星を辿るひと(4)

 海底からさらに高く、深くへと続く洞窟を、二つの影が往く。先を行く小さな影――イルカが尾で水を打つたび、それに続く大きな影――鯨はそわそわと落ち着かない様子で何度も後ろを振り返った。そうしてしばらく控えめに身体を点滅させていた鯨が、とうとう、小声でイルカにこう問いかける。


『ほ、本当にいいのかい、誰かさん。今ならまだかあさまのもとに戻れるんだよ。ねえ、戻ろうよ。こんなことしたら、何が起きるか分からないよ。今地上におりてしまえば、きみはもう二度とここに戻ってこられないかもしれない。そうなったら――』


 ――向こうで身体を失って後、生きているでも死んでいるでもなくなってしまうよ。

 鯨の言葉を聞いているのかいないのか、イルカは、鯨の方を振り返ることも、また返事をすることもしなかった。そのかたくなな態度そのものが、彼の決意の固さを示唆しているようだった。

 一方、鯨の口数も、これまでに比べてはるかに少なくなっていた。イルカが頑として無言を決めこむためでもあったが、それ以上に、鯨自身の迷いのために。


 ――“かのじょ”は、母か、女王か。


 イルカに与えられた問いは、答えを得ないまま、これまで平穏を保ち続けてきた鯨の心内をかき乱し続けていた。

 愛されているのか。それとも、酔わされ支配されているのか。イルカにああして問われなければ気がつくこともなかったであろう疑念が、今や鯨の心をすっかり占めてしまっている。一人きりで過ごしてきた永い退屈の存在も、その疑いを苦しいほどに膨らませた。

 それだけではない。鯨は、イルカと言葉を交わして、自分が耐えかねた“退屈”の正体に気づきかけていたのだ。イルカを地上に帰したくなかった本当の理由にも……


『ねえ、誰かさん――』


 鯨が遠慮がちに口を開きかけたとき。イルカが尾を動かすのをやめ、くるりと身をひねった。彼の視線の先では、洞窟の終わりに沿って丸く切り抜かれた光が鎮座している。海底を真上からくりぬいた大穴と、これまで抜けてきた洞窟が合流したらしい。

 大穴の底に眠る月は眩いばかりの光を放っているが、それらは洞窟の出口に当たって欠けてしまって、イルカと鯨が潜む暗闇を暴くには及ばない。

 月の光から逃れようと身を潜めていたのは、二頭だけではなかった。自らと同じく逃げ延びた誰かを待つように、洞窟の出口をふさぐほど大きなサンゴが、陰に枝を伸ばしていたのだ。

 そのサンゴの白い体は、海底の他のサンゴとは違って、この場所においてただ一つ、本当に“死んでいる”かのように見えた。骨と見紛う腕の先には、何十、何百ものほおずきが垂れ下がっている。陽を思わせる金色のもの、抜ける天の青色のもの、波の白のもの。ぴかぴかと光るものもあれば、煙と見間違う弱い光を吐くものもある。シジミほどの大きさのものから、オオジャコガイほどの大きさのものまで、どれひとつとして同じものはない。

 イルカが確かめるように鯨の方を振り返ると、鯨は七色の光をこぼしながらこう言った。


『うん、やっぱりここだよ。間違いないよ』


 鯨は、たくさんの魂たちが海底に現れては地上に還っていくところを見てきた。その中で見つけた、“魂が地上へと還っていく兆候”――それが、この洞窟だった。

 この洞窟に消えて行った魚影は、どれひとつとして海底には戻ってこなかった。となれば、地上へとつながる何かがここにあってもおかしくはない。いいや、あるはずなのだ。魂を貝へと変える、“何か”が。

 鯨の口からそれを聞くや、イルカはすぐにそこへ連れていってくれと言いだした。

 イルカのことを思えば、そしてこの場所のルールからすれば、許されない話だ。鯨自身にもそれはよく分かっていたはずだが、鯨はイルカをさして咎めることもせず、あろうことか、洞窟の入り口へとイルカを導いてしまった。そして気がつけば、何が己を突き動かすのかも理解できないままに――あるいはその答えを求めて――イルカと共に洞窟へと飛び込んでいた。

 イルカを止めるどころか、自分でもわけがわからないままに、彼の背を追ってここまで来てしまった。それなのに、この海の底においても、全ての魂においても、到底認められるはずのないことを……イルカの手助けをしようとしている自分が愚かだとは、どうにも思えなかったのだ。


 ほおずきたちは、イルカを誘うように瞬いている。あるものは強く光を放って、またある者は色とりどりにその身を躍らせて、“私を選んで”と言わんばかりに華々しく。

 ――あの輝きに触れられたら、どれだけ素敵だろう!

