第26話 車道を走れと言われても、具体的にどのへん走るんだ?

「風が気持ちいいでござるな。アキラ殿」

 ユイが道路を走る。それも、一番左の車線の、右寄り。ほぼ道路のド真ん中だ。

「なあ、ユイ。そこは走っていいところなのかよ?」

 つつましく路側帯ギリギリを走るアキラが、少し不安げにユイに尋ねた。

「もちろんいいのでござるよ。道路交通法でも認められているでござる」

「え?そうなの?」

 アキラにとっては、少し衝撃的である。

 ほんの10年前まで、自転車は歩道を走行するという当たり前の認識があった。その頃アキラはまだ10歳だったわけだが、大人たちから『車道に出てはいけません』と習った世代である。

 それが、いつしか原則として車道を走るように指示されるようになる。しかし具体的にどのあたりを走るのかについては説明を受けていなかった。

「なあ、本当にド真ん中を走っていいのかよ」

「うむ。道路交通法上、自転車は最も左側の車線のみを走行する事が義務付けられているのでござる。ただ、それ以外の文言は無いゆえ、左側車線であればどこを走っても自由とみなされるのでござるよ」

「ふーん」

 それならば、アキラもユイに倣って車線中央を走る。

「確かに、車道の端っこって危ないよな。砂利がたくさん溜まっているから、滑りやすいし、パンクも起こしやすいし」

 アキラが言うと、ユイも大仰に頷いた。どこか満足そうでもあり、楽しそうでもある。

「それに、グレーチングが多いのも特徴でござるな。極めつけは、自動車が作り出す『わだち』でござる。アスファルトが柔らかいせいだと言い出すドライバーもいるのでござるが……」

「まあ、何トンもの重量で走っていