<5> 白薔薇

 扉。

(いない)

 扉。

(どこ?)

 扉。

(いない!)

 ──そんな。

 そんな……そんな!!


「……」

 シュバリエは、寝椅子にしなだれたまま、長く吐息した。

 浅い眠りから覚め、ぼんやりとしている。

 もともと寝付きの悪いところにこの夢だ。ゆっくりと休んだ気分になれず、食が細いのも相まって、疲れが綺麗に抜けないのである。


 疲れが飽和状態になってしまうと、体は、半ば強制的にそれをやわらげようとするようだ。緊張の糸が切れるのあとや、こうした静かな時間に、知らぬ間に眠っていることがある。

 たまに見る程度だったこの夢を、続けて見るようになってから、この傾向は顕著であった。


 不安と焦りで細かく震え、今にも萎えそうになる足で、屋敷中を駆けまわり、永劫に続くかと思われるほど、繰り返し誰もいない部屋の扉を開ける……

 額を冷たく湿らせる汗が、髪を張り付かせている。

 ようやく視線をあげると、輪郭を溶かした花瓶の花が、雲のように浮かんで見えた。


 父が言うように、本当に母はいなかった。部屋のどこを探しても。庭の、母の好きだった美しい薔薇の園にも。母に似た香りが漂うばかりで。

 なにひとつ、ほかに欠けているものはない。今までと変わっているものはなにもない。すべてが昨日と変わらない。そこにあるべきはずの姿がないことを除いては。


 代わりにあるものは、静寂と幻。

 扉を開けるたびに、虚しさのこだまが返る。幻は、静寂を残して搔き消える。確かにそこにいたという痕跡を、あるじを欠いた景色を残して。

 祈るよう、なにかに救いを乞うように抱いていた思いは、ことごとく静寂に裏切られ、砕け落ち、少年だったシュバリエの胸を塞いでいった。


 かれは、ひたひたと歩み寄る現実から逃げるように母の居室から飛び出して、弟の寝かされている隣部屋へと駆け込んだ。

 弟は、すやすやと寝息を立てていた。

 屋敷が騒然としているせいか、そばについているはずの侍女の姿がない。それでも。

 やさしい母がいなくなっても──それでも。

 淡い紅色の頰をして、クーリエは幸せな眠りのなかにいた。


 花瓶に生けられた白薔薇の、絡みつくように甘い芳香。大きな窓を擦り抜けてくる、澄み切った若い昼間の陽差し。

 光が眩しい。白薔薇も、弟を包む白い肌掛けも、部屋中のすべてがその光に溶けていくよう。

 そっと抱きあげた弟の、身じろぎをする小さな体は、腕にずしりと重かった。

 重く、やわらかく、あたたかく。


 弟を抱くシュバリエの目からは、いつしか涙があふれ出ていた。

 涙が頰を流れると、堪えようにも、体のなかで見る間に膨れあがっていく感情に圧されて、自分ではもう、どうにもならなくなっていた。


 もはや抗う気力もなくし、縋るように弟を抱き締めるかれを、黒く激しいうねりが無慈悲に打ち据える。寂しさ、哀しみ。不信……

 母は、二度と戻らないだろう。そう思った。

 万にひとつも希望はない。もうおまえの許には戻らない。

 根拠もなく五感を超えたなにかが告げる言葉は、シュバリエのなかで確信へと形を変える。母はもう、帰らない。


 限りなく真実めいた予感が酷く哀しく、かれは弟を抱いたまま嗚咽した。

 平和なひとときになるはずだった、よく晴れた陽のなかで、ただ泣いた。腕のなかで眠る幼い弟が目を覚まさぬよう、必死になって声を殺して。



 

 シュバリエは、寝椅子から緩慢なしぐさで立ちあがり、手を伸ばして、花瓶を静かに持ちあげた。

 母は、白薔薇のような人だった。 

 母マリエルは、少年だったシュバリエと、まだ一歳にもならぬ赤ん坊のクーリエを残し、ある朝突然家を出たのだ。

 不倫の果ての駆け落ちである。相手は、当時貿易を手がけ、支店を任されていた夫の右腕。公私ともに親しくしていた男であった。


 もし、今いちど母に会えても、なにも問うまい、とシュバリエは考えていた。今の自分には、当時とは違い、その答えになり得る理由を幾つか挙げることができたから。それに、問うたところで、心と言葉は必ずしも一致するとは限らない……


 堅実で、人望もあった誇らしい父。

 気高く、たおやか──どこか激しくもやさしい白薔薇のような母。


(家庭はうまくいっていた。だったのだ)

 弟をあやす母の姿が好きだった。

 母に心から愛されていた弟を愛おしく思った。

 いい香り。

 たくさんの花が挿された花瓶は、見た目よりも重かった。

 小さいのに、ずっしりと。


 ────ごとん。


「失礼いたします」

 不意に童女の声がした。

「シュバリエさま?」

「高嶺、お召し替えのお時間でございます」

 クリーマと侍女たちである。


「シュバリエさま?」

 花瓶を抱いた高嶺は応えない。

 稚児の声に、膝を折って控えていた侍女たちが気色ばむ。

 物言わぬ主人の顔を、ふたりの侍女は、幾筋か流れる黒絹の髪のあいだに垣間見た。


「まあっ、シュバリエ様!」

 褐色の髪の侍女が思わず叫び、口許を手で覆った。

 黒い髪の侍女は、年上らしい気丈さで、気持ちを踏み留めるのに成功し、穏やかな口調で対応する。が、落ち着いているようでも、動揺を映した声がうわずっている。

「なんてお顔の色をなさって! どうか横になられますよう」

「お顔が、お持ちのお花のように白いですわ!」

 褐色のおさげを頭に巻きつけた侍女は、もともと白いこの高級娼妓のかんばせの、あまりの色に愕然とした。

 いち早く近くに歩み寄ったクリーマは、主人の肩が小刻みに震えているさまを見た。


 ────ごとん。


 破片になる青。跳ねる白。

 飛沫を描く水溜まり。朱色の絨毯のしみになる。

 黒く沈んで広がる模様。花瓶の流す血のようだ。

 落としたのは、自分の手。


「シュバリエさま……」

 クリーマは、主人の衣を掴んで揺すった。

 夢中で揺する。取り縋って大きく揺さぶる。花の香りが巻きあがる。

「シュバリエさま。シュバリエさま!」


 シュバリエは、片手を童女に伸べた。震えて思うように運べない。

 唇に触れる。繰り返し指を這わせる。

 と、左頬に手がぶれて、紅が大きく伸びてしまった。

 口を動かせないクリーマは、ただただ、主人を見つめ返した。彼女には、主人の瞳がなにも映していないように見えた。


 うろたえる侍女たちの声に、シュバリエは動揺を押し込めた。

 割れる花瓶の、鈍い音が残って消えない。

 かれは、ぐらりとよろけた。

「シュバリエさま!」

「……大丈夫。大丈夫」

 どうにか絞り出した言葉は、酷く掠れて弱々しかった。


 黒髪の侍女が、見かねていった。

「お加減が悪いと女将に申し上げては……」

「いいえ。だいじはない」

 卓に花瓶を置く。

「ですが!」

「お客様をお待たせするようなことがあってはいけない」

 意識してはっきりとした口調を作った。


「さあ、おまえも。すまなかった。口を拭ってもらい」

 童女はまだ主人の膝元に取り付いている。

 かれは顔をあげた。

「着替えを」

 花瓶を卓に戻してからも、しばらく腕が痛かった。




 流れる絹と、色彩の滝。

 今回の上着は、次第に暮れてゆく空の色。肩口から裾にかけ、緩やかに色彩を変化させながら、重ね着をしてもなおほっそりとした肢体を飾る。

 青磁に始まり、黄、朱金へと赤みを帯びて、稚児の持つ裾は深い緋色。爪の先まで出ぬほどに長い袖の縁、前合わせの襟、裾の刺繍は、雲を連想させるような模様だ。


 この地における高級娼妓との色ごとを、人は花襲はながさねと呼ぶ。それは言わずもがな、この独自の豪奢な上着のためだ。

 シュバリエは、侍女と稚児を伴い、館の回廊へ踏み出した。


 高級娼妓の出座に、銅鑼が高らかに打ち鳴らされた。館は、にわかに色めき立った。

 漂う空気が変わるのをはっきりと感じながら、悠然とした足取りでゆっくりと進んでいく。居合わせた娼妓たちは、高嶺のために道を開け、まえをすぎるまでこうべを垂れた。


 人々がざわめく。

 耳を澄ませ、あるいはじっと目を見張る。

 広間で、見合いの相手を選る客も。客に誘いをかける娼妓も。厨房の料理夫や、年若い侍女たちも。かさねの途中の者たちも、肌着を羽織り、じっと見守る。

 ざわめきに彩られた熱気と、楽の音に、ますます店中が高まっていく。

 

 シュバリエは、ただまえを向き、長い回廊を歩いていく。

 かれがそばに差し掛かると、傍観者たちは息を飲んだ。観衆は食い入るような目で見つめ続けて、間を置き、かれが通りすぎるのを見届けてから、ざわりざわりと声を戻した。その姿を求めていながら、一方で敬遠をするように。