 鯨はわくわくして、どれもかじってみたくなった。だが、イルカは微動だにしない。その目には美しいほおずきなど映ってはいなかった。彼の視線は、サンゴの足元ばかりを見つめている。

 妙に思った鯨がイルカの視線を追うと、その先には……だあれも気づかないような、紫色のほおずきが寂しげに垂れていた。


『誰かさんってば、正気かい。こんなにきれいなほおずきがたくさんあるのに、こんなものを選ぶなんて。どうかしているよ』


 小さなほおずきは、イルカの視線に気がつくと、精一杯に体を震わせる。

 強い光も、綺麗な色も持たないのに、必死になって瞬こうとするほおずきを見ているうち、イルカの中の期待が確信へと変わった。

 イルカがくちばしでそっとつつくと、ほおずきはぱちんと弾け、辺りに紫色がぱっと広がる。その匂いを嗅いだ鯨が、ぎょっとして後ずさった。


『臭い。臭いよ。やめておくれよ。生の臭いがするよ』


 深き海の青に包まれた生命の色――拙い紫色からは、生きとし生きる誰もが知っている、懐かしい匂いがした。出会えば心臓が跳ねるような、生臭い血の匂いが。

 それに混じって、破れたほおずきから何か、小さなものが転がり落ちる。砂地に転げ落ちたそれは、どうやら貝であるようだった。

 小さくて分厚く、くすんだ灰色の、目立たない貝を見たイルカの脳裏を、流星が駆ける。


『……少し、昔話を聞いてくれないか』


 イルカのその言葉は、ひとりごとにも聞こえた。鯨ではなく、自身に向けてのものだったのかもしれない。

 鯨が目をしばたたいたのを見たのかどうか。ともかく、イルカはゆっくりと語りだした。


『私がまだ生きていたころの話だ。私たちは、一年に一度の流星群を待つために、七日前から浅瀬に集っていた』


 流星群の日――貝へと姿を変えた魂たちが地上に降り注ぐその日を、イルカたちは毎年待ちわびていた。彼らは降ってきた内で最も美しい貝を持ち帰り、その一年の宝物とするのだ。

 他の者には理解しがたいかもしれないが、信心深い彼らにとって、習わしというものは何より大事なものだ。浜の近くにはイルカを狩る人間も暮らしていたが、その危険を押して、毎年彼らは浅瀬で星を待った。

 そんな彼らの、とある年。美しい貝を選ぶ者として浜に上がった一頭の未熟なイルカが、人間の少年に見つかってしまったのだ。

 人間の少年は、浜に上がるために人の姿をとっていたそのイルカを人間だと思い込み、話しかけてきた。その時、未熟なイルカはまだ人間の恐ろしさを知らなかったから、人間を恐れもせずに受け入れた。

 そうして人間の少年と未熟なイルカは、共に流星群を待つことになった。


『二人で星を待ち続けて、とうとう、流星群の日になった。たくさんの貝が降り注ぐのを見たときの彼の嬉しそうな顔といったら……』


 イルカは焦がれるように宙を見つめ、ため息をこぼす。語るごと、思い出がそこに広がっていくかのように。

 流星群のその日。星に魅了されていたイルカたちを、人間の船が取り囲んだ。警戒心の強いイルカたちが年に一度浅瀬に集まることに気がついた人間たちが、この日を狙っていたのだ。イルカたちはあわてて逃げ出そうとしたが、もう遅かった。

 浅瀬から浜へと追い込まれ、もはや逃げられまいと諦めかけたとき――


『人間の少年が大声で叫んで、近くの岩場から海に飛び込んだんだ。船を操る人間たちが少年に気をとられている間に、私たちは逃げることができた。私たちを脅かしたのも人間だったけれど、私たちを救ってくれたのもまた、人間だった』


『人間が、きみたちを助けた? あの傲慢で残虐な生き物が?』


 ここまで黙ってイルカの話を聞いていた鯨だったが、あまりの驚きに、思わず声を上げた。

 多くの生き物が人間に抱く感情も、人間自身の在り方も、そう簡単には変えようがないものだ。なればこそ、語り部は真実を紡がなくてはならない。イルカの言葉にもやはり、嘘偽りはなかった。 


『……それから何年かたって、再び彼は浜にやってきた』


 語り部であるイルカにまつわる全てを、人間は長く覚えていられない。すっかり大人になったあの日の少年もやはり、何一つ覚えてはいなかった。未熟なイルカのことも、流星群のことも。

 だというのに彼は、なにかに導かれるように、再び……“未熟だった”イルカと、星を見上げたのだ。それも、一度ではない。彼は何度でもイルカのことを忘れ、また何度でも浜にやってきた。


『大人になった彼は、何もかも忘れてしまうと分かっていながら、いつだって“また来年、会おう”と言ってくれたよ。そして私はいつも、“待っているよ”と、そう、答えるんだ』


 イルカの物寂しげな横顔に、その瞳に、強い意志の輝きが宿る。


『待っていると、君が何度忘れようと、私が絶対に覚えていると……それが、私が彼と交わした約束。この約束を守り通すことだけが、私を、私たちを救ってくれた彼に報いる、唯一の手段なんだ』


 かの人間はイルカたちのために、水の中では生きられない人間の体を省みもせず、海に身を投げた。イルカの語る真理を信じ、イルカと共に星を待った。再会の約束を交わした。

 鯨は呆然としてイルカの話を聞いていたが、その真意を飲み込むや、何とも言えない表情を浮かべた。


『……ここから出られても、君がイルカの姿に返れる可能性はすごく低いと思うよ。元いた場所に戻れるかどうかだって分からない。そもそも、生き物にすらなれずに、魂のまんまさまようことになるかもしれない』


『難しいことは分かっているよ。失敗すれば、もう何者にもなれないだろうことも』


『それなら、どうしてさ!』 


 せっかく自己を保ったまま海の底に来られたのに、どうしてそれが失われるかもわからない危険な道を歩もうとするのか。イルカの言う約束が叶えられる可能性さえ、限りなく低いというのに。

 地上に戻れたとしても、そこには生の混沌が待っている。再び生ける者としてそこに降り立つならば、生きていた時と同じように、ただ一つの生命として運命と戦わなくてはならないのだ。一度海底の安息を知った者ゆえに、その苦痛は想像を絶するだろう。

 イルカは、砂の上に転がった地味な貝を静かに見下ろした。

 ――元の姿を得ることも、生き物に返ることも、彼と再び会うことも。どれも、きっと奇跡のような確率でしか成しえないことだろう。不可能といってもいいかもしれない。それに、この海の底にいれば、月の加護のもとにいれば、思い悩むことも、苦しむことも、不安を抱えることだってないだろう。けれど。


『――私は、彼と共に迷いたい。互いに互いが見えないあの世界で、互いが特別であれないあの世界で、迷いながら、それでも互いを信じながら生きていきたい。その可能性がほんのわずかでもあるのなら、私はそれに賭けてみたいんだ』


 イルカの声には、少しの不安の色もみられなかった。自らの望みに与えられたわずかな希望のみを、彼は心から信じていたから。

 イルカによく似た灰色の貝――それはまさしく、かの人間が最も美しいと選び、イルカに渡したものだった。この多くのほおずきの中で、この貝を抱いた小さなほおずきを見つけられたこと。根拠というには心もとないが、それだけでも、奇跡を信じて良いのではないだろうか?

 失敗したならそこまでだ。だから今はただ、最善の結末だけを見据えていたかった。


『……どうあっても、きみはここから出ていってしまうんだね』


 鯨がぼそりとつぶやく。だがその声色は、イルカを咎めているそれではなかった。鯨の口元から、七色の光が弱々しくこぼれる。


『きみが自分を失わないままここに来られたのは、たぶん、きみがそう強く願ったからなんだね。今のきみならもう、かあさまに囚われることもないはずだよ。なんて、こんなことを言ったらきみは、すぐにでもこの深い海を抜け出して、痛みと苦しみの絶えない地上へと帰ろうとするんだろうね』


