第6話

 目覚めると、知らない天井があった。白いベッドと白いシーツ、クリーム色のパーテーション。昔見たアニメとおなじシチュエーションだ。保健室だろうか。

世界にはいま、色がある。顔に手をやると、眼鏡はなかった。そうだ、先輩が掛けたまま……。

「あっ、起きた」

 耳元で誰かの声がした。ぼくの視界の真横からみゆき先生の顔がにゅっと伸びてきた。穏やかな緑色。となりにはおろおろとする濃い青色の空半先輩と、ぶすっとした顔で座る薄い赤色の山田くんがいた。

「睡眠不足ですって。夜更かしがたのしいのは先生も知ってるけど、現にこうして倒れられたら注意しなくちゃね」

「図書室の掃除をしなくちゃ……」

「まだ寝てなさい」

 起き上がろうとするぼくの胸をぐっと押してみゆき先生が続けた。

「掃除は空半さんと山田くんがやってくれたわ。あとでお礼言っておきなさい」

 それじゃあと頼んだわね、お大事に。そう言ってみゆき先生は保健室を出て行った。

 寝たままで山田くんのほうへ顔を向けると、山田くんはぼくを睨みながら言った。

「今川、おまえ、あいかわらずチクリなのな……。いてえ! やめろよ楓!」

 ぼくに悪態をつく山田くんを空半先輩がぽかぽか殴った。それから先輩は両手でなにかジェスチャーをして山田くんを睨んだ。

「俺が悪いのかよ? もとはと言えばこいつから眼鏡取り上げたおまえのせいだろ。秋の展示会までもう一ヶ月ちょいしか時間ねぇのに……とんだタイムロスだぞ!」

 山田くんが空半先輩のジェスチャーに応える。先輩と山田くんの距離感がわからない。突然のことばかりで混乱しているからだろうか。意識もまだはっきりしない。ぼくにはふたりがとても親しい間柄に見えた。

空半先輩がまた山田くんに大きな手ぶりでなにか訴えた。先ほどからの先輩のジェスチャーはいったいなんなのだろう。保健室とはいえ、もうふつうに会話すればいいのに。

「わかったよ。送ってくよ。送ってきゃいいんだろ? 最悪だ、まったく……」

 山田くんの言葉に満足したらしい空半先輩はぼくのほうへ向き直り、自分のメモ帳になにかを書いてぼくに差し出した。

『まさかこんなことになるとは……ごめんなさい』

 最悪だ。終わった。ぼくの青春は早くも幕を閉じたらしい。そりゃそうだろう。好きな人に自分の吐瀉物を掃除させた男、それがぼく、今川良介だ。嫌われて然るべきではないか。目頭が熱くなる。ぼくはシーツをあたままで被って涙を拭いた。


 帰り道、ぼくと空半先輩と山田くんの三人で駅まで歩いた。山田くんは早足でどんどん歩き、ぼくはその少し後ろをてくてく歩いて、ぼくの後ろで空半先輩がのろのろ歩いた。高校生の下校時というのはこんなにも静かだったろうか。ぼくたちは終始無言のまま縦一列で駅まで歩いた。それは交通ルール的にはただしいのだろうけれど、高校生的には絶対的な誤りが見受けられる下校ではないだろうか。

 駅に着き、空半先輩がぼくに深々とあたまを下げた。ぼくは「いえそんな……」とかなんとか、やっぱり気の利いたことはなにひとつ言えなかった。その様子を少し離れたところから山田くんが冷たい眼差しで見ていた。

 ぼくにあたまを下げたあと、空半さんは山田くんのほうへつかつか歩いていき、またなにごとかジェスチャーをし、そのまま改札を通って人混みのなかへ消えていった。

「おい、ぼぉっと立ってんだよ。さっさと帰んぞ」

 山田くんが大きな声でぼくに言い、ぼくは慌てて山田くんのほうへ駆け寄った。


 電車のなかはいつもより空いていて、ぼくと山田くんは同じシート席にとなり合って座った。

「山田くん、おなじ高校だったんだね……」

 沈黙が気まずくて、ぼくは小さな声で山田くんに話しかけた。返事はない。ぼくは続けた。

「小学校以来だから、もうほとんど六年ぶりぐらいかな。山田くんがどうだったかはわかんないけど、ぼくは山田くんのこと、割とすぐにわかったよ」

「あのさあ、おまえ、あんま気安く話しかけてくんな」

 山田くんが大きな声で言った。ぼくたちの近くに立っていたスーツ姿の男の人が眉間に皺を寄せてぼくたちを見ていた。

「山田くん、ちょっと声大きいよ」

 言いながらぼくは昔のことを思い出していた。山田くんはこんなにも怒りっぽい性格だったろうか。もっとおとなしくて、気弱な、こんなふうに思ったら失礼かもしれないけれど、ぼくみたいなタイプじゃなかったっけ? 山田くんが貧乏ゆすりをしながら言った。

「てかさ、なんで俺までおまえのゲロ掃除させられなきゃなんねえんだよ。急にゲロ吐いてんじゃねえよ。気持ち悪い。おまえやっぱいまでもあたまおかしいんだろ? 昔、もやもやがどうのとか言ってたもんな。俺らもう高校生だぞ? 中二病も大概にしろよ。だいたいなんなんだよ、おまえのその眼鏡」

 一気に捲し立てられたからか、ぼくはすぐに山田くんの言葉をあたまのなかで理解することができなかった。

「掃除のことは、ごめん。山田くんはなにも関係なかったもんね。ほんとわるかったよ」

「おまえの謝罪なんかなんの価値もねえんだよ。俺はおまえと違って暇じゃねえんだ。今日だってまだ部室残ってやれることあったんだからな! 時間がねえんだよ」

 山田くんは変わらず大きな声でぼくに怒鳴った。貧乏ゆすりがますます激しくなる。ぼくの白黒の視界からでもはっきりわかるぐらい、山田くんは怒っていた。オーラなんて見えなくても、いまの彼の顔を見れば、誰だって彼が怒っていることぐらいわかるだろう。先ほどのスーツの男の人がぼくたちにうんざりした顔をして車両を移動した。

「部活のこともごめん。ぼくは、山田くんの言うとおり、少しだけあたまがおかしいのかもしれない。だからこうやって迷惑をかけたんだと思う。空半先輩にも悪い気持ちでいっぱいだ」

「おまえの掛けてるその眼鏡、なに? 度も入ってないし、なんか白黒だし、マジで気持ち悪いんだけど?」

 胸が急に冷たくなって、息ができなくなる。他人の悪意が自分へまっすぐ向けられたときの感じをぼくは久しく忘れていた気がする。

「あの……これは……」

 言って自分の声が震えているのに気付いた。舌がもつれてうまく話せない。ぼくの気弱な態度に山田くんはますます苛ついている様子だった。

「もういいよ。おまえと話してると昔の自分を見てるみたいだ。おまえ、なにひとつ変わってねえじゃん。よくいままで生きてこれたな。くだらねえ。さっさと死ね」

『そこまで言うことないのでは?』と、ぼくは山田くんのあまりの悪意に少し冷静になった。深く息を吸って、ゆっくり吐いた。それからぼくは山田くんに言った。

「あの、昔のことも含めて、ちゃんと謝れてなかったから……ほんとごめんなさい」

 山田くんはぼくの謝罪を無視して黙っていた。変わらず貧乏ゆすりが激しい。ぼくもそれ以上言葉を続ける気にはなれなかった。電車が小気味よくゆれる。いまのぼくの世界では強烈な白色にしか見えない、きっと綺麗な橙であろう夕日が電車の窓から車内に射し込む。日に当たらないところには対照的に黒々とした影が落ちた。車内の大人たちはみなどこか疲れているような顔をしているように思えた。いまのぼくもきっと彼らに似た顔をしているに違いない。

 それからぼくらは最寄りの駅へと電車が止まるまでのあいだ、沈黙を守り続けた。ぼくと山田くんはほとんど同時に座席から立ち、電車を降りた。改札を出て、夕暮れの街を歩く。

