第2話 完全無欠な異世界

 まず最初に感じたのは、空気の違いだ。日本に来た観光客に言わせれば、日本の空気というものは醤油と味噌の匂いがするらしい。それは自分が他の国に行ったときも同じだ。やはり本能的に日本という国から自分が離れているということを理解できる。

 そして今も同じだ。匂いから違う。だがその匂いは未だ嗅いだことのない特殊なもの。臭いというわけでは無い。ただ今まで生活してきた中では嗅いだことのない独特の匂いであることは確かだった。

「どこなんだよ、ここ…?俺は確かさっきまで家の近くに…」

 そう、俺は直前まで家の近く、具体的にいえば家の一つ前の曲がり角を曲がろうとしたところだった。だが先ほどまで見ていたブロック塀はおろか、日本人らしき人はほとんどいない。そもそも人と定義してよいのだろうか。ゲーム風に言うのならばそれはもはや亜人であった。確かに人型であり、人間のような衣服を身に付けてはいるものの、そこから覗く頭は明らかにトカゲだったり半魚人だったりする。足元には土や砂ではなく、ましてやコンクリートでもない、見たこともないような素材で舗装されてあった。ただ素材を聞くとSAN値が下がりそうな気もするのであまり気にしないことにしよう。先ほどまで夕方だったはずだが、今俺は明るい日光に照らされている。学者が見れば卒倒しそうなほどに珍しそうな植物――中には七色に輝いていたり口がついていたりする植物もいる――がいたるところから顔を出し、上空には規格外のサイズの翼竜が飛んでいた。図鑑なんかで見る恐竜とは全然違うものだが、唯一形容できるものは翼竜というワードだけだ。

 あまりの出来事に情けなく腰を抜かして辺りを見回す俺。この世界に知らないことはほとんどないとさえ思っていたのだが、認識がぬるかったらしい。ほんとに何も分からない。右も左も分からないとはこういうことを指すのかと正直ゾッとしている。

 あまりの絶望的な状況に涙さえ出そうになってくる。雰囲気としては和やかなもので、落ち着いてすらいるのだが、いきなり飛ばされてきた身からすれば不安しかない。幼子の様に声を上げて泣きじゃくりたい気持ちでいっぱいだ。

 そんな風にすべてに困惑して右往左往する俺に向かって声がかけられた。老人の声だったが、快活そうな印象を抱かせる声音だ。

「若人よ。どうされた、心底困り果てたという顔をして」

「あっ、そのえっと…」

 上手く、言葉が出てこない。今までは日本中の目を集めてさえ余裕があったのに、こんな老人一人に緊張するなんて俺失格だぞ。それでも喉の奥がつっかえたように言葉が出てこない。何をしゃべればいいのかわからずただただ頭が真っ白になるのみだ。

 目の前の老人の輪郭すら曖昧になり、吐き出しそうになるのを必死にこらえる。

「…ん?うまく喋れぬか。良い、落ち着くまで待とう」

 老人はただ寡黙に、けれど慈悲深く俺に向かってそう言った。白髪に適度な白髭。それらが繋がって鬣のようになっている獅子のようなお爺さんだった。目つきは鋭く、厳つい。この人に睨みつけられたら俺は一歩も動けないかもしれない。そう思わせるほどの威厳が彼にはあった。

 人間としてではなくある種の動物として忌避してしまうほどの威厳が彼にはある。白髪で老いぼれているようにも思えるが、目つきは爛々と、鷹の様であった。

 しばらく時間が経過する。それでも落ち着かない。むしろこのよく分からない世界にいきなり飛ばされて困惑と恐怖がだんだん増加してくる。今から自分はどうしたらいいのか、自分はどうしてこんなところに来てしまったのか。もっとああすればよかったんじゃないか。不安と後悔、絶望がないまぜになって、視界が白くぼやけようとする。気を抜けば泣き出しそうになってしまうほど心細い気持ちになる。喉の奥が張り付いてもう言葉も出ない。呼吸するので精いっぱいだ。

「若人、とりあえず私に着いてきなさい。そちらのほうが落ち着くだろう」

 そんな俺を見かねてか、助け舟を出すようにお爺さんは俺にそう語りかけた。言葉の一言一言に重みと威厳があるような気がする。抜き身の刀という比喩が一番似合う気がした。

 お爺さんに連れられて歩くこと十分ほど。先ほどの喧騒とは打って変わって静かな木漏れ日が射す優しい印象を受ける道に出た。人通りが全く無いとは言わないが、閑静な場所で幾分か俺の知っている世界に近しい場所。京都とかにこういう場所はありそうな気がする。俺たちのいた世界とは比べ物にならない背丈の丈のような植物が無数に林立している。その高さは十階建てのマンション程度はありそうだ。見たこともない植物や動物などが顔を覗かせるその道を、うしろからついていくようにして歩く。

 そのまましばらく歩くとその木々がなくなり、日の光が再び俺に降り注ぐ。先ほどまで普通に浴びていた光ではあったが、今まで少し薄暗いところにいたせいか少し眩しいように感じられた。

 そうしてお爺さんはある建物の前で止まった。そこは例えるならお寺、だろうか。見たことのない装飾や建築様式が取り入れられているが、大まかな形としてはそんな感じだった。足裏に感じる砂利道の感覚がなんだが非常に懐かしく感じられ、思わず涙がこぼれそうになる。我ながら情けないことだとはわかっているのだが。

「若人、名を何という。名が分からぬでは呼びにくいでな。差し支えなければ」

「俺、は…アキト。向田アキトって言います。すみません、ろくに自己紹介もせずに」

「良い。こうして喋れるようになっただけで重畳だ。特に何かを急く必要も無かろう…とも思ったが、汝はそうもいかぬ様子だな。話せることからで構わぬ。奥で話を聞こう」

 目を伏しながらお爺さんは建物の入り口へと促す。明らかに和風なつくりであるのに、西洋風の木製の扉なのがなんだか不思議な印象だった。促されるままに玄関に歩を進めると、そこには草履のようなものが三つほど並べられていた。そのどれもがボロボロになってはいるが、素人目に見ても大切に扱われているというのが分かる。解れが直してあったり、何かで補強された跡などが見て取れた。大きさは大きいものから小さいものまでまちまち。少なくとも今玄関に入ってきたお爺さんのものではないというのは想像に難くない。

 そしてそれと同時に玄関のドアが開いた音に反応を示すように現れる人影があった。あどけなさの残る顔立ちが印象的な、和装の少女であった。凛と澄んだ瞳は何処までも蒼い。澄み渡る空のように曇りなき瞳は氷のような冷静さと物言わぬ鋭さを秘めているような気がした。

「じいさま。その人は?見慣れない方」

 水晶のような声音だった。音に質感があるのかと問われれば疑問だが、俺は確かにそう思った。鋭さと美しさ、そして透明感を兼ね備えた綺麗な声だった。黒髪の大和撫子のような雰囲気と綺麗にかみ合った印象。思わず彼女という存在に惹かれようとしているのが自分でも意外だった。いや、彼女ほどの存在に相対すればその感情も致し方ないのかもしれないが。

「俺は…アキトって言います。向田アキトです。えっと気が付いたらそこにいて――」

 刹那、動く瞬間すら目に留まらぬ速度で光が瞬いた。僅かな風が頬を撫でると同時に瞬時に体を本能的に引いた俺の喉元には、一筋の紅が奔っている。さして痛みは感じない。痛み程度に慄いているようではスポーツなどままならない。だからそれはいい。

 だがどうだ。今の一撃、間違いなく。俺の喉元には懐刀が添えられている。というか僅かに肌を切り裂いて埋まっている。今の一瞬、一歩引かなければここは地獄絵図だ。彼女は俺の血で真っ赤に染まっているに違いない。

「…っ、なっ」

「…。そう。アキト。アキトは、強くなりたい?」

 今しがた人に突き刺していた懐刀から血を拭い、流麗な手つきで鞘の中に仕舞う。命を狙われたばかりだというのに、その美しく滑らかな動作に見惚れてしまう。彼女の一挙手一投足から目を離せなくなる。何かに魅入られてしまったかのような錯覚に陥ってしまう。

「アキト?」

「は、はい。強くなりたいです」

 いきなり名前呼びとは意外だが、弱者よりは強者の方が俺は好きだ。強くなりたいというよりは弱くありたくない。俺はそう言う人間だ。天才だが、天才ゆえに慎重だ。一度のミスで天才というのは愚か者として扱われてしまうのだから。

 そうした俺の心を知ってか知らずか、少女は俺に背を向けて歩き出す。さっきまでの冷徹な印象とは異なり、ただついて来いという意志だけを感じる。

 フローリングの様に綺麗に整えられた床を踏みながら進んだ先にあったのは道場、だろうか。俺が知っている武具から用途も理解不能な不思議なものまでいたるところに武具が置かれていた。

 その中に俺を案内した少女は芸術的に可愛らしく俺のほうへ向きなおり、言葉を紡ぐ。後ろにキラキラと光るものが見えそうなほど可愛らしい表情。

 楽しくて仕方がないといった表情の彼女は年相応の可憐さを存分に醸し出し、


「アキト。強くなって。私を守れるくらい。そしたら一生養ってあげるから」


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