 鯨が吐き出した虹の粒は、辺りに広がることなく、重たげに地面に垂れ落ちていく。鯨は、イルカと出会ってはじめて彼を直視することができなくなり、視線を砂地に落とした。

 鯨には、もう分かっていたのだ。月を疑いながらもイルカをこの海の底にとどめておきたかったのは、イルカ自身のためなどではなく……一人取り残されるのが嫌だったからなのだと。


『ぼくはきみと出会って、はじめて自分の退屈の正体に気がついたよ。ぼくは、ずっと“寂しかった”みたいなんだ』


 自我を持つ魂が負うには長すぎる時間を過ごすうちに感じてきたいたたまれなさ、それに焦り。鯨はそれに退屈と名をつけて、忌み嫌ってきた。

 けれども、イルカと共に過ごす間に感じた、退屈しのぎというにはあまりに温かい気持ちが、鯨に教えたのだ。君が怯えていたのは退屈などではないよ、と。

 気がついてしまえばあまりにも拙く、浅ましい理屈だ。鯨にはもう、イルカを咎めることなどできそうになかった。他の誰でもない自身のために、ここにいて、一人にしないでなどと、言えるはずがない。そうでなくとも、イルカの瞳はいつだってどこか遠くを見ていたのだから。


『……もし、もしだよ。きみがまたいつか、地上での生を終えてここを目指すことがあったなら、その最中で暗闇に迷い込んだなら、ぼくがその道を明るく照らしてきみを導くよ。だから――』


 ――もう一度ここにやってきたそのときには、必ずぼくに会いにきて。

 そう言った鯨の面持ちは、どこか清々しく見えた。

 疑念をもって母の手を離れても、鯨は、これからもこの海の底をひとりきりで漂い続ける。海底にくまなく降り注ぐ月の光も、今の鯨にとっては息苦しいだけだ。戻ってくるかも分からない友をいつまで待ち続けることになるか、それもまた分からない。

 ――でも、ぼくは誰かさんを止めないよ。だって……いつかまた会えるもの。そう信じているもの。


『いいかい誰かさん。……“待っているからね”』


 鯨のその言葉は、イルカを地上につなぎとめんとする約束そのものだった。

 あえてかの約束になぞらえて鯨がそう言った理由も、鯨の思いも、かつて同じ言葉を口にしたイルカには伝わっていた。

 それならば、余計な言葉は必要ない。言うべきことはひとつだ。


『“またいつか、会おう”』


 深い深い海の底で再現された、あの日の約束。

 途端、灰色だった貝がぴかっと強く光を放った。光は虹のように筋を連ね、洞窟の奥から入り口まで飛んでゆく。その一筋がイルカに絡みつき、彼の身体を七色に輝かせた。

 イルカと鯨は、一緒になって、飛びゆく光の筋を追いかける。なぜだか、これが行くべき道だという確信があったのだ。必死で光を追いながら、鯨はイルカにそっと問いかけた。


『……ねえ、誰かさん。君が名前を持っているのなら、教えてくれよ』


『ナナシ。幼い日の彼が、私をそう呼んだから』


 ナナシ、名無しか。名前とも呼べないようなその名に、鯨はくすりと笑った。


『へんなの。でも、それがきみなんだね』


 イルカ――ナナシがどんな顔をしたのか、鯨には分からなかった。去り際に何か言ったようだったけれど、そのころには鯨はすっかり彼を追い抜いて、洞窟を抜け海底の水の中へと舞い降りていた。鯨にはまだ、やらなければならないことがあったから。

 友の往く道を塞ごうとする強大な力の目を欺くために。彼との再会を夢見るならば。

 鯨は、月を恐れることなく、ごうっと真っ黒な潮を吹いた。黒い雲が月を覆い、その目を陰らせる。


『行きなよ。ぼくはここで待ってるから。散々迷って疲れ果てたきみが、再びこの場所に帰ってくるのをさ』


 鯨は誰にともなく、そうつぶやいた。

 灰がかった景色の中、世界の果て――海の底から夜空へ、地上を目指す光が駆けおりていく。遠ざかっていくほうき星がすっかり見えなくなるまで、鯨は身じろぎもしなかった。結末を――女王の手のひらを拒んだ魂の行く末を、見届けなくてはならないのだから。


 ――さよなら、ナナシ。人間によろしくね。

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