<7> 赤椿

 ふふ、という笑い。

 マクロイはなにか文字でも書くように、シュバリエの背なかに指を這わせる。

「兄さま、か。もう何年になる?」

「……」


「言っておくがね、隠してなんかいなかったよ。冷たくも、きみが忘れてたんだ。あのころは、あんなに懐いてくれてたのにねぇ」

 また笑う。

「きみは、健気で可愛い子だったね。母親に似て、綺麗な子だった。『黒絹の髪に白絹の肌。翠の瞳は生ける翠玉』……わたしには、世に言う至高の翠玉シュバリエがきみのことだと、すぐに判った。もっとも、知っての通り、わたしはなんでね、情報網は広いんだ。多少の裏付けもあったがね」

「……」


「互いに元気で何よりだ。わたしたちは被害者さ。だが、だからこそ今がある。不埒な親に出て行かれ、それをきっかけに始めた仕事がそれぞれ当たって万々歳だ。災い転じて、と今なら思える」

「──」

「まるで吸精鬼サキュバスだってね、たいしたものさ。本当だって、ようく判った。いったい、どれほどの相手を狂わせた」


 血管という血管が沸きそうなのに、発せられる言葉のひと言ひと言が冷たく刺さり、震えがやまない。

 シュバリエは、衣の襟を固く合わせた。

 どうしたの、とマクロイは鼻を鳴らした。

「兄さまが相手と判って恥ずかしいのか?」


 目まぐるしい光の交錯。

 赤。滑る手。火照る肌。

 微笑み。そよ風。白薔薇が揺れ……

 緑。ぬくもり。無邪気な言葉。

 ほの明かり。正体もなく。

 正体もなく──


「!」

 シュバリエは、仰向かせようとする手に身構えた。

「どうした。きみはだろう?」

「……」

「さっきはあんなに……」

 応えない体をしつこくなぞる。


「まさか信じてくれないのかい? それとも、こう思ってくれているのか。『兄さまは、こんなところに来るはずがない。兄さまがこんなことをするはずがない』」

 ガンガンと、ひとつの言葉が呪文のように脳裏をめぐる。

 どうして、と。

「シュバリエ。きみが誰よりも理解していることだと思うが? ここへ通ってくる客を見ろ。きみと寝たがる奴は絶えないだろうに」


 シュバリエの思考は、過去を映し続けていた。

「よかった。わたしはいい兄さまであれたんだな。自分を抑えた甲斐がある」

「──」

 震えているかれを背後から抱きながら、マクロイはなおも言い募る。


「わたしは、きみがほしかった。年端もいかない、少年のきみがね。てっきり自分は、きみの母親に焦がれていて、それでよく似ているきみに動揺するのかと思ってたんだ。わたしに男色の趣味はなかったし、よもや子供に……」

 ──可哀想なマリエル。

「……」


「生殺しの気分だったな。きみは、わたしに懐いていた。しかも、まだ非力な子供さ。手を伸ばせば届くのに、なにもできない」

 ──寂しいのね。

「……嘘」

「本当さ。われながら可愛いものだ、きみに嫌われるのが怖かった」

「やめてください……」


「わたしは見る目があったんだ。誰より早く、きみを認めていたことになるのだからね」

 顔を更に近づけ、ささやく。

「たぶんきみは……」

「やめて!」

 マクロイは声をあげて笑った。


「なにをだ」

 渾身の力で引っ張られ、シュバリエはたやすく転がった。ぎらぎらと光る鬱金がこちらを見据えている。昏い花火が散っているよう。まるで天敵にすごまれたかのように竦み、目線をはずせなくなる。

「……」

「戯れで払える額じゃあないだろう?」


 唇に触れ、おとがいに触れ、片手を耳まで這わせると、マクロイはシュバリエの髪を強く鷲掴みにした。髪が悲鳴をあげる。顎が上向いていく。

「不満か? まだ足りないか。金なら欲しいだけ、やる──」

 貪るような口付け。


「──『翠眼の美姫』ねぇ」

「!」

 シュバリエは痛みに仰け反った。首を反らせ、剥き出しになった肩口に、マクロイが歯を立てたのだ。痛みにもがくがどうにもならない。探りあてた天蓋の襞を掴み取る。襞を吊った金具が、いくつか飛んだ。

「ああ!」


 マクロイは自分の噛み跡を吸うと、その周辺を甘噛みしている。

「傷をつけないでください……」

 掠れ声で訴える。

「『傷をつけるな』?」

 吐き捨てて、マクロイはようやく顔をあげた。相手が無抵抗になったとみなしてか、髪を掴んだ手も放す。

「客が取れなくなるからか。殊勝なものだな」

「……」

 自分の気を逸らそうと、シュバリエは受けた傷を見ないよう努めた。


「あのままうまくやればいいものを、後先見ないで駆け落ちなどとしゃれこんだのは、どうしてかねぇ。円満な家庭がめちゃめちゃだ。きみの父親も哀れだねぇ。美貌の妻に逃げられて。その相手はこともあろうに信頼しきった自分の部下で……腕を見込まれての縁組が、まさかこんなことになるとはね。仕事も妻も奪われて、人生の楽しみをいちどになくした」


 歪んだ笑顔で続ける。

「その挙句、好色な母に捨てられた息子は、好色な大人に体を売って身を立てる。母譲りの美貌を糧に生きていくとは。因果だねぇ」

「……」

「それはだと思うかい?」

「……」


「きみは、どうしてここにい続ける? きみの稼ぎなら、借金もあり得んだろう。年季が明けるのを待つでもない。膨大な金額の身請け話も、一切断っているという噂だね。何故? お高く止まったほうが、確かに株はあがるがね。なら、それならそれで、傾国の美姫というやつさ、どうしてのしあがろうとしないんだ? きみの客は、身分も金もある奴ばかりだろうに、一介の男娼に甘んじるのは何故なんだ」


 寝台が、皮肉な笑いに揺れる。

「足しげく通う客じゃない。いちばんのご執心はね、きみだよ、シュバリエ」

「──」

「きみは大陸エウロス中とまぐわう気かい? それとも東風の神エウロスと寝る気かい!」

 笑壷に入ったのか、マクロイは喉の奥に飲み込むような笑いから高笑いまで、ひと通りを披露した。


 シュバリエの手は、搔き合せた衣に食い込んでいく。傷の痛みは消えていた。

 ──可哀想なマリエル。

 ──今日もひとりきりなのね。


「結局きみは好きなんだ。情欲に溺れているんだよ」

「違……」

「違わないさ。嫌ならとうに辞めてるはずだ。稼いでるんだ、きみはもう悠々自適に暮らせるだろう。この館を買い取ることすら──」

「わたしは! わたしは生きるために……」

「ほう?」


「ここは、弟の育った家です。あの子の戻ってこられる居場所……あの子とわたしの、帰ってこられるたったひとつの、かけがえのない場所。あの子とわたしの絆です」

 マクロイは、また鼻を鳴らした。昔と変わっていない癖。

「わたしは、クーリエのためにも自分のためにも、ここにいる必要があるのです。生きるにはが必要です。仕事をせねばなりません」


「ふうん?」

 横を向いたシュバリエを、マクロイはじゃれつくように掻き抱いた。ひとときまえに交わした情熱のかけらもない、シュバリエの淡々とした口調を、気に留めない様子でつぶやく。

「……ああ、シュバリエ……可哀想なシュバリエ……」


「わたしは、生きるためにかさねるだけです。父も失い、ほかに頼れる者もなかったわたしに残された唯一の道が、たまたま体を売ることだった。店入りをしてから、自分の仕事を知りました」

 ──マリエル……

 ──可哀想なマリエル。


「……それだけ?」

 マクロイはせせら笑った。

「事実をすげ替えるんじゃない」

「──」


 女将に引き取られて間もないある日。シュバリエは自分とおなじような新入りの子らと館の一室に集められ、自分の仕事を知らされた。目のまえでまぐわう指南役を見て、吐いた。逃げられない、と思った。


「兄さまは見たよ……きみが抱かれているのを。きみが、実の母親に抱かれているのを」

「!」

 ──今日もひとりなの?

 ──可哀想ね……


 どこにいても、あたたまれない。いたたまれない……いつもひとりで、心が寒くて。とりとめのない気持ちに戸惑いながら、自分の居場所を求めていた。いつからか、言い知れぬ寂しさが常に心に影を引いていた。シュバリエがそんな自分に気がついたのは、少年時代のことである。

 

 そして、かれは知ってしまった。愛して止まぬ母もまた、おなじ思いに縛られ続けていたことを。母が目に見えて変わったのは、父が以前にも増して仕事に傾倒してから。家を空けることが増えていってからだ。


 知ってしまったのだ。夫を愛するあまりに精神の均衡を崩した母。その、抱擁のなかに。何かに憑かれたかのように、自分に似た息子を抱いた目に。

 陽に照らされた、浜の色。夫とおなじ色合いの、白の濃い亜麻色の髪。クーリエを産み、溺愛するも、それは少しも変わらなかった。

 屈折してゆく感情。


「いつも待ってたのだろ? 抱いてもらえるのを」

 シュバリエは耳を塞いだ。

「兄さまとの再会も、待っていたよね……さっき、ちゃあんと判ったよ。変わらない。きみは一途で……繊細で。遠慮をするな、縋ったらいい」

 愛撫の手に、シュバリエは虚しい抵抗をした。


「……待ってたのだろ……素直に愉しめ。再会を。かさねを……」

「何故……何故あなたがそれを言うの……」

 自分を組み敷く相手の体が、熱を帯びてゆくのが判る。かれは抗うが、力の差はなにごともないあのころの、遠い日のままだった。


「あれでよかった。あのままで。すべてはうまくいくはずだった! それなのに、どうして……」

 ──マリエル。

 ──可哀想なマリエル。

「わたしは、懸命に生きているだけ。ひたすらに、生きているだけ……」

 ──……


「縋れ……」

「わたしはいつも」

 愛されたかった。

「いつも!」

「縋れ、シュバリエ!」


 シュバリエは、音を気にする。まわりに浮かぶ音を気にする。それは次第にはっきりしていく。荒い息と息、かさねの音だけになる。

 鋭い疼きに肢体をつっぱる。身に覚えのあるいつもの感覚。そうだ、仕事中なのだ。

 いつもとおなじ。狂気と、狂喜と。

 思考を離れていく体。


 やがて、堪え難い両極の痛みが、かれを捕らえる。

 上向く弾みに、涙がこぼれた。ようやくに、筋を引いてひっそりと。

 それは、悦楽のもたらすものではなかった。


 シュバリエは、落ちた。

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