第4話 ピアノの旋律とビニール傘②

ポツリ、ポツリとアスファルトの道路を、お洒落な店の磨かれた窓を、そしてその曇天の下に暮らす人々の心に染み渡るその雨音は何故だかとても心地がよい。

アスファルトに染み込む水滴のごとく容易に心に染み込んでいく。

心が浄化されるような気がする。

どこまでも広がる蒼空も心地よいが、ポツポツと打ち付ける雨音も趣深く、深々と降り積もる雪の美しさも、雷のような危険と湧き上がる興奮が入り交じった二律背反も、全てが心地よく、全てがとてつもなく美しい。

日常というものはそのような空の天気表情で始まると言っても過言ではない。

その空の表情に一喜一憂して人という存在は生を終えていく。

そう考えるとなんとも――


(天気も、それに動かされる人の心も不思議なもんだなぁ)


遊は窓を伝ってきた雨の落下の軌跡をなぞらえながら心の中で独りちる。

たまにはこんな乙な天気の醸し出す雰囲気にに酔って見るのも悪くない。

洒脱なセリフを言ってみるのも悪くない。

そう黄昏ていると真正面から強烈な、それはもう猛烈な台風の如き視線を頂戴した。

そーっと視線を戻すとそこには――般若がいた。

それはもう怒髪天を衝く勢いで怒る般若の面でも被っているのかという程の怖い顔をした千佳だった。

そして千佳般若の左手は大きく後ろに振りかぶられている。

一瞬にして強張る表情。


(あっやべこれ死…ッ!)


スパァァァン!と一瞬にして雨音を掻き消す程の音が室内に響いた。

遊は頬に紅い紅葉を付けながら奇跡的な三回転半をキメて椅子から転げ落ちた。

どうしたら数キロほどの腕で数十キロもある遊の体を浮かせられて、なおかつ三回転もさせられたのかは誰にも分からない。


「ウグォォォォ!頬っぺが!俺の頬っぺがァァァ!」


頬を両手で押さえながら床を転げ回る遊。

のたうち回ってそこかしこに体の至る所をぶつけてしまう。

審査員傍観者からはすかさず拍手と「満点!」と言う評価を頂戴する。

まぁその賞賛は千佳に向けられ、千佳が喜ぶもので、一応被害者の遊にはこれっぽっちも嬉しくはないが。

とにかく被害者として加害者を問い詰めるために遊は起き上がる。


「おい!痛いだろ!急に平手打ちしてくんのやめろよ!」

「あんたが人の話を聞かないからでしょうが!なぁに黄昏ちゃってんのよ!こっちはあんたの為にわざわざ来てんだからね!?」

「あのな!女だからって何やっても許されると思うなよ?セクハラやパワハラは女性でも普通に捕まるんだからな!」

「これはセクハラでもパワハラでもないわ!これはドメスティックな教育よ!」

「ドメスティック要素ねぇじゃねぇか!」

「あ、あるわよ!そ、その、将来の…お嫁……の為」

「なんでお前に将来の心配されなきゃいけねぇんだよ彼女すらいた事ねぇんだぞ!」

「えっ!?し、知らないわよ!自分で考えなさいよ!」


赤い紅葉を飾り付けた右頬を両手で押さえながら抗議するが、逆ギレで返されてしまった。

そういえば今日は千佳達にお洒落な、と言うより瀟洒なカフェで『もう第何回か忘れたけど取り敢えず遊の奢りでカフェで勉強会』を開催していたのだった。

大声で騒ぎ立てる二人に対して元樹は


「…あーお前らの痴話喧嘩はいいんだが、人がいないとは言え少しは行儀を良くしたらどうだ?」


と真面目に注意すると見せかけて茶化しに来ている。


「えぇそうですね。マスターの好意に甘えてばかりも居られませんし。ただでさえ普段は優先的に席を貸してもらっているのに騒ぎ立てるのは如何なものかと」


そう言って委員長殿はサッとカウンターの方へ向ける。

カウンターの方にはスキンヘッドに黒いサングラスをかけたもはや堅気の人間には見えない風貌をした30代ぐらいの男が、その強面とのギャップに笑いで悶え死にそうになるくらい可愛らしいエプロンを付けて、黙々とコーヒーカップを磨き続けていた。

こちらが見ていることに気づいたのか少しマスターは少し目線を上げてゴトッとカップを置くとあまり抑揚のない声音で告げた。


「別に気にしていない。今日は他の客もいないしな。今日みたいな雨の憂鬱な日にははしゃぎたくもなるだろう」


見た目からは想像できないが、優しく、そしてとても心が広いマスターだった。

そこがこのカフェ「ダナ・ト・タル」の持ち味なのだが。

そう言ってカップを片付けつつ後ろの棚からコーヒー豆の袋を取り出して装置に流し込み、作り始める。

こうして改めて見ると、内装的にはバーとか酒場とかの方が近いかもしれない。

後ろの棚をガラス張りにして酒瓶とかワインなどを並べて、あとはマスターがコーヒーカップの代わりにワイングラスを磨いていれば完璧だ。

とは言え、マスターのコーヒーは格別に美味い。

コーヒーのコの字も分からないような素人の遊でも他と比べて、圧倒的に後味がいいことが分かるほどに。

そこにこれまたマスター特性の鶏肉のハニーマスタードサンドを食べれば誰でも簡単昇天ものである。

誰でも簡単トリップ体験とも言う。

もはや下手な麻薬よりも中毒性が高いんじゃないかと言うくらいに。

そのうち「マスターのハニーマスタードサンド依存性」なるものが出てきて、人の生活習慣病に新たな歴史を刻むのではないかと遊は睨んでいる。

ちなみにそれを真面目トーンで相談したところ、元樹大先生から「その前にマスターが過労死するわ」との貴重で的確なマジレスなご感想を頂戴した。

とはいえ既に遊達もハニーマスタードサンド三個ぐらい平らげている。

今四つ目にも手を付け始めた。

これは洗脳される日も近い、のかもしれない。

そしてハニーサンド片手にコーヒーに突っ込んだスプーンを掻き混ぜながら遊は聞いた。


「さて、はぐらかされてしまったが、千佳なんで俺を平手打ちしたんだ?いや、マジで」

「あんたが平手打ちされるようなことするからでしょ」

「なんかしたか?」

「無視したじゃない。何度も何度も私の堪忍袋の緒が切れるくらい」

「だからって平手打ちするか?普通。いちいちかまってちゃんなんかしてたら、それこそ将来そんなんだとお嫁に行けないぞ」


はぁやれやれと頭に手をやりながら言い放った言葉に千佳は急に静かになった。

これは遊の本心からではなく、普段の行動の妬みとやっかみを込めた意趣返しなのだ。

親友に向ける一種の冗談、なのだが。


(ゆ、遊のやつやりやがった…的確に地雷を踏み抜きやがった。これだから鈍感野郎は!クソ、叶依どうする!?)

(処置なし、ですね。面白――ゲフンゲフン…事態が落ち着くまで静観していましょう)


元樹は叶依に目配せするが、叶依は処置なしと首を弱々しく振るばかりであった。

若干後半に本音が混じっていたような気もするが元樹は敢えて無視をした。

何故ならそれが最も安全な嵐のやり過ごし方だからだ。

自殺志願者でもない限り、外には出ない。

頭を守って建物に避難するのが利口だ。


「そう…そうね…嫁の貰い手、ね…。私はお嫁に行けないのね…ふふっ」


変に間のある千佳の言葉にあれ?と首を傾げる遊。


「…あのー千佳さーん?もしもーし。あのーちょっと?嫁の話云々は冗談だったから…」


尋常ではなくなった様子の千佳に動揺を隠せない遊。

先程の発言を半ば勢いででまかせを吐いただけと謝ったのだが、何故か壊れたような哄笑は止まぬまま。

それどころか段々と強まっている気さえする。


「ふふっふふふふふふふ!ねぇ遊ぅ?」

「は、はい…?」

「偉大なる神様は、言いました。右の頬を打たれたら、もう一度右の頬を出しなさいって」

「いやいやいや!ちょ、おま、右手で右の頬って裏拳するつもりか!?てかそれを言うなら『右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい』だろ!?」

「乙女を嘘で弄んだ罪、万死に値するわ!右頬の痛みをもって贖いなさい!」

「え、ちょっ…死ぬ、死んじゃう…!ばへらぁッ!」


右を裏拳で吹っ飛ばされた遊は今度は四回転半をキメて、床に叩きつけられた。

もちろん審査員席からは満点の札とともに、スタンディングオベーション。

遊は多分人生で一生分の回転をしたであろう。

遊は天使を見た!眠れる仔羊を導く優しい天使が!

遊が床に『チキュウダイスキ』をキメた衝撃で、傘立てに立ててあった透明なビニール傘が遊の顔面に倒れてきて、直撃クリティカルヒット

昇天トリップ状態の遊を現実に引き戻した。


「い、痛てぇ…」

「当然の報いよ!ねぇ二人とも?」

「「ヒャクパーセント、ユウガワルイ」」

「なんでカタコト!?」

「いやマジで嫁入り前の生娘に名指しで『お前は嫁に行けねぇ』って外道だぞ、外道」

「きむす…うぉっほん…なんでもない。いや、ほんのささやかな意趣返しで……てか千佳は普通に美人だし、簡単に結婚できるだろ」

「び、美人…け、けけけ、結婚…!」


美人と結婚の部分に反応して顔に真っ赤な華を咲かせる千佳。

なんというチョロさであろうか。

チョロい。

チョロ過ぎる。


(チョロい…簡単に煙に巻けるぞこれ)


遊がそう思っていると、叶依が遊のことを見つめていて遊が首を傾げると…。

脳内に直接語りかけてきた。


(そのチョロさも千佳ちゃんのカワイイ所なんですけどね、遊くん)

(こ、こいつ直接脳内に…!)


彼らの間ではもはや脳内で交信するのは当たり前なのだ。


(あとダークモカチップフラペチーノを奢ってください。あと千佳ちゃんに謝罪の意味を込めて、ピーチフラペチーノも。千佳ちゃん甘いの好きですし)

(おっす)


脳内の交信を終えて、遊は指示通りの二つと自分と元樹の分を注文した。

そんなメニューあるのかよ、と言われればある。

あの強面マスターは子供や女性客も視野に入れているのだ。

その見た目ゆえにその層の客足が寄り付かないとは口が裂けても言えない。

頼み終わった遊はそういえば、と呟いて問いかけた。


「この傘誰のだ?倒しちまったんだが…」

「んあ?俺のじゃあねぇな。黒いし」

「その傘は違うわ。私の元樹よりも、もっと黒いし」

「私でもないですね。色、赤ですし」

「じゃあ前の客かな?マスター?」

「…昨日は雨は降っていないし、今日はお前たちが初の客だ。それについ先週店内の清掃を終えたばかりだから残っているのはおかしい。今日は週初めだろう?」

「前から無かったって事か…え?マジで誰の?」


取り敢えず傘を元にあった傘立てに丁寧に入れて、席に着く。

それと同じくらいにマスター自らがお盆に四つの飲み物を持ってテーブルにやってくる。


「ゆ、遊。よく私がこういう甘いの好きだってわかったわね…ありがと。さっきの件はチャラにしてあげなくもないわ」

「そうか好みに合ったようでなにより」


そう言ってちらりと叶依の方を見て、視線で感謝を伝えるのを忘れない。


(サンキュー委員長殿)

(お易い御用です)


勿論声を出して言えないので脳内の交信であるが。


「そういやさ、遊って居ないって言ってたけどよ…年頃の男なんだし、初恋の一つや二つや三つぐらいあんだろ?」

「こ、こいつ忘れた頃に人の揚げ足を取りやがって…てか二つ目からは初恋じゃねぇだろ!」

「そりゃ言葉の綾ってやつだよ。言葉の綾。ほらほらーこの恋愛マスター元樹お兄さんに話してみろよー。初恋はいつだ?小学生?」

「うー…どうだったかな…小学生はそもそもそんな目で女を見てねぇってか殆ど忘れたし中学は勉強に勤しんで、恋愛の酸いも甘いも高校デビューしてからって決めてたからなぁ……うん多分無し!あったとしても忘れてる!」

「ふーん…だとさ良かったな千佳」

「なんでそこで私に振るのよ!」


こうして、甘い飲み物と時々の刺激の強い出来事をツマミに楽しい時間は過ぎて行くのだった。

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