「山田くん、引越しとかはしてなかったんだね」

 ぼくは思い切って話しかけてみた。

「気安く話しかけてくんなって言ったろ」

 ぼくの前を早足で歩く山田くんが言った。

「ほんと、ぼくのせいでごめんね」

 ぼくの謝罪に山田くんは応えなかった。ぼくは話題を変えようと続けた。

「それにしても、山田くんは変わったよね。なんか、うん、格好よくなった気がする」

「おまえホモなの?」

「いやっ! そんなんじゃないよ……ほら、ぼくなんてずっとダサいまんまだから」

 突然の台詞に取り乱してしまった。ほんとに言葉どおりだ。ぼくはダサい。

「で、おまえの眼鏡、あれなんなの?」

 結局モノクロ眼鏡のことをうやむやにすることはできそうになかった。山田くんが変わらず歩きながら続けた。

「楓もビビってた。あんな眼鏡、はじめてだって」

「楓って、空半先輩のこと?」

「あ? そうだけど」

 ずっと気になっていたことだが、なぜ山田くんは空半先輩を下の名前で、しかも呼び捨てで呼ぶのだろう。話を聞いていると、どうやら山田くんと空半先輩はおなじ美術部に所属しているようだし、もしかして彼らは付き合っているのだろうか? だとしたら、ぼくの恋はもう始まりもしないのだろうか? いや、始まるもなにも先輩の目の前でゲロを吐いた時点で終わったも同然ではあるのだけれど……ぼくは少しずつ暗くなる気持ちから意識を紛らわせようと無理に声を明るくして言った。この際、もうどうにでもなれ。

「さっき言いかけたことの続きになるんだけど、やっぱりぼくはちょっとおかしいっていうか……ふつうの人には見えないものが見えるんだ」

「なにそれ。きっしょ」

「そうだよね。きもいよね。ぼくも自分がきもい」

 気持ち悪がられるだろうと覚悟をしていても、やっぱり実際に『気持ち悪い』と言われると傷つくものだ。つらさを紛らわせようとぼくは作り笑いをしてみた。気持ちはまったくよくならなかった。

「で、なに? その『ふつうの人には見えないもの』って?」

 山田くんがさほど興味もなさそうに聞いた。

「他人の気持ちというか、感情というか、そういうのが色になって見えるんだ。昔ぼくが山田くんに『もやもやが見える』とか言って気持ち悪がられたこと、あったよね。ぼくは人の感情がオーラになって見えるんだ」

「へー、すげー。それがほんとなら、おまえ超能力者じゃん。正義のヒーローの素質ありありじゃねえか。よかったな。昔は一緒にあたま脳筋の低能どもにボコボコにされてたもんな。あいつら今ごろどこでなにしてんだろう……まあまともじゃねえだろうけど。今川、おまえそのスーパーパワーであの馬鹿ども見返してやれよ」

 山田くんはへらへら笑いながら、最後に「このクソ中二病オタクが」と付け加えた。ここまで言われると、ぼくもだんだんおもしろくなってきて「そうだね」と山田くんに返した。  

 赤信号を並んで待っているあいだ、ぼくはこっそり山田くんの顔を盗み見た。顔は昔のままかわいらしいのに、なにが彼をここまで強くしたのだろう。それに比べてぼくは昔からなにも変わらない……。

 山田くんからはどんなオーラも見えなかった。ぼくに対する興味はほとんどないみたいだった。小学生のころと同じだ。落ち込んでいると信号がいつのまにか青になっていて、山田くんはぼくを置いてどかどかと交差点を渡っていた。ぼくは早足で彼を追いかけた。交差点を渡り切り、ぼくは山田くんに言った。

「何回目かわからないけど、今日はほんとにごめん。ここまで一緒に帰ってくれてありがとう。助かった。山田くん、もし引っ越してなかったら、ここ右だよね? ぼくはここ左だから……。またもし学校で会うことがあったら、山田くんさえよければ声かけてよ。じゃあね」

 言ってぼくは交差点を渡り山田くんとは逆の方向の道へ歩き出した。しばらく歩いて立ち止まる。とても疲れた。今日はすぐに眠ってしまいそうだ。何の気なしに来た道を振り返ると、そこに山田くんがいた。

「楓が家の前まで送れってうるせえんだよ……」

 ぼくと目が合った山田くんは、ばつが悪そうに言った。


 ぼくの家まで、ぼくたちは並んで歩いた。

「そんなの悪いよ」と言うぼくの言葉に、しかし山田くんは「おまえを思ってのことじゃねえ」と頑なだった。

 終始無言のまま、ぼくらはしばらくのあいだ黙々と歩いた。沈黙が息苦しい。なにかないかとあたまのなかで考えていると、ふとひとつの質問が浮かんだ。聞いたら思わず殴られてしまうかもしれないけれど、山田くんとこうして帰ることなんてもう今後きっとないだろう。だったらこの際だ、いっそ聞いてしまえ。ぼくは振り絞るようにして山田くんに聞いた。

「山田くんと空半先輩って、どういう関係なの?」

「おまえには関係ない」

「あっ……そうだよね」

 会話はあっけなく終わった。またしばしの沈黙。

『いっそ、ひとりで帰らせてもらったほうがよかったなあ、先輩……』

 胸中でそう呟き、はっと次の質問をひらめいた。ぼくはめげずに山田くんに聞いた。

「そういや空半先輩って今年の秋に転校するって言ってたけど、ほんとなの?」

「知らねえ。本人が言ってたんだからほんとなんだろ。興味ねえ」

 山田くんはまるで会話を続ける気がないようだった。もういっそ今日の帰路は『沈黙に耐える修行』と考えて歩いたほうがよいかもしれない。そんなふうに山田くんとの会話を諦めかけていると、もうひとつ聞きたかったことを思い出した。ぼくは意を決し山田くんに尋ねた。

「そういや先輩って、なんで話さないんだろうね」

 ぼくの言葉に山田くんは少し反応したように思えた。彼のオーラが一瞬ひどく波打ったから。ぼくは続けた。

「ぼくのときはいつも筆談だし、山田くんとのときはジェスチャーだったし……ぼくが言うのもなんだけど、空半先輩も相当変わり者だよね」

 ぼくはへらへらと笑いながら言った。山田くんが立ち止まったまま動かなくなった。電車に乗っていたときから比べるとずいぶん落ち着いていた山田くんのオーラが再び激しくゆらめき始めた。

「山田くん、どうしたの?」

「今川、おまえいま言ったこと、楓本人に言ったりしてねえだろうな?」

 山田くんはいままでの大きな声とは違い、とても小さな声でぼくに尋ねた。

「えっ? うん、まだないと思うけど……」

 立ち止まっていた山田くんがぼくのほうへどんどんと迫ってきて、ぼくの胸倉を掴んだ。そのまま道路脇のブロック塀に背中を叩きつけられる。衝撃でモノクロ眼鏡がずれ、世界が一気に鮮やかさを取り戻す。山田くんはオーラも顔も目も真っ赤だった。空は昼間の青色と夕暮れの朱色が混じって不思議な紫色だった。

「おまえ、それ、二度と言うな。へらへら笑ってんじゃねえ。次、楓のこと『変わり者』とか言ってみろ。マジで殺すぞ」

「ちょっ……山田くん、くるし……」

 言い終えて山田くんはぼくから手を離した。ぼくは地面に崩れ落ち、たまらず咳き込んだ。

「しらけた。ふざけんな。やってられるかボケ」

 言って山田くんはぼくに背を向け歩き始めた。ぼくはわけがわからず彼の背中をぼんやり眺めるほかなかった。赤色というにはあまりにどす黒い山田くんのオーラを目前に、ぼくは途方に暮れていた。地面に転がるモノクロ眼鏡を手に取って掛けても、ぼくの動揺が収まることはしばらくなかった。

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