二十六話「翼はPlesure Line」

 こはるを中学校に送り出すと、一気にやるべき事が無くなってしまった。

 一応は真面目な高校生である悠は猫を被って通学しているし、朝っぱらから中学生に聞き込みができるわけもない。庚は安佐北区の方に足を延ばしているようで、中区からでは仕事の手伝いに向かうには遠過ぎた。

 どうやっても動けるのは放課後からになるだろう。

 めのうのSNSでも読み込んでみようか、と香苗は公園のベンチに座りながら何とはなしに思いつく。昨晩、こはるとそれなりに目を通しては見たものの、その全てを読めたわけではない。何しろ四つのアカウントで合計十万以上の書き込みがあったのだ。一体どれだけ電脳世界にのめり込んでいたというのだろう。基本的には電脳に疎い香苗には、それが理解できない。

「ま、暇潰しにはなるよな……」

 行きつけのドーナツ屋で購入したプレーンシュガーに手を伸ばしながら呟くと、公園に思わぬ闖入者があった。

 誇らしく掲げた白い翼、滑らかな曲線美を描くその肢体に目を奪われる。

「あららー、お久しぶりじゃないの」

「はい、お久しぶりです、のぞみさん」

「やめとくれ、のぞみさんなんてこそばゆい。前も言ったけど、気軽におばちゃんって呼んでおくれよ」

「いいんですか?」

「勿論さね」

「分かりました。お久しぶりです、おばちゃん」

「うむ、久しぶりだねえ、カナちゃん」

 のぞみが口の端を歪める。猫の表情はよく分からないが、恐らくは笑ったのだろう。

 のぞみ・みどりいろ。

 前にチラシ配りで雇ってくれた猫型の天使だ。猫型であるためか、人型の天使より多少人懐っこいところがある。翼に箱を引っ掛けているところから見るに、恐らくはまたチラシを配っていたのだろう。分かり切った事ではあったが訊ねてみる。

「チラシ配りですか、おばちゃん?」

「まあねえ。おとっちゃんの教えを地上の皆さんに伝えてあげる。それがおばちゃんの役割だからね。相変わらずあんまり受け取ってもらえないけどねえ、あっはっは」

『おとっちゃん』というのは天使達が敬愛している神に値する『父』の事らしい。

 その『父』が何であるのか、香苗はよく知らない。実在しているのかも分からない。ただ天使達は『父』を敬愛し、その教えを布教している。確かな事はそれだけだ。

「カナちゃんは? 今はどんなお仕事をしてるんだい?」

「事件の調査ですね。守秘義務があるので、詳しい事はお教えできないんですけど」

「いいよいいよ、それがカナちゃんのお仕事なんだもんね。でもおばちゃんにできそうな事があったら言っとくれよ。及ばずながら協力させてもらうよ」

「はい、ありがとうございます」

 とは言ってみたものの、実際にのぞみに訊ねる事は無いだろう。

 長い付き合いではないが、香苗の知る中でのぞみはかなり善良な方の天使なのだ。飛び降り自殺の件についてなど訊けるはずもない。のぞみには善良なままチラシを配っていてほしい。手前勝手ではあるが、それが香苗の偽らざる願いだ。

 そうして軽く微笑んでいると、不意にのぞみが興味深そうに香苗の手元を覗き込んだ。ドーナツが気になるのかと一瞬思ったが違っていたらしい。のぞみの視線は香苗のスマートフォンの方に向いていた。

「インターネットをやっていたのかい?」

「まあ、ちょっと違いますけど、そうですね。SNSをやってたんですよ。おばちゃん、SNSって知ってます?」

「ニュースで話題になってるのを知ってるくらいだねえ。何せ天界に居た頃にはインターネットなんて無かったからね、おばちゃんにはちんぷんかんぷんだよ」

 天使と悪魔が広島に顕れたのは二十年前だ。

 猫の寿命は二十年に満たないはずだが、猫型の天使は普通の猫と寿命も異なっているのだろう。いや、そもそも天使に寿命があるのか、香苗は知らなかった。少なくとも老衰で天使が死んだという話は聞いた事が無い。

 今はどうでもいい事だった。純粋な好奇心から、香苗はのぞみに他の事を訊ねてみる事にする。

「インターネットが無くて、どうやって他の天使の人と連絡を取ってたんですか?」

「連絡が取れなくて困る環境じゃなかったからねえ、皆気にしなかったもんさね」

「そんなものなんですか?」

「そんなもんさ。それにね、実を言うと天界って人間の子達が考えるより狭いんだよ? この広島市より狭いくらいかもしれないね。他の天界はともかく、おばちゃんが住んでた天界はそうだったねえ。だから焦らなくても用がある天使とは会えてたもんさ」

 田舎の暮らしみたいだな、と香苗は思った。

 実際にそうなのだろう。電脳が存在せず、狭い空間で暮らし、生きる事に急いてもいない。まさに田舎暮らしだ。二十年前まで、天使達はそういう暮らしをしていたのだ。広島に降臨して、人間以上に困った事だろう。

 と。

 香苗は不意に一つの事に思い至った。現在の香苗の依頼人であるこはるの事だった。こはるは中学三年生だ。年齢は十四歳。となると、当然だが二十年前には展開に存在していない事になる。

「あの、のぞみさん?」

「何だい?」

「今の若い天使の人達の中には、天界を知らない人達も居るんですよね?」

「そうだね、おばちゃん達は二十年前に広島に来たわけだから、それより後に発生した子達は勿論天界を知らないね」

 若い天使は天界を知らない。恐らくは人間や悪魔と同等に、天界を知らない。

 こはるも、その幼馴染みであるめのうも、天界を知らないのだ。若い天使達は天界を知らず、『父』の教えに従っているのだ。

 それは何を意味する事になるのだろう。

 分からない。分からないが、香苗の胸の中で一つの答えが固まりつつあった。

「天界ってどんな所なんですか?」

 気が付けば香苗は訊ねてしまっていた。

 これまで気にしていなかった、気にしないようにしていた近くて遠い天界の事を。それを知る事で、めのうに限らず、天使全体について少しは理解を深められるはずだ。

 のぞみは猫の様に伸びをしてからまた口の端を歪めた。今度こそ香苗にも分かった。のぞみは間違いなく香苗に微笑んでくれていた。

「そうさね、天界ってのはね……」

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