第8話

 耳元で何度も『カシャカシャ』と音がして、ぼくは目が覚めた。あくびをひとつし、涙で濡れた目元をごしごしと拭う。いつのまにか外していたらしい眼鏡を掛け、ぐっと伸びをしながら時計に目をやると、午後五時を回っていた。どうやら小一時間ほど眠ってしまっていたらしい。

 すると、どこからかくつくつと喉を鳴らすような音が聞こえてきた。聞いたことのある音だった。先輩の特徴的な笑い方にそっくりだ。モノクロの世界で視界をさまよわせ、受付の向かいにある図鑑の本棚を注視する。植物図鑑二冊のあいだから空半先輩がこちらを覗いていた。

「おひさしぶりですね……」

 ぼくが声をかけると、空半先輩はおそるおそる本棚の後ろから出てきた。夏服だろうか、半袖の、おそらく白いであろうカッターシャツがとても似合っている。驚いたのは、以前まで顔の半分を覆うようにしていた先輩の前髪が眉のあたりでぱっつんと切り揃えられていたことだ。

 大事な瞬間というのは、ぼくの場合、なぜかいつも決まってモノクロだ。ぼくは先輩の顔をはじめてちゃんと見た気がした。アーモンドのかたちに似た先輩の大きな両目がはっきりこちらを見ている。先輩の首からはカメラがかかっていた。

「さっきのカシャカシャって音、先輩のカメラですか?」

 ぼくの言葉に先輩は深く頷いた。いったいなにを撮っていたのだろう。図書室の絵でも描くのだろうか。

 いや、そんなどうでもいいことはいいだろ。どうやらぼくはまだ寝ぼけているらしい。このあいだのこと、きちんと謝らないと。そして改めてぼくは空半先輩に告白する。夏休みまでもう時間がない。傲慢だろうか、ぼくは無理だとわかっていても、先輩に先輩の言葉できちんとぼくの気持ちを断ってほしかった。

 そんなことを考えていると、先輩はメモ帳になにか書き、受付のテーブルの上に置いた。

『盗撮ではない。いまから了承を得るので』

「えっ、さっきのって、もしかしてぼくを……」

 途端に恥ずかしくなってきた。変な寝顔だったに違いない。だいたい先輩にとって、眼鏡を掛けていないぼくの顔にはなんの価値もないはずだ。明らかに取り乱し始めたぼくを見て、空半先輩はまたくつくつと喉を鳴らして笑った。

『寝顔、かわいかったよ』

 メモにそう書いて、先輩はカメラで撮った写真を眺める素振りをした。ぼくは顔が燃えるように熱くなった。勘弁してくれ!

「あの、どうしてぼくなんか……」

『夏休み、わたしはきみの絵を描くことに決めた。この美術部で描く最後の絵になると思う』

 先輩はさらさらと小さな文字で書いてみせた。今日の先輩はあまり気取った文体ではなかった。先輩は続けた。

『こないだは申し訳なかった。けれど、きみの眼鏡、びっくりしたよ。世界が途端に色を失って、なんというか、とても美しかった。昔の映画みたいだった』

 目にも止まらぬ速さで先輩は書き続ける。

『きみがなぜあんな眼鏡を掛けているのか、その理由はわたしには到底わからない。けれど、人にはいろんな事情があるものだ。知ってほしいこと、知られたくないこと、言いたいことや言いたくないことも含めて』

 だんだんと文字が乱雑になっても、先輩は気にせず書き続けた。

『わたしはうまく話すことができない。昔は話せたのにね。過去に経験したあることで、話せなくなった。よくある話だよ。それに未だにこうして縛られている。ほんとうに情けない』

 先輩はメモ一枚にたくさんの文字を書き、新たなメモにまた文字を書き続けた。

『きみとこうして筆談をしているのも、そうしたいからじゃない。わたしがそうするしかないからだ。うまく話せないから。きみはずっと不思議だっただろうね。『おかしな人だなあ』ぐらいの印象だったかな? しょうじき、きみのその他人との距離の測り方が心地よかったよ。いままで隠していてすまなかった。勇気が出なかったんだ。なにも言わず、なにも聞かず、そんなわたしに付き合ってくれたこと、ほんとに感謝してる』

「いや、そんなこと……」

 突然の告白にぼくは面食らってなにも言えなかった。先輩は構わず続ける。

『そんなたのしくない話から、がらっと話題は変わる。わたし、空半楓の夢の話だ』

 ここまで書き切り、先輩は一度ペンを持っていた手をぶるぶると振った。顔を見ると、モノクロの先輩は笑っていた。オーラがきらきら輝いている。再度ペンを握ると、先輩はまたものすごい勢いでメモに書き始めた。

『わたしは美大に行って、自分の絵でごはんを食べていきたい。才能があるとかないとか、そんなことはわからない。けれど、覚悟はある。絵をずっと描き続けていたいんだ。そしていつか絶対、わたしは後世に残るような絵を描いてやる』

『わたしは夏休みが終わったら、高校を退学する。以前、きみには『転校する』と教えたけれど、あれは嘘だ』

『美術予備校にかよいながら、いまよりもっと絵に注力するつもりだ。高卒という学歴は独学で取る。自慢でないが、わたしの学力はとても高い』

 ものすごい勢いで自分の言葉を書き連ねる先輩にぼくは圧倒されていた。ついさっきまでとてもかわいらしく見えていた先輩が、いまはなぜだかとてつもなく格好よく見える。また同時に、ぼくは空半先輩がどんどん遠くへと離れていくような錯覚に陥った。いま、目の前に彼女がいるというのに。

『美大にはね、実技はもちろん面接がある。それで話はおもしろくないものに戻るが、さっきも言ったとおり、恥ずかしいことだけれど、わたしはうまく話すことができない。これは非常にまずい。こんなくだらないことで自分の夢を諦められると思うか?』

 ペンをドンと机に叩きつけ、先輩がこちらを見つめている。ぼくは慌てて首を左右に振った。

『今年の秋から冬にかけて、わたしは完全に過去のわたしを殺す。物騒な物言いかもしれんが、本気だ。くだらないしがらみはすべて潰す。どんな手を使ってでも……ひとまずこれで空半楓の夢の話はおしまいだ』

 書き終えて、空半先輩はペンを置いた。先輩はなぜか肩で息をしていた。ぼくはあまりの情報量と先輩の気迫に少しのあいだなにも言えなかった。しばらくして、先輩は受付のテーブルの上に散乱するメモの適当な余白になにごとか書いた。

『勢いにまかせていっぱい書いたけど、で、なんの話だったっけ?』

 その落差にぼくは思わず笑ってしまった。つられて先輩もくつくつと笑った。

「ぼくの絵を描くって話だったような……」

 笑いながらぼくは先輩に言った。

『ああ、そうだった。その……』

 先輩がなにか書き切る前にボールペンのインクが切れた。先輩は何度も紙にペンを当てたけれど、白いメモに乗るはずの黒いインクは薄いヒッカキキズを残すのみだった。先輩がメモ帳とペンを置いて、息を一度深く吸った。それから空半先輩はぼくをまっすぐ見据えた。

「っ……! ぁ……!」

 モノクロ眼鏡のレンズ越しに、白黒の先輩が声にならない声をぼくに向けて発している。なぜだかいまの先輩の必死をきちんと自分の目で見なければいけない気がした。ぼくはそっと眼鏡を外した。

 先輩はとても青いオーラのなかで顔を真っ赤にしていた。目も少し充血し、薄く涙まで浮かんでいる。ぼくはそんな空半先輩の顔をいままで見たどんなものより綺麗だと思った。

 ぼくはこれ以上ないぐらい集中して耳を澄ませた。オーラは見えても、そんなものに意味はないのではないかと、いまの先輩を前にしてぼくはそんなことを思った。だって、いま目の前で必死な顔をする先輩から、ぼくはオーラを見たって感じたことのないようなものを感じたから。ぼくは当人の意識とは勝手に漏れ出るオーラなんかより、先輩がぼくに向けて心から話してくれる声が聴きたかった。

「ぁ……! ぅ……!」

 先輩の言葉にぼくは頷いた。先輩がなにを言っているのかはわからなかったけれど、目の前で顔を真っ赤にする先輩の真剣さにぼくは同調したかったのかもしれない。

「ぼくは先輩のことが好きみたいです」

 気付いたときには言っていた。ぼくは自分のことがあまりわからない。だって、自分のオーラは見ることができないから。しかし、ここにきて「みたい」ってなんだ。腑抜けにもほどがあるのではないのか。空半先輩が驚いた様子でこちらを見つめている。涙が一筋、先輩の頬を流れていった。

「おい楓、いつまでやってんだよ。もう部室閉まったぞ。ほら、荷物持ってきてやったから帰る……ぞ……」

 図書室の出入り口に山田くんが立っていた。空半先輩の様子を見て驚いているようだった。山田くんの周囲が緑色から徐々に赤黒くなっていった。

「今川、てめえなにしやがった!」

「ひがっ……! うぅ!」

 受付に座るぼくと山田くんのあいだに空半先輩が飛び込んで、怒鳴った。

「おまえ、なにされたんだ。泣いてんじゃねえか。そこのボケ殴らねえと気が済まねえ」

「ひがうにょ!」

「なにが違うんだよ! どけ!」

 山田くんが空半先輩を突き飛ばした。空半先輩は背中から図鑑の本棚にぶつかった。本棚が大きな音を立てて倒れ、分厚い図鑑たちが洪水みたいに溢れた。

 山田くんが受付のテーブルを挟んで手を伸ばし、ぼくは再び胸倉を掴まれた。

「ちがっ! ちょっ」

 ぼくの胸倉を掴んだ山田くんは、すかさずぼくの顔をグーで殴った。めちゃくちゃに痛い。人に殴られるのは小学校のときの『たたかいごっこ』以来だったから、ぼくは人に殴られる痛みをすっかり忘れていた。にしたって、あのときの痛さの比じゃない。殴られたところにみるみる熱のこもっていく感じがした。ぼくは激しい感情の色に目が回り始めた。

「てめえ、楓になにしやがった? こないだ俺、おまえに言ったよな?」

「ひがゅっ! あぅっ!」

 突き飛ばされた空半先輩が地面を這うような姿勢で山田くんの足に飛び付いた。そのまましがみついて離れない。

「離せ!」

「山田くん、これは違うんだ! お願いだから話を聞いて!」

 言いながらどんどん吐き気が迫ってきていた。ダメだ。ぼくは誰かと取っ組み合いをしているときですら格好悪い。

「ただいま戻りましたーって……なに、修羅場?」

 瞬間、ぼくたちの視線は一気に図書室の出入り口に集まった。男子生徒が取っ組み合っていて、女子生徒が男子生徒の足にしがみつき泣いていて、本棚がひとつ倒れている。

 ぼくたちの視線の先にみゆき先生が目を丸くして立っていた。山田くんの胸倉を掴む手が一瞬ゆるんだ。同時にぼくの吐き気も限界を迎えそうだった。

「ちょっ! トイレ!」

 ぼくはむりやり山田くんの手を振りほどき、立ち尽くすみゆき先生を軽快にかわして図書室を出た。

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