第6話 泣き晴らす空、差し出される傘②
拝啓、塚原遊さま。
私の事覚えていますか?
あの子の事覚えていますか?
大切なものは未だに胸の中にありますか?
胸は空っぽではありませんか?
人生は満ち足りたものでしたか?
偽りは甘美な物でしたか?
どうか、嘘偽りなく聞かせてください――。
見た目が小学校高学年ぐらいの黒髪の女の子が透明なビニール傘を差し出してきた。
艶のある黒髪は若干雨に濡れている。
声を掛けられる覚えが遊にはなかった。
視線をやるとニコッと愛想笑いがひとつ咲く。
その小さいから中くらいに掛けての少女にその傘は少し大きかった。
それにその傘は先程「ダナ・ト・タル」で遊が倒してしまった傘に非常に似ていた。
そんな傘遊の前に差し出してを少女は遊の傘だと言う。
しかし遊が今まで差してきたのは黒い布地で、骨組みが十二本ほどあって番傘の様な格好の傘だった。
つまり見覚えがあるが、他人のものだ。
「いや…そんな傘に見覚えはないな。俺じゃ無いよ」
ほら、と持っている傘を差し出してみせる。
声音は酷く冷えていた。
今までとは確実に違うと自分でも確信が持てるほど。
つい勢いで『見たことも無い』と嘘をついてしまう。
口調は優しいが、冷たく、少し突き放すような言葉として受け取られてしまったかもしれない。
そして何故咄嗟に嘘を着いたのかは遊にも分からない。
ただ何か大きな力に動かされたとういか彼の意識には選択肢がなかったとでも言うべきだろうか。
そう言うと微笑んでいた少女は一瞬悲しそうな顔をして、今度はニヒルな、見ているだけで不安になってくるような笑顔で付け加えた。
「本当に見覚え、ありませんか?」
「……悪いが無いな」
一度嘘をついた手前、それを突き通すしかない。
バレなければ、誤解だと押し通せば、誤魔化せれば互いが不幸にはならない選択だ。
実際見覚えというか似たようなのがあったな程度の事で自分のものでは無いのは事実なのだから。
「じゃあやっぱり…お兄さん、この傘を忘れたことを忘れてますよ」
「…は?一体どういう…そもそも見たことがないってさっきから――」
「――お兄さん!私と、かくれんぼしませんか?かくれんぼをしてくれたら続きをお話しますよ?」
遊の言葉を遮ってのいきなりの提案に脳が一旦理解することを放棄した。
点と点が繋がらず、スタートに戻ってしまう。
(―――か、かくれんぼ?かくれんぼって隠れるやつ?)
意図が全く読めない。
目的も不鮮明だ。
少女はどうやら頑なに自身の行動を信じて疑わない。
(――…一体こいつは何者だ?何故俺にこの傘を渡そうとする?そして何故よりにもよってかくれんぼなんだ?てか二人?)
状況がアクセルをフルスロットルでぶっ飛ばしている為、何が何やら分からない。
そんな速度についていけるはずもない。
疑問も不安も尽きない。
しかし虎穴に入らずんば虎子を得ず。
現状打開の鍵は少女の提案に乗ることだった。
遊は渋々とその提案を飲む。
「かくれんぼ…?二人でやるのか?」
「はい。二人っきりで」
「わかった。で?どうすればいい?」
「ではお兄さんがかくれている
「俺が鬼ってことだな?悪いが霧が深くとも君をさっさと見つけるからな」
「私は、そう簡単に見つかりませんよ。この子たちの事を忘れているようではね」
フフフ、とニヒルな様子からまた表情豊かに笑い出す少女。
そのニヒルな笑みがまた、この少女の雰囲気をシリアスめかせている。
意味がわからないのに、彼女の遊びに付き合ってしまう。
もっとこの時間を続けたい、一緒にいたいのに、早く帰りたい気もする。
そんな独特すぎる雰囲気とペースで進めてくる。
そのペースになれない遊はさっさと話を進めることにした。
ペースを乱されているのはいつだって遊の方だった。
「で、俺は何秒待てば?」
「そうですね…両手で目を覆って十五秒数えてください」
「じゃあさっそく始めるぞ」
そう言って遊は両手を両目にあてがい、ハッキリと聞こえるようにと声に出しながらカウントを始める。
世界が黒一色になり、チカチカと淡い光が視界の端をチラつく。
自分の僅かな息遣いだけが聞こえる。
辺りにはそれ以外の音は聞こえなかった。
まるで彼女と隠れんぼをして下さいと言わんばかりに。
「15、14、13、12、11」
(本当にかくれんぼをやるんだろうか…流石にあれだけ食い下がって本当は人違いだけど言い出せないからこの隙に逃げるとかはしないとは思うが…。目的が不鮮明すぎる。怪しすぎる)
「10、9、8、7、6」
(というか何故俺はかくれんぼしようと思ったのか…だが確かに心が渇望していた気がする。本気でかくれんぼすることを望んでいた。何をしても満たされなかった心が見知らぬ少女とのかくれんぼにときめいてる。こちらを知ったような口振りもすごく気になる)
「5、4、3、2、1」
(何かを忘れていることを忘れている、か。確かにココ最近ふとすると何故こんなことができるのだろうと素朴な疑問を持つことはあるな。人間は経験を元に物事をこなすからその記憶の出所が不明なら確かに不安になる。そう考えると忘れていることを忘れていることをというのも一理ある。記憶になくとも体が覚えてる。てかあの娘が俺に敬語とか似合わないな。…いや何の話だ?何言ってんだ俺は)
「もういいかい?」
(…返事がないなら沈黙は肯定と取るぞ?)
隠れんぼなんてさっさと終わらせて家でゆっくり寝よう。
遊の胸にあるのはそれだけだった。
もはやあの少女がどうであってもいい気がしてきた。
ただ今はかくれんぼに集中しようと闘志が湧いてきた。
見つけなければという使命感も。
どうやらひとつの事に頭を使いすぎて頭がおかしくなったようだ。
平時にできる正常な判断は既に遊の中には存在しない。
変な妄想妄言が自分にも伝染ってしまったようだ。
いくら待っても呼び掛けに「もういいよ」という返事はなかった。
そっと目を開けて、手を降ろしてみるとそこは――
「――んなっ!なんだこれ!こんな馬鹿なことが!」
――霧が晴れて、見たことない景色が広がっていた。
空は透き通るかのような蒼さで、自分がまるで空に落ちていくかのような錯覚すら起こす。
まるで絵に書いたような幻想的な光景で、今たっているここが現実だと認識できない。
「うおっ!…落ちっ!ない?!」
地面もそんな空を反射して蒼く輝いて、空に落ちているかのような錯覚を助長させている。
「はぁ、はぁ、ここは…?…なんだここ…こんなのおかしい!」
今見下ろしているのが上も下も最早分からない。
自分が落ちているのか、飛んでいるのか漂っているのかも分からない。
「お、おい!誰か…誰かいないのか!誰でもいい!返事をしてくれ!」
そして、その光景の中で異彩を放つのはポツンと起立する学校らしい建物だった。
その校舎は佇むだけで何も答えてくれやしない。
「ここはどこなんだ!一体誰が!どういう目的で!俺をここに連れ去ったんだ!?」
しかも小学校の本体の建物だけ立っていて周りの校門やらグラウンド、武道館すらなかった。
確かに以前は存在したはずなのに。
――何故自分はこんな事を思考しているのだろう。
(何処だここ、どこだここ!どこだここ?どこだここ!?どこ、ここどこ?)
――何故自分は学校のことを知っているのだろう。
(なんだこれ何これ何なんだ、なんだ何故ナニユエ、何を、何ともさ何が何やら何これは何!?)
――何故懐かしい気がするのだろう。
(怖い—どこだここ—理解不能—あの子はどこ—わからない—誰かいないのか—何もない—懐かしい—理解できない—よくわからない—支離滅裂だ—狂ってる—孤独だ—一人だ—こんな世界にただ独りだ)
その事実がとてつもなく不気味だった。
遊の身体中を怖気が奔る。
怖かった。
自分の知らないところで確かだったはずのものがいとも容易く崩れ去り、変えられていく。
恐怖だった。
そんな遊に孤独が静かに語りかけてくる。
『お前はここで独りで置き去り。頼りになるやつは誰もいない』
見慣れたはずの、しかし知らない景色の真ん中に置き去りにされた遊に。
もう校舎以外覚えてはいないが。
孤独と未知は容易く理性を崩壊させるもので。
素っ頓狂な声で遊は心の声を叫ぶ。
「は、ははッ、あはははははッ!どこだよここは…
虚しく空に散る戯れ言。
自分の声以外に何も聞こえない。
何も存在しない。
誰も、いない。
人どころか動物、見知った草木も道路もない。
命あるものがいない。
完全な孤独。
ここは死後の世界だろうか。
「こんな急に、こんな変なところで一人で、何をしろって言うんだよ…」
あまりの衝撃に立つこともままならず、膝を屈する遊。
きつく握る手は砂すら掴めない。
地面には何も落ちていないのだ。
そもそも地面とすら言えない。
下は水のはずなのに、遊の体は沈むどころか、水面に透明な壁が張ってあるかのように硬い感触が帰ってくるばかり。
波紋は広がるのに、体は沈みこまない。
「物理法則すら無視かよ…こんな所でこれから俺はどうすればいい?」
先程までは髪も制服も濡れて冷たかったのに今では濡れた気配すら微塵も感じさせないほどふわふわしている。
ドライヤーで瞬間的に乾かしたってこうはならないだろう。
まるで濡れていたことなんて最初からなかったかのようだ。
無気力さに潰されて視線が下へ向けられる。
するとまた度肝を抜くような事態が目の前に広がっていた。
下には微かだが、灯りがあるようだ。
空が映り込む水面の下の下、そのさらに下に視線をやるとビルやマンションなどの高層建築が逆さに生えてるようだった。
天井から摩天楼が生えている。
逆さの摩天楼が広がっていた。
それは何とも非現実的な光景だった。
しかし非現実的な光景は妄想や夢と片付けるには思考がしっかりとしすぎている。
夢特有の唐突な場面転換や事態の意味不明さはあれど、視界が酩酊状態のように傾いている訳でもないし、思考がクリアすぎる。
また明晰夢というには変化が乏しい。
試しにここは学校で遊はいつものメンバーと帰っているといくら念じても変化すら現れない。
いくら強く念じても、雑念を捨てようとしても変化する兆候すら見せなかった。
どうやらお釈迦様は蜘蛛の糸すら垂らしてくれないらしい。
訪れた変化と言えば悪いことばかりで。
先程までは元気に飛び回っていたネオンの灯りは今は色が涸れて灰色になってしまった。
ついにはその輪郭も朧げになり果てには見えない底まで落ちていってしまった。
まるでその光景は、自分の行く末を指し示しているかのようで。
それが遊には酷く恐ろしい、絶望的なことに思えて視界を手で覆い塞いでしまう。
自分も終いにはあのような様になってしまうのだろうか。
なんて馬鹿げた考えも心の奥底から引っ張り出される。
何もわからず水面の底で泡になり消える運命なのか。
そう考えると遊の胸の奥底で内側からドンドン!っと叩くような、痛い、そして熱い思いが溢れ出てくる。
99%の絶望の中で、パンドラの箱の最後の希望は確かに芽吹いた
(――嫌だ!このままわけも分からずに野垂れ死には嫌だ!)
死中に活を見出すと決めた遊は決意を胸に立ち上がるのだった。
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