが凍みる。

 燭台の灯りが、薄ぼんやりと照している。

 江戸から離れた地に送られたのはわかっている。

 そこから先は、一体どうなったのか……?


「お目覚めでございすな、姫様――」

「ひっ……」


 小さく悲鳴を上げる。

 自分をさらった逆卍党の一人、有廉邪々丸が千鶴を窺うように牢でしゃがんでいたのだ。

 白皙の美少年だと、そう言っていい。

 だが、死人のように青白い肌と赤い瞳――。

 この世のものではない魔性の輝きである。

 事実、この少年は抜刀小町美鈴の血を啜り、夢見客人に腕を切られてもすぐに接合してみせたのである。


「あはは、私が怖いのですか。奇蹟の姫君ともあろうお方が」

「なんのことでしょう?」


 奇蹟の姫君とは、自分のことを指すのであろうか。

 千鶴には、わからない。

 ただ、思い当たることならある。


「まだご自身の価値を存じ上げぬのでしょう。ええ、直にご党首が教えてくれますから、ご安心を」

「あ、安心など!」


 怯える千鶴が、邪々丸にとっては可愛らしくてたまらない――。

 そんな笑みを浮かべて悦に入っている。

 邪々丸は、千鶴の監視役なのだろうが、牢の内側にいるという点においては恐怖でしかない。

 まだあどけなさを感じさせる面立ちだが、赤い瞳には情欲のようなものが宿っている。


「そう、邪険にしないでくださいませ」


 邪々丸が、ずいっと乗り出してくる。

 思わず後ずさるが、狭い岩牢の中に逃げ場はない。

 追い詰められていく。千鶴の胸元から首筋に、少年とは思えぬ淫猥いんわいな視線が絡みつく。


「こ、来ないで……!」

「ふふ、ほんの少しだけ、少し噛ませてくださいな。痛くはないのですよ? あの剣術使いの姐様のように、蕩けるような心地になれますから」


 岩肌にすがりつく千鶴の手を取る。

 華奢な体格からは想像もできない強い力だ。振り払うこともできない。

 愛おしむように、弄ぶように。

 千鶴の震える手が、より一層と被虐心をもたらした。


「い、いや……! ああ……」


 邪々丸の牙が迫る。

 ふと、襦袢の内側に入れた守り袋のことを思い出す。

 生涯ただ一度きり。

 もはやこれまでと覚悟ときのみ開けていい、草双紙書きの無縁亭想庵はそう言った。

 さっと片手で解き、その中に秘められたものに触れる。


「これは――」


 今は、これほど心強くありがたいものはない。

 想庵は、やはり知っていた。千鶴の秘密を。

 それを握りしめ、千鶴は祈る。


天守デウス様……」

「今、なんと? あ? あああっ! ひいいいいいっ……」


 今度は、邪々丸が恐れる番だった。

 頭を抱え、牢から転げ出ようとするほどだ。

 千鶴が手にしたのは、銀の十字架ロザリオ――。

 キリスト教徒の信仰の拠り所であり、吸血鬼を退けるものだ。

 神の加護が、悪しき牙から千鶴を救ったのだ。


「な、何故、そんなものを!? い、いいいやだ! 見せないで、ひいいいっ……」


 邪悪なるものは、聖なるものを恐れる。

 折檻を恐れる子供のように泣きじゃくった。


「手下が失礼をしたようだ、千鶴姫――」


 いつの間にか、牢の外に逆卍党の頭目、榊世槃が立っていた。


「ご党首様ぁ……ぎゃっ!?」

「誰が血を啜ってよいと言った?」


 邪々丸は甘えるような声で世槃にすがったが、平手打ちで打ち据えた。

 めそめそと泣く邪々丸に、世槃の鋭い目が冷えていく。


「さて、千鶴姫。やはり、信心深き切支丹であらせられたようだ」

「…………」


 千鶴の秘密――。

 それは彼女がキリスト教に帰依していること。

 知っての通り、禁教令によって切支丹は弾圧されている。

 母は隠れキリシタンであり、千鶴もまた和訳された聖書を読み、洗礼を受けている。

 この秘密が知られれば、藩も取り潰され千鶴自身の身も危うくなる。


「ご安心を。この地は切支丹の隠れ所ゆえ、公儀の宗門改しゅうもんあらための目も届きはせぬ。あなたは、奇蹟を宿した姫君なのだ」

「私は、そのようなものではありません。お願いです、帰してください……!」

「そういかぬ。あなたには、まだ用がある。無理やり引きずり出されるのがお嫌なら、ご自身の足で歩むことだ」


 千鶴は立った。

 襦袢一枚のみというあられもない姿には羞恥と恐れがある。

 だが、無理に引き立てられるよりはましだった。

 しばらく歩かされると広くなった場所にでる。

 大勢の視線が、世槃と千鶴に集まった。


「世槃よ、それが奇蹟の姫か?」

「いかにもです、御前」


 問う十字架公方に、世槃が返答した。

 見守る一団には、富士行者に身を扮している者もいる。

 千鶴に、興味を向けるのは彼らだ。


「奇蹟があるならば、是非にも」

「しからば――」


 世槃は、千鶴からは強引に襦袢を剥ぎ取る。

 その裸身を衆目の前にさらしてしまう。

 膨らんだ乳房と、透き通るよな若々しい肌。

 遠慮なく刺さるような視線から逃れるようにしゃがみ込み、両の手で胸を隠した。


「いやっ、無体な……」


 か細い、抗議の声を上げることしかできない。

 そんな千鶴の鼻先に、世槃は刃を向ける。

 祈った、心の中に住まう神に、恐怖からの救いを求め――。


「ご覧のとおり、奇蹟にございます」

「おお……」


 感嘆の声があった。

 千鶴の肌から流れる赤い血を見たからだ。

 幼い頃より苛んできた、謎の出血。

 掌、脛、背中、脇腹、頭部。傷もないというのに、赤い血が滲む。


「神よ……」


 十字架公方が跪いて祈った。

 数名の富士行者たちもこれに続く。


「いかがか、イエズス会士の方々」

「東の果ての国で奇蹟が現れたのなら、十字軍の遠征も夢ではありますまい」


 冨士行者の話す言葉には、訛りがあった。

 世槃は彼らをイエズス会士と呼んだが、よく見れば顔つきや髪の色が日本人とは異なる。

 その人種的特徴は、ラテン人のものだ。

 彼らは、幕府による禁教令にもかかわらず日本への布教と浸透を目的に密航した一派である。

 イエズス会は、騎士の従者であったイグナチオ・デ・ロヨラが初代総長を務め、会士たちに教皇と上長への絶対服従が求められた。「軍隊のごとき」という言葉で表される戦闘的宣教集団でであり、みずからを教皇の精鋭部隊、布教の尖兵と位置づけ、自己犠牲の精神で危険を顧みずに異教の地にも進んで潜伏する。

 その彼らが、十字軍の遠征も可能とする奇蹟――。

 千鶴の身には、それほどのものが秘められているのであった。


(夢見様、助けて……)


  この異様な場において千鶴が救いを願うのは、唯一の神の他は夢見客人の面影であった。

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