 絡みつくような視線。

 息づいている熱気。

 感情の高ぶり。

 賛美。敬慕。

 羨望と欲望の、密やかな荒ぶり。


 息苦しいほどに重く、そして執拗にまとわりつく空気の中を、威厳をもって進んでいく。

 まるで身につけたものを暴かれるようだ。確かに衣は身につけているのに、視線やひといきれが、直接肌に触れてくる。

 公衆の面前で、なにもかもが剥ぎ取られていく感じ。体はおろか、心までもが晒されて、探られているという感じ。


 高嶺として、目的地を見据えた。

 中庭に面する回廊を進んだところに、女将と、今回の相手が立っている。

 女将の横に立つ長身の男に、かれは挑むような視線を投げた。


 どこからともなく、甘い香りが流されてくる。

 蝋の香りか。香の煙か。

 否──

 シュバリエは、漠然と心で否定した。そのどれでもなく、あの花瓶の花の芳香ではないのか、と。

 落ちた破片は濡れそぼり。

 赤く赤く、血に染まり……


(……わたしは、なにを)

 その脳裏には、可憐にひだをなした白い花が今だに咲きこぼれていた。クリーマと、弟クーリエの、純な、冒しがたいような眼差しに、シュバリエはその花弁の白を思った。

 清雅な白い花弁が、愛しく、自分のなかにはもう、どこを探しても見つけられない気がして酷く恋しく、また、空虚なものを胸に覚えた。


 白は染まりやすいもの。染まると元に戻し難いもの。

 散った花弁は戻らない。

 落ちた花弁は、濡れそぼり。

 赤く、赤く、朱にそまり……


 シュバリエは、自分を待つ者たちに向け、微笑んだ。それは、どこかとろりと艶めいた、妖しい炎を宿している笑みだった。

 情欲に潤う街で生きる者の笑みだった。




「シェラナン様。高嶺でございます」

 女将の言葉に、翠眼の美姫は優雅な仕草で腰を屈めた。

 祭りの余興でも見るように、主役の所作にわあぁと観衆は沸き返り、あちらこちらで吐息を散らした。


「シュバリエにございます」

 客を見あげ、目を合わせると、かれは深々とこうべを垂れた。

「お名指し、ありがたくお受けいたします」

 一流の娼婦にも引けを取らないたおやかさ。


 まあ頭をあげて、と穏やかな声で、男は言った。

「楽にしたまえ」

「……ありがとうございます」

 艶っぽい、華やかな笑みで答える。


 客に微笑みかけながら、シュバリエは立ちあがった。

 背の高い、すらりと均整のとれた風貌。

 男は、黒っぽくくすみ、わずかに癖のある栗色の髪と、青みを帯びた琥珀の双眸の持ち主だった。その髪に似た色合いの上品な衣を身につけている。

 首には、衣と同じ素材だが、太めに縒った糸でざっくり織られた、葡萄酒色の長い飾り布を巻いている。


 なるほど、とシュバリエは思った。

『シェラナン』。

 男の身につけている衣類の生地は、シェラナンによるものだ。軽く、丈夫で、絹のような質感を持つという噂の代物。男は、シェラナンの開発者その人であるようだ。

 女将があまり詳しい説明をしなかったのは、相手がこうした有名人物だったので、シュバリエも例外なく知っているに違いないと思い込んでのことだろう。


(やはり、新しい客)

 シュバリエは、男を改めて見つめた。

 内心、かれは感心していた。若いとは聞いていたものの、噂の豪商がこれほど若い男であるとは、思いもよらぬことだったので。もっとも、いつの時代でも、新しい風を起こすのは柔軟な若い心を持つ者であると、相場は決まっているのだが。


 男は、シュバリエの心情を察してか、かれに微笑み返した。

 落ち着きがあるが、年齢よりも若々しい、かしこそうな顔をしている。

「どうぞ、よいお時間を」

 女将の言葉に、シェラナンは頷いた。

 シュバリエもまた、その言葉にちらりと頷いた。


「こちらでございます」

 侍女のひとりが歩み出て、部屋のほうへと男を促す。

 男は落ち着いた態で案内に従い、侍女のあとに続いた。シュバリエはそのあとに、そしてクリーマ、もうひとりの侍女が続いた。


 娼妓にしては、変わった雰囲気のある美青年。

 今では肩を並べる者がないほどに名を博している美娼妓と、事業に成功をして莫大な富を得、自ら築いた金の力で、その美娼妓をも手にする男。

 いくつもの目が、柱廊の奥に去ってゆくかれらの姿を追いかける。

 客の男の幸運と、揺らめく至高の翠玉シュバリエを思いつつ。

 これから、ふたりが行うであろうことを思いながら。

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