第5話


 命の果て



       ※


 十月二十六日、金曜日。

 夕方。

 泉が丘高等学校の冬服の制服であるベージュのブレザーに身を包んだ寅町尚琉は、常に薬やアルコールといった独特の匂いが鼻につく病院の廊下に立ち、目の前の扉を開けた。

 集中治療室。

(…………)

 入ってすぐに、部屋はビニール膜で仕切られている。尚琉ではその先に進むことができない。

 ビニール膜の向こう側にはベッドがある。ベッドの上、緑色の病院服を着た男の子が横たわっていた。口には管のようなものが突っ込まれていて、頬は痩せこけ、もう何か月も太陽の光を浴びていない肌の色は、人間のものとは思えないほど青白い。

 ちかちかっとランプを点滅させたり点灯しながら稼働しつづけるたくさんの機器が、男の子が横たわるベッドを取り囲んでいる。そこから伸びているコードが、ベッドの上にいる男の子の命をつないでいた。

 窓には断光のカーテンが引かれている。天井の照明に照らされるベッド脇には、頭まですっぽりと防菌服に身を包んだ一ノ瀬咲がいた。パイプ椅子に座って、もはや瞼を開けることすらない弟の姿、感情の読めない表情でじっと見つめている。

 それは、八月に容態が悪化し、一ノ瀬勇がこの集中治療室に移ってからずっとある光景。

(…………)

 尚琉ではこうして立っていることしかできない。ここに立ち、ビニール膜の向こうで、ビニールシートで覆われたベッドに横たわる勇の姿を見つめることしか。

 ベッドで眠る勇は五月に原因不明の病にかかり、入院している。さらには八月に意識が途絶え、それからはこの集中治療室に横たわるばかり。であれば、生きることを放棄し、何度だって絶望の種を生み出してもおかしくない。

 事実、尚琉はこれまで数えて五度ほど、勇のいる部屋の扉を開ける度に、闇に覆われていった。そうして人の生きる希望を奪う気喰を倒してきたのである。

 けれど、だからといって勇の容態が良好となるわけではない。ベッドの上から動くことができず、重たい瞼を上げることもできず、今もそうして横たわるのみ。

(…………)

 尚琉は思う。思ってしまう。

『これなら、死ねた方がましなんじゃないだろうか?』

 けれど、そう思っていたとしても、口に出すわけにいかない。勇は咲の弟なのだ。ならば、咲の悲しい表情を見たくない。その命のつながりに縋るような目をしているのであれば、途絶えさせるわけにはいかないのだ。

 尚琉は何度だって気喰と戦っていく。咲とともに戦っていく。勇の現状が良好にならないと思いながらも。

 それは、神人として。

 いや、それ以前に、今も目の端に涙を溜める、咲のために。

(…………)

 尚琉は、これからもトリガーを引く。


 尚琉が通っている泉が丘高等学校では、すでに秋の体育祭と文化祭が終了していた。これで今年度残っている学校行事は、三月に行われる球技大会だけである。しかし、卒業式の後に行われるもので、三年生である尚琉が参加する学校行事はもう残されていなかった。

 部活は引退し、学校行事はもう残っていない。三月の卒業式までの間、受験生として勉強漬けの日々を過ごしていく。

 去年の今頃は、例年でいえばサッカー部を引退しなければならない時期だったのを、尚琉たちが延長を申し出て、来年春の大会に向けてグラウンドを走り回っていた頃。当時はそんなこと思わなかったが、今から思えば柄にもなく青春していた。

 今は、三月の卒業式に笑顔で迎えるために、日々勉強に没頭する受験生。登校して、授業を受けて、休み時間に参考書を開いて、教師の急用で自習時間になったときも当たり前のように率先して勉強し、放課後には電車に乗って翼下図書館までやって来て、家に帰って夕飯もそこそこに机に向かい、風呂に入って頭をさっぱりしてから、午前三時まで机に向かう。まさに勉強漬けの毎日。

 けれど、そんな生活に楽しみがあった。図書館が閉館時間になると、尚琉は真っ直ぐに家に帰ることなく、近くにある森北総合病院に寄るようになったのである。そこにいけば、咲に会えるから。

 病院で咲に会うこと、決して手放しで喜んでいい話でないが、今の尚琉にとっては、それこそがクラスの違う咲との唯一のつながりで、何よりもかけがえのないもの。

 この時間は、残り少ない高校生活において、すでになくした青春の残り香なのかもしれない。

 今日も尚琉は森北総合病院を訪れる。もちろん咲に会うために。『神人として、ともに勇を守る』という名目の下。


 すでに辺りは真っ暗となっていた。吹いてくる風が髪の毛を乱暴に撫でるも、冬服の制服を着込んでいるので肌寒さを感じることはない。尚琉は森北総合病院を後にし、最寄りの翼下駅に向かうため、病院の前にある道を西方に歩いていく。その視界には電車の高架が見えていた。たった今、左から右へ明かりが流れていったところ。尚琉は今の電車と同じ方向の電車に乗る予定である。

 左手には大きな翼下公園。右手にはようやく森北総合病院の敷地が途切れたところで、閑静な住宅がつづいている。

 そうして、普段よりも歩幅を狭くして歩いている尚琉の隣には、縛った髪が小さく揺れる一ノ瀬咲の姿があった。

「……ねぇ、尚琉くん、知ってる?」

「うーん……一ノ瀬と心を共有してれば、知ってると言えるけど」

「冗談はやめてほしい……」

 それは『茶化さないでもっとこちらの話を真剣に聞いてほしい』と怒っているのでなく、『これからとても寂しい話をするから、冗談に乗る気がしない』といったニュアンス。咲は隣にいる尚琉の顔ではなく、進行方向を真っ直ぐ見つめながら口を上下に動かしていく。

「あのね、美砂里ちゃんが行方不明になったんだって」

「んっ……!? 美砂里ちゃんが行方不明!?」

 思わず声が上擦った。尚琉は瞬間的に隣人の顔を見つめつつも、寝耳に水とばかり、ぎょっと目を白黒させる。

 紫浦美砂里。尚琉たちと同じ気喰を撃退する定めを負った神人で、五月に勇の病室で知り合った。美砂里はまだ小学六年生でありながらも、尚琉たちよりも早く神人となっていたのである。

 以前は美砂里とともに戦ったこともあったが、最近は顔を見ない。

 それがまさか、行方不明になっていたなんて、寝耳に水。

「な、なんでさ!? なんで美砂里ちゃん、いなくなっちゃったんだよ!?」

「そんなの知るわけないよ。あたしだって家に電話してみたら、そうだって……」

 身代金といった電話があったわけではないので、誘拐といった類ではない。しかし、置き手紙もなく、先週の日曜日からずっと家に帰っていないという。警察に捜索願を出しているのが、まだ何の情報も入ってきていなかった。

「電話のさ、お母さんの声、震えてたんだ。どんなことでもいいから、知ってることがあれば教えてほしいって……」

「なんでこんな!?」

 声に必要のない力が入り、尚琉の全身にはわけも分からない憤りが溢れていく。到底信じられなかった。神隠しではないのだろうが、小学生が行方不明になるなど、テレビや漫画の世界ならともかく、現実世界でそうそう起きるわけがない。仮に家出をしたところで、小学生の足ではたかだが知れている。どう頑張ったところで、二、三日もすれば見つかるはず。

 けれど、美砂里はもう十日以上見つかっていない。肉体的にも経済的な理由からも断じて行動範囲が広くないであろう小学生が、煙のように消えた。そんなこと、普通の小学生であれば考えられないこと。

 しかし、美砂里は普通の小学生ではない。

 美砂里は神人である。

(……ギンナン)

 それは、人知の及ばない化物である気喰と戦うため、尚琉たちを神人へと導いた幼女の名前。それが自然と尚琉の脳裏に過った。

『ギンナンだったら、何か知ってるかもしれない』

 出かかっていた言葉は、しかし、寸前のところで尚琉の口から出ることはなかった。

「そうか、行方不明なんだ……美砂里ちゃん、無事だといいけど」

 ただの相槌のような言葉を返し、尚流は真っ直ぐ前を向いて歩いていく。

(…………)

 尚琉は意識して口を閉じた。これ以上、咲には重荷を与えたくなかったから。

 ただでさえ今年は受験でいつものとは違う年なのに、咲には意識すら戻らない弟のことがある。ましてや神人としていつ戦闘になるかも分からない。本人は気がついていないかもしれないが、最近疲労のために目の下にうっすらと隈がある日がある。まさに今日がその状態にあった。

「美砂里ちゃんは強い子だから、きっと大丈夫だよ」

「だといいんだけど……」

「大丈夫だ。あのさ、俺たちが信じてあげないで、誰が信じてあげるんだ? 美砂里ちゃんなら、きっと大丈夫だよ」

「……そうね」

 とても小さくではあるが、咲の顔に浮かべられた笑み。

「美砂里ちゃんなら、大丈夫だよね。あの子、強いもんね」

「そうそう。その意気だ」

 病院前の道を真っ直ぐ歩いてきて、高架に辿り着いた。左折し、ここからは高架に沿って駅まで歩いていく。

(美砂里ちゃん……)

 尚琉にはいやな予感があった。美砂里はきっと、気喰との戦いにおいて、何かがあったに違いない。

 でなければ、あの謙虚で頑張り屋でいつも誰かのために一所懸命戦っていた美砂里が、親に黙っていなくなるはずがない。

 美砂里の失踪は、高校三年生である尚琉にはまだ見えていない、世界の不気味さの断片に少しだけ触れた気がした。

(…………)

 横を見ると、後ろで縛った髪を揺らしながら咲が歩いている。最近めっきり口数の減った咲。以前にはなかった疲労の色を表情に浮かべるようになり、肌は荒れ、見ていて、とても胸が痛む。咲の置かれている状況を知っているだけに、悲痛は一入である。

(……俺が絶対守ってやるからな)

 誓う。心に誓う。この手で必ず、咲のことを守ってみせる。どんなことあろうとも、尚琉がいつも傍にいて。

(一ノ瀬)

 高架下には居酒屋が数件並んでいる。背広姿をした随分と恰幅のいい男性が、大きく手を叩きながら口を大きく開けて馬鹿笑いをしていた。

「なあ、一ノ瀬、弟の看病も大事だろうけどさ……その……年明けにはもう受験なんだし、もう少し勉強に身を入れた方がいいんじゃないか?」

 最初は図書館で勉強していたが、勇が集中治療室に入ってからというもの、図書館に咲が姿を見せることはなくなった。

「もうちょっと勉強しとかないと」

「……駄目よ」

 とても低い声。

「勉強なんかしてる場合じゃない」

 力の入った声。

「あたしが勇を守るんだから」

 緊迫した声。

「あたし、そうやってお母さんと約束したんだから」

 それは咲がまだ幼い頃。

 咲の母親は体が丈夫でなく、勇を生むとすぐに他界した。当時六歳だった咲は、そんな母親に勇を託されていた。『お姉ちゃん、勇のことお願いね』病弱なまでに青白くなった弱々しい表情で伝えられた言葉が、今でも咲の心の中心に置かれている。

「あたしが守ってあげないといけないから」

「……そうだな。弟だもんな……」

 気圧けおされたわけでないが、あまりに切迫したような咲の喋り方に、尚琉は自分の主張を撤回する。

「変なこと言っちまったな。ごめん……」

 そうして会話が途切れ、また無言のまま足を動かしていく。

(…………)

 尚琉の頭の片隅では、いやなことを考えてしまっている。そんなこと、考えていいものでないのに、けれど、その頭は考えてしまう。

『早く楽にさせてあげたい』

 もう治療の見込みがない勇を楽にさせてあげたい。

 勇の看病のために疲れている咲を楽にさせてあげたい。

(…………)

 そうなることが、すべてをいい方向へと導いていくような気がして。

(…………)

 尚琉に芽生えた思い。それがこれから少しずつ大きくなり、いつしかそれに支配されること、そうして尚琉は大きな過ちを犯すことになる。

 尚琉は歩く。前に向かって歩いていく。そちらが前だと疑うことなく。


       ※


 十一月二十六日、月曜日。

 学校帰り。

 今日は月曜日で、図書館は休み。だから尚琉は、学校帰りに翼下駅で下車する必要はなかった。しかし、尚琉は途中下車している。そうして緑豊かな翼下公園を通って真っ直ぐ森北総合病院を目指していた。

(…………)

 今月の第一日曜日に模試があり、尚琉は第一志望校にA判定を受ける。ここまで受験生として順調に時間を過ごせているという証。

 一方、咲はさんざんたる結果だったという。あろうことか志望校はD判定で、このままでは現役合格は難しく、浪人を覚悟しなければならない。夏の模試ではA判定だったのに、その急激な落ち込みは、最近の様子を見ていると得心いくものがある。

 加えて、咲に問題が起きていた。学校を休みがちになっていたのである。今日も欠席だった。受験生である以上、余計なことに気を回さずに、今は少しでも勉強に集中しなければならないのに、登校すらしない。来週には期末テストだってあるのに。こんなことでは、とても進学など無理に思えた。

(…………)

 だからこその今日である。なんとしても咲を説得しなければならない。弟のことが心配なのは分かっている。だからといって、自分を蔑ろにしていいはずがない。言葉は悪いかもしれないが、助かる見込みのない弟に構っている場合ではなく、今は自分のことに専念すべきである。

 それこそが、咲が選ぶべき正しい道に違いないから。


 さすがに鼻につく病院独特の匂いには慣れた。尚琉は集中治療室の扉を開ける。

 今日も視界にはさまざまな白が残されていて、世界すべてが闇に閉ざされることはなかった。

(……いない……)

 区切られているビニール膜の向こう側にも、この部屋にどこにも咲の姿がなかった。今日も学校を休んでいるのだから、咲がここにいないはずないのに。

(…………)

 視界には、ビニール膜の向こう側にあるベッドの光景。静かに目を閉じている勇。

 ベッド周辺では、ランプを点灯させながら今も稼働する医療器具がある。それにより、勇は今にも消え去りそうな儚い命をつなぎ止めていた。

(…………)

 尚琉はごくりっと息を呑む。その音が結構大きく聞こえたこと、尚流は小さく体を揺らしていく。

(…………)

 今日も咲が学校を休んでいるのは、咲の成績が急激に落ちていったのは、模試の結果がD判定になったのは、すべてベッドの上に横たわる勇がいるから。勇がいるから、咲が駄目になっていく。

 だったら、勇さえいなければ、咲はいつもの咲のままでいられるはず。

 勇がいるばかりに、咲は疲れた表情を浮かべることしかできない。

 だとすると、咲のためには、勇が邪魔でしかない。

(…………)

 ぴっ……ぴっ……ぴっ……電子を発しながら稼働する医療装置。それらがなければ今の勇はない。勇の命は機械によってつなぎ止められている。

 もし、勇がいなくなれば、咲は自分を取り戻すことができるはず。

 もし、勇が死んでしまえば、咲は勇という呪縛から解放される。

(…………)

 勇は機械によって命をつなげている。

 機械が止まれば、勇の命をつなげるものはなくなる。

 死。

(…………)

 気がつくと、尚琉はビニール膜を越えていた。今まで一歩も踏み入れたことのない領域に立つ。

 毎日除菌されている防菌仕様のビニールシートに囲まれたベッド。ここには病院関係者以外、家族しか踏み入ることが許されていない。それも抵抗力が弱まった勇のために、近づく人間は必ず防菌服に身を包まなければならないのだが……尚琉は学校の制服のままそこに立っている。すぐ目の前にベッド。無残とまで言い表せるほどに頬が痩せこけた、とても生きているとは思えない白くなった勇の顔。呼吸しているのかさえ怪しく感じるほどだった。

 ベッドの周囲には、今も稼働するたくさんの医療機器

(…………)

 尚琉の視界、医療器具の緑色の点灯している横、スイッチがあった。

 当たり前の話かもしれないが、機器が稼働している以上、スイッチはON側に倒れている。とすれば、反対側に倒せば、当然OFFになる。それにより、機器は稼働しなくなる。細い糸のようにかろうじてつなぎ止められているものが、あっさり切れることに。

 それは考えてのことではなく、自然と尚琉の手がそちらに向かっていた。

(…………)

 かちっ。音は大きく尚琉の耳に残る。

 視界には、スイッチが今までと反対方向に倒れていた。

 OFF。

 今まで緑色だった光が、そのスイッチングに連動するように赤色となる。

(…………)

 不可思議な感覚があった。尚琉は今、とても静かな空間に身を宿しているような……足元は覚束なくなり、まるでぐにゃぐにゃの泥の上に立っているみたい。そこでは音もなく、光もなく、何もかもなくなった世界に身を置き、ただ時が満ちていくのを待っているみたい……。

(……っ)

 次の瞬間、他の機器が異常を示すシグナルを響かせた。空間にやけにうるさいブザー音を満たし、一斉に赤いランプが増えていく。

(ぃ!)

 はっとした。背中に氷でも入れられたみたいに、全身がびくっと震えた。咄嗟に尚琉はスイッチをONに戻すも、そんなことで空間を押し潰すように発生した異常音がなくなることはない。

 びーっ! びーっ! びーっ! びーっ!

(わわわわわわわわわっ!)

 混乱。混乱する心が混乱していく。してはいけないことをした。おかしい。おかしい。こんなはずではない。正しいと思ってやったことが、世界を異常なものに変えてしまった。

(あぁ! あああああああぁ!)

 耐えられない。こんな異常事態を前に、耐えられるわけがない。いかれた精神状態では、もはやこの場所には立っていることもままならない。

 身を翻す。尚琉は逃げ出した。尚琉がベッド周辺にある機器を異常にしたのに、放置したままに背を向ける。指も手も腕も膝も胸も腹も首も唇も、全身のありとあらゆる箇所がわなわなわなわなっと震え、じっとしていられる症状でない。

(ああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!)

 駆けだした。ビニール膜を引きちぎるかのように薙ぎ払って、閉ざされた扉を乱暴に力いっぱい引き開けていく。ここが病院の廊下だという認識を持つことすらできず、激しく足音を響かせて全力で通路を突き進み、黄緑色の非常口のランプが点灯する階段へと逃げ込んでいく。

(ああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!)

 止まらない。止められるものではない。まるで背後から恐ろしい悪魔に追われているような恐怖心が全身を蝕んでいく。こんな状態ではとても体を休めることなどできるはずなく、全力疾走のままに階段を駆け上がっていく。

(ああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!)

 上がる上がる上がる上がる。もう後ろを見る余裕はない。ただ今は迫りくる恐怖から逃れるように、階段を駆け上がっていって階段を駆け上がっていって階段を駆け上がっていって階段を駆け上がっていって、突き当たりの扉に全身から突っ込んでいくように、押し開けた。

(あああ、あああ、ああ、ああ)

 風が強かった。顔面から噴き出した汗が一気に冷却される。そこにある空は真っ青なもの。その色がどこまでも広がっていた。

(あああ、あああ、ああ……)

 屋上には物干し竿があるが、今は使用されていない。休憩するためのベンチもあるが、誰の姿もない。

 立ち尽くす尚琉。体の震えを止めることができない。ここが屋上である以上、ここから先、逃げる場所がなくなったにもかかわらず、けれど、まだまだ全身の震えが止まることはない。とてもこんな状態では自らの足で立つことすらままならずに、まるで大きな穴に落ちていくように、膝から崩れていってしまう。

 わなわなわなわなわなわなわなわなわなわなわなわなっ!

(あああ、あああ……)

 荒い息。汗腺の機能が暴走しているのではないかと疑いたくなるほど、溢れ出る汗が止まらない。次々とコンクリートの地面を濡らしていく。灼熱のような全身の激しい熱は、心臓の鼓動を爆発させるもの。

 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくっ!

「……俺……」

 取り返しのつかないことをしてしまった。

「俺」

 この社会に生きる人間として、絶対にやってはいけないことを。

 殺人。

「俺は」

 殺そうとした。あろうことか勇を殺そうとしたのだ。落ち着いて考えればあんなことしていいはずないのに、あの時はもうそうすることが間違った世界を正常へ誘うものだと確信し、その手で勇を殺そうとした。

「……俺……」

 そんなはずない。そんなはずがない。勇を殺して、世界が正しいものになるはずがない。どうかしている。どうかしているとしか思えない。おかしい。尚琉自身がおかしくなっている。

(……ぇ!?)

 全身が強く圧迫されるような痛みが駆け抜けた。刹那、心が凍てつくほど強烈な悪寒を感じる。それは冷たさというよりも、激しい痛みとしか感じられない。けれど、断じて外気の問題ではなかった。

 存在そのものを外側からも内側からも押し潰さんばかりの強烈な圧迫感は、尚琉の五感が得たものでなく、

(下ぁ!?)

 存在そのものが感知した気喰の気配。それも今回のはこれまでにない強大なもの。

(…………)

 尚琉は神人である以上、人類として唯一気喰を討伐できる存在である。その使命のためにも、気喰の元へと駆けていくところだが……しかし、足が動かない。その震える体は、足を踏み出すことを躊躇する。

(…………)

 尚琉の心からは、勇を殺そうとした巨大な罪意識が消えることはない。それが今も心臓の脈打つ周期を狂わせていた。

 こんな状態にあるなら、気喰と対峙したとしても、立ち向かえないかもしれない。それほどまでに精神状態があまりにも乱れている。

(…………)

 下から感じる気喰の気配。それはきっと今も勇の絶望の種に寄生し、育てていることだろう。そしてその完了が、そのまま勇の死を意味する。

 勇の死。

(…………)

 罪意識、それは尚琉が勇を殺そうとしたから。けれど、それと同じことを気喰が行おうとしている。であれば、踏み出そうとした足は止まる。躊躇。果して、これまでのように急いで駆けつける必要性があるだろうか!?

 勇のこと、気喰がせっかく殺してくれるのに。

(…………)

 尚琉は今日まで咲のために気喰と戦ってきた。けれど、今は違う考え方を抱いている。気喰として戦わないこと、それこそが咲のためになるのではないか!?

 であれば、気喰を倒す必要などない。

 勇の死を待つことが、尚琉のすべきことだから。

(…………)

 全身を蝕むような気喰の気配をその身に、尚琉は屋上から動くことがない。

 足元からは、多くの虫が這いずっているみたいに、凄まじい気喰の感覚が次々とその身にまとわりつく。

 けれど、尚琉は動かない。

 動くことがない。

(…………)

 全身が麻痺せんばかりに冷淡な時間が過ぎていく。そうして立ち尽くしているだけなのに、尚琉の横を時間はそのスピードを緩めることなく、通り過ぎていく。その瞬間に、さまざまなことが起きていようとも、屋上にいる尚琉にはどうすることもできない。

 ただそうして立ち尽くす。

 なぜだかその胸にはぽっかりと大きく穴が空いたように、巨大な喪失感が芽生えていた。

 耳にかかる髪を、風が小さく揺らしていく。

「……一ノ瀬」

 口から零れた言葉。思考ですら真っ白だったにもかかわらず、意識ではない思いが口から零れた。

「……一ノ瀬、を」

 咲を不幸になんかさせるわけにはいかない。

 尚琉が神人として戦ってきた理由、それは咲のため。弟を守りつづける咲のために、尚琉は神人として戦ってきた。

 そう、理由は咲のためであり、勇を守りつづけるため。

 咲の笑顔の源である、勇を守るために。

「くそったれぇ!」

 気がつくと、渾身の力を込めて地面を蹴っていた。すぐさま階段を駆け下りていく。周りなんてろくに見えていない。これまでの葛藤なんて関係なく、そこにあるのは咲に対する思いのみ。

(守らなきゃ!)

 駆ける駆ける駆ける駆ける。

(一ノ瀬の幸せを守らなきゃ!)

 屋上からあっという間に二階に到着。すぐ看護師と擦れ違った。『廊下を走らないで』そう小学生のように注意されたが、そんなもの聞き入れている場合ではない。駆けていく駆けていく。辿り着く場所へと駆けていく。

「はぁはぁはぁはぁ」

 集中治療室の前、扉、迷うことはない、押し開ける。

「っ!?」

 一瞬にして、世界は暗黒の闇に閉ざされた。

 闇。闇。闇。闇。

 上も下も前も後ろも右も左も、世界のあらゆる方角が吸い込まれそうな深い闇によって塗りたくられる。

「一ノ瀬ぇ!」

 咲が倒れていた。尚琉のすぐ前、全身を覆う真っ白な神衣に身を包んだ咲が、横たわっている。俯けの状態で、力なく、ぐったりと。

「おい!? 一ノ瀬!? しっかりしろ!? 一ノ瀬ってばぁ!?」

 抱える咲の顔面は、多くの血で染まっていた。もちろん全身を覆う白い神衣も同様な状態。

「一ノ瀬ぇ!?」

「……お、遅いよ、尚琉くん……」

 僅かに開かれた瞳。今にも周囲の闇に吸収されそうなほど、発せられる声がとてつもなく弱々しい。

「気をつけて……あいつ、強い、から……」

「ああ! 任せろ! 任せろよぉ!」

 心からの叫び。

「俺に任しとけよぉ!」

 現状を前にして……悔しさやら、情けなさやら、怒りやら、憤りやら、尚琉にはもう爆発寸前の感情が次々と湧いてきて、大粒の涙が瞳から溢れて頬に伝っていく。

 存在のあらゆる箇所に力を込めた。

「大丈夫だからな! 絶対だ! 絶対俺が守ってみせるから!」

 咲のことを。

 勇のことを。

 必ず守ってみせる。

「守ってやるから!」

「うん……」

「くそっ」

 静かに閉じられた咲の瞼。顔面同様に真っ白神衣も血に染まっているものの、神人であれば時間の経過とともにエナジーが傷を癒してくれる。

 尚琉はそっと咲を寝かせて、改めて自身の中心に力を込めて、立ち上がった。

 前方を睨みつけていく。そうして真っ赤に燃え上がる気喰と対峙する。

「許さないからなぁ!」

 もちろん迷うことなんてない。尚琉は右手に握るトリガーを引いた。

 歪曲。

 瞬間的に尚琉は全身を覆う真っ白な神衣に包まれていく。

「くそがぁ!」

 闇へ向けたその叫びは、前にいる気喰を卑しめているものなのか、はたまた、情けない自身への罵りを意味するものなのか……体ごと体当たりをしていくように、尚琉は全力で駆けていく。

 全長が五メートルほどある、巨大な球体に向かって、全身でぶつかっていく。

「……ぐぇ!?」

 刹那、尚琉の突進が停止した。まだ球体には十メートル以上距離があるのに、尚琉の意思に反して、それ以上体を前に動かすことができない。

 気喰は、水晶のような球体がそのまま巨大化したような形で、浮いていた。それもふわふわっ浮いているわけでなく、がちっと空間に固定されているように。球体からはぼとぼとっと炎のかけらを落としていた。

 しかし、今は違う。球体だった気喰から、パイプのように細い部分が突き出した。そのパイプの先端が、尚琉の神衣を突き抜けて胸を貫いている。

 血が噴き出し、真っ白な神衣は真紅のそれへと変色していく。

「ぅ……」

 尚琉の体から力が抜けていくも、気喰から伸びる突起に突き刺さっているので地面に崩れることもできない。爪先が僅かについているかどうかという、宙ぶらりんの串刺し状態。

(こい、つぅ!)

 握った。自身を貫いている気喰の一部を右手で握る。その手にも貫かれている胸にも、燃えるような激しい熱がある。その焼かれる激痛は、通常の状態なら耐えることなく、意識を刈り取られていったに違いない。

 しかし、尚琉は激痛に耐え、意識を保って気喰に触れた。

 力を込める。

 気喰は鋼鉄のように物凄く強固なものだが、尚琉が握った部分は、飴が熱を持ったみたいに、ぐにゃりっと曲がった。その曲がりが連動して棒状になっている気喰を歪め、ついには本体までもが球体から歪な形となる。

 それは丸い粘土に渾身の力を込めて殴りつけたみたいに、中心部分が激しく凹み、気喰全体が縦に潰れた。

「へへっ……まだまだ」

 自身に刺さっていた気喰を引き抜く。呼吸が停止するほどの激痛が全身を駆け抜けるが、歯を食いしばって耐えせる。尚琉は引き抜いたそれを気喰へ向けて投げつけると同時に、右腕を前に突き出した。

 すると、気喰の一部だったものが凄まじいスピードで本体に突っ込んでいき、貫通。

「まだだ」

 胸から迸る痛みを通り越した高熱に顔面を歪めながらも、尚琉は駆ける。駆ける駆ける駆ける駆ける。そうして潰れた気喰に両手を触れた。

「いっけえええぇ!」

 感情を爆発させるように、渾身の力を込めた。と、次の瞬間、楕円のように潰れていた気喰は、さらにぐにゃりっと曲がり、アルファベットの『S』のように歪む。

「へへへっ……どんな、もんだよ……」

 瞬時にして、気喰が崩壊していく。みしみしっ! と激しく音を立てながら、『S』の状態に無数の亀裂が入っていき、ぼろぼろっと剥がれるように小さなかけらとなって落ちていく。少しずつ少しずつ、気喰は小さな破片となって。

「へへへっ……」

 気喰を倒したものの、受けたダメージは尋常のものでない。どうにか意識を保っていられること、通常の精神力を超越していた。それほどまでに、今の尚琉は人間ではなく、神人として覚醒しつつあるのかもしれない。

 けれど、ダメージは否めない。すぐにでも閉じそうな、とても重たい瞼。それを懸命に上げながら、小さく崩れていく気喰を目に映す尚琉。

 刹那に衝撃!

「……ぐはぁ!」

 驚愕。

「なぁ!?」

 刹那には、その重たかった瞼が勢いよく見開かれた。

「ばああっ!?」

 尚琉の口から大量の血飛沫が溢れる。

 その胸は、またしても貫かれた。今も崩壊をつづけてどんどん小さなかけらとなっていく気喰が、再びパイプほどの突起を放ち、尚琉の胸を貫いたのだ。

 それも今回は一本ではなく、次々と。

 胸に。腹に。右腕に。左股に。肩に。首に。手に。二の腕に。気喰から放たれたいくつもの突起が、容赦なく尚琉の全身を貫いていく。包んでいる神衣ごとその身を蜂の巣にするかのように。

「…………」

 身が切り刻まれていくような襲いくる痛みは、しかし、あまりにも全身を狂わせるもので、すでに痛覚が薄らいでいる。

 視界に霧がかかるように、ぼんやりしてきた。このままではすぐにでも意識がなくなるだろう。

 まだ目の前に、気喰がいるというのに。

 あらゆる感覚が得られない。

 力が失われていく。

「…………」

 四方八方からの串刺し状態となり、動くこともままならない。

 今は瞼を開けていることすら困難。

 どくどくどくどくっ、と全身から溢れ出る血が、神衣をその色に染めていく。今はもう純白の七割がたが鮮血の色に染まっていた。

「…………」

 片目はすでに視覚を失っている。残された右目は、まだ目の前にいる真っ赤な炎の気喰を捉えていて……しかし、その視界に、これまでになかった異物が混入する。

 かけらとなって今も崩壊が止まらない気喰の『S』に、氷の刃が突き刺さったのだ。一本、二本、三本、四本、五本、六本、七本、八本、九本、十本、十一本、十二本。まだまだ刃は増えていく。

 まるで雨のように天より降り注いだ氷の刃は、すべて気喰に突き刺さり、それが存在の崩壊を加速させる。

「なん、だ……」

「やらせないんだからぁ!」

 叫び声。それは尚琉の背後から。

「勇はあたしが守るんだから!」

「…………」

 さきほどは起き上がることもできなかった咲だが、自らのエナジーにより、傷を回復したに違いない。

 尚琉は安堵する。咲が無事であることが、なによりも嬉しくて堪らない。口元を緩めて、残された細い糸のような意識を握りながら、突き刺さる気喰の突起に触れた。力を込めて、それらを全身から引き抜いていく。と同時に、力なくその場に崩れていった。

(…………)

 尚琉の前、今も氷の刃が降り注いでいる。その度に、気喰の巨体がばらばらっに散っていく。

 もう気喰には反撃するだけの力が残されていないみたいで、どんな反応もみせることなく、ただ破片となって砕けていく。

(……ぇ)

 尚琉の目の前、次々にかけらとなって崩れていく気喰だったが……まだかろうじて形を保っている。に対して、さきほどまで暴雨のように降り注いでいた氷の刃がなくなっていた。

 ただ今は、ゆっくりと気喰が朽ちていく。

(……一ノ瀬?)

 まだ気喰は生きているのに、なぜ咲が攻撃を止めたのか? 振り返った尚琉の視界、そこには咲が立っている。しかし、今の今までそこに立っていた咲が、力なくその場に倒れていく。

 それはこれまでに尚琉が見たことのない、とても奇妙な倒れ方だった。力尽きてしゃがむように膝から順番に崩れていくといった感じでなく、支えを失った棒がそのまま真っ直ぐ倒れていくような、吊られていた糸が切れて重力のままに落ちるかのごとく、咲は実に無造作に倒れていったのである。

 そうしてうつ伏せの状態のまま、動くことすらない。

(…………)

 なぜ突然咲がああして倒れていったのか? 尚琉には理解できない。あと少しで気喰を倒すことができるのに?

 今は巨大な疑問符を頭上に、ダメージ回復に専念するしかない尚琉。

【尚琉、あなたが気喰にとどめをさしてください】

 声がした。見ていると、尚琉のすぐ横、銀色の女の子が立っていたのである。いつの間に現れたのか、声をかけられるまで気づかなかった。

【逃げられる前に、早くしてください】

「あ、ああ……」

 全身が四方八方から串刺し状態だったが、エナジー消費の影響で、傷はだいぶ癒えた。両腕を伸ばし、今も崩壊する巨体に触れる。力を入れると、一瞬にしてそれが霧状となり、空間に浮遊することに。あとはトリガーで回収するだけ。

 撃破。

「や、やったぞ……」

 この勝利、まさしく『満身創痍』という言葉がぴったりだった。こんなに追い込まれた戦い、これまで経験したことがなく、尚琉は軋むように痛み走る全身を引きずるようにして、倒れている咲の元へ。

「おーい、一ノ瀬……やったぞ。あの丸いの、倒したぞ」

 強敵だった。今まで戦ってきたどの気喰よりも強大な力を持ち、今回はたまたま寸前のところで勝利できたが、次同じ相手と戦っても勝てる気はしなかった。

 ただ、経緯はどうあれ、結果としてはそんな強敵の気喰を撃破。これまで以上の喜びを含ませた声をかけるも……しかし、咲はぴくりっとも動かない。そればかりか、いつの間にか咲を包む神衣がなくなっていて、今は私服のパーカーにロングスカート姿で、そこに力なく横たわっている。

「おい、一ノ瀬……一ノ瀬?」

 しゃがんで体を揺らしてみたが、相変わらず咲に反応はない。

「ど、どうしたんだよ? 一ノ瀬ってば。おい、一ノ瀬」

 これまでよりも力を入れて大きく揺らした。体がごろんっと寝返りを打つように回転する。

「ぃ!?」

 瞬間、尚琉は全身を凍りつけるような驚愕に苛まれた。

 転がってこちらを向いた咲は、瞼を見開いた状態で硬直。どれだけ時間が経っても瞼が下りることなく、体は指一本として動くことなく、ぐったりと横たわっている。

 それはまさに、死んでいるかのごとく。

「おい……おい!? 一ノ瀬!?」

 返事はない。反応はない。ただそこでぐったりと横たわっている。

「一ノ瀬ってばぁ!?」

【あなたは何をしているのですか?】

 いつの間に近寄ってきたのか、それは尚琉のすぐ横に立つギンナン。

【あなたが今やろうとしていることは、それに声をかけているのですから、相手からの反応を待つということでしょうか? だとすれば、実に意味のない無駄なことでしかありません】

 それはさも当たり前のことのように、口にする。

【無駄なことはしない方がいいです。あなたがいくら声をかけたところで、それからの反応はありませんから。なぜなら、もう死んでいるのです、それ】

「死んでいる……!?」

 告げられる衝撃は、とても容易に受け入れられるものでない。咲はさっきまで気喰と戦っていた。連続する氷の刃で気喰を追い詰めて……それが死んでいるなどと、あるはずがない。

 しかし、ろくに身動きもすることはなく、瞬きすらせずに、大きく目を見開いて倒れている咲の姿は、とても生きているように見えなかった。これでは告げられた言葉を強く否定することができない。

「い、一ノ瀬が死んでるって……なんでさ!? なんで一ノ瀬が死ななきゃいけないんだよ!?」

 傷はエナジーで回復し、倒れる最後の最後まで気喰を攻撃していたのに!?

【簡単なことです、咲のトリガーを見てください】

 咲が握っているアルファベットの『P』のようなトリガー。それは赤色が一切見当たらず、真っ白なものと化していた。

【一目瞭然です。もうエナジーが残されていません】

 人知を超えた神人の力の源としてあるエナジー、それは温度計のようにトリガーに赤い線を伸ばして示されるもの。しかし、今の咲のものには確認することができなかった。

【今の戦い、尚琉でさえ半分近く消費しています。だとすれば、咲にエナジーが残されているわけありません】

 ギンナンは背中の翼を羽ばたかせ、ゆっくりと浮上する。

【ボクはちゃんと伝えました、咲はエナジーの燃費が悪いから、神人には不向きですと。それでも咲は神人であることを願ったのですから、この結末は、自業自得としか言い様がありませんね】

「な、なんでだ!? 一ノ瀬がエナジーを使い果たしたからって、なんで死ななきゃいけないんだよ!?」

 現状は、とても納得できるものでない。エナジーは神人の力に変換されるエネルギーであると教えられた。エナジーが尽きれば、神人の力が使えなくなると。

 だからといって、なぜエナジーが尽きたとき、咲が死ななければならないのか!?

【説明した通り、神人の力は使えなくなっています】

 死んでいるのだから、神人の力を使うどころの騒ぎでないが、言葉の意味合いが外れているわけではない。

【エナジーが尽きれば神人が死ぬ、そんなこと、当たり前のことです】

「なんでさ!?」

 そんなの納得いかない。いくわけがない。

「神人の力が使えなくなって、気喰を前にして無防備になるのは分かるけど、だからって、なんでそんなことで一ノ瀬が死ななきゃいけないだよ!?」

【考えるまでもなく、実に簡単なことです】

 ギンナンの体がゆっくりと浮上していく。そして、咲を抱えている尚琉の視線の高さで停止。

【エナジーが、あなたたちの寿命だからです】

 エナジー。寿命。命がある長さ。

 寿命が尽きれば、その命は死を迎える。そんなの、当たり前のこと。

【なぜあなたたちが、あの気喰と戦えたと思いますか? そんなの、命を燃やして気喰と戦うことのできる神人の力を得たからに決まっています】

 エナジーの消費による神人の力、それは人間が寿命を削り取って得られた気喰に対抗できる唯一の力。

【命であるなら、それがどういったものであれ、生まれ落ちた瞬間に寿命というものが決められています】

 この世に生きていられる時間、それは生まれた瞬間にすでに決定している。

【だからこそ、神人には向き不向きというものが存在するのです】

 神人の力はエナジーの変換によって得られるもの。つまり、寿命を対価にして得られる力。だとすれば、それを使うことのできる量は、個々によって違う。寿命という限りある時間は、個体すべてに均等に与えられるものではない。

【咲の母親は体が弱く、若くして死んだことはご存知ですか?】

 咲の母親は、勇を誕生させるとともに他界した。

【では、その母親の病弱さが、果して、あとから生まれてきた弟にだけ遺伝するものでしょうか?】

 勇は今も原因不明の病に犯され、床に臥せっている。その状態にあるのが母親からの遺伝によるものだとすれば、その姉である咲にだって、その形態や精神が伝わるはず。

【咲はね、今から五年後の、二十三歳のときまでしか生きられない生き物だったのです。だからこそエナジーの燃費があれほどまでに悪かった】

 エナジーは個体の寿命である以上、それが短ければ短いほど、すぐに使い果たすこととなり、その果てはもちろん死に至る。

 トリガーにある赤い線は、残りの寿命を示しているもので、咲のだけ減り方が極端だったのは、元々与えられた寿命が短かったからこそ、消費する割合が大きくなっていたに過ぎない。

 例えるなら、同じ千円を支払うのにも、財産が一万円しかない人間と、一億円ある人間とで支払う千円に対する価値観が違うように。

【さあ、そろそろ闇が晴れますよ】

 ギンナンはその場に風を起こすかのように、両腕を広げて一周する。

【あなたはこれからも気喰と戦っていかなければなりません、しっかりこの場のエナジーを回収してください】

「……したのか」

【はい……?】

「騙してたのか!?」

 尚琉の追求。

 心からの叫び。

 それが怒りによるものなのか……尚琉の全身は小刻みに震える。

「お前は俺たちのこと、ずっと騙してきたっていうのかよ!?」

【はてさて、ボクは今、おかしなことを言われています?】

 小首を傾げるギンナン。しかし、その表情に変化はない。いつものように円らな瞳。

【あなたたちが神人になる前に、ちゃんと確認しました】

『その命に代えても、神人の力を得たいと願いますか』

【咲がそうなってしまったのは、ちゃんと覚悟してのことですよ。勇を守るため、その命を犠牲にする覚悟があったからこそ、神人になることを選びました。この結果は、致し方がないことです】

 そう言葉を残し、ギンナンは世界を覆う闇に溶けるように消えていった。

 それにより、尚琉が今にいるこの闇に残されたもの、それは気喰の残り香である赤い霧のみ。それが今、尚琉が握っているトリガーに吸収されていく。これまでであれば、尚琉と咲のトリガーに回収されていったが、今回の尚琉のだけで、咲のトリガーに赤い線が復活することはなかった。

「……なんだってんだよぉ!」

 握りしめた拳。それで力いっぱい地面を叩きつける。

 その瞬間、世界は暗黒の闇から救い出され、それぞれの色を取り戻していく。

 尚琉の胸には、もう二度と目を覚ますことのない咲がいる。

 寿命を使い果たした、一ノ瀬咲。


       ※


 一ノ瀬咲が死んだ。

 突然の訃報に、尚琉の通う泉が丘高等学校は悲しみに暮れる。咲と同じクラスの三年A組や、サッカー部のみんなが通夜と葬儀に参列。多くの花に囲まれてにこやかに微笑む咲の遺影に、多くの涙が溢れていた。これから先、何百年かけてもその悲しみが癒えるものでないと思えるほどに。

 しかし、悲しみは時間ととも色を薄めていく……一週間もすればみんなの心から消えていった。世界は死で溢れているのだ、いつまでもそんなところで止まっているわけにはいかない。みんなは日常を取り戻し、あるべき高校生としての日々に戻っていく。特に三年生は年末ということで受験が佳境のため、勉強に没頭しなければならない。

 そんななか、いつまでも先に進めないのが尚琉である。あのような形で咲を失い、視線を落とし、もはや塞ぎ込むしかない。

 第一発見者として警察に事情聴取を受けるも、どうとも答えることができない。まさか自分たちが人類のために化物と戦っているなどと、言えるはずがない。

 エナジーによって傷はすべて回復していたために外傷が一切存在しなかった。そのため、その死は急性的な心不全ということで処理された。

 しかし、咲の死が心不全なんかでないこと、世界中で尚琉だけが知っている。ただ、込み上げてくる怒りの矛先をどこにぶつければいいのか分からない。気喰に向けるべきものなのか!? ろくな説明もなく神人にしたギンナンにぶつけるべきものなのか!?

 咲を失い、尚琉は悶々とした日々を送る。順調だった勉強にも手がつけられなくなり、夜もろくに眠れなくなった。それは年明けに受験を控えた受験生として、最悪といっていいほどのコンディション。

 尚琉はいつも頭に咲の笑みを浮かべ、ろくに気持ちを伝えることができなかった咲を思う。そうしてただ時間だけが過ぎていく。学校の教室、グラウンド、図書館、勇のいる病室、どこを見ても、咲の姿はない。

 ないないないない。咲がどこにもいなくなった。なのに、尚琉の目はどこか咲のことを見つけようと彷徨うばかり。

 そういった極めて不安定な精神状態のまま年が明け、高校生活も三学期を残すのみ。

 そんな頃、尚琉は行方不明となっていた女の子と再会した。そして、神人に関する衝撃的な事実を突きつけられることとなる。

 尚琉は拳を握りしめた。自分たちをこうした運命に導いた根底の存在を知り、怒りを露に、そちらに立ち向かっていくことを決意する。敵はとてつもなく強大。しかし、尚琉はその絶対的なものに抗うことを決めた。もうこれ以上、自分と同じ境遇の人間を生み出さないために。

 そうして尚琉は、運命の一月二十一日を迎える。

 寅町尚琉という神人が、その定めに抗うその瞬間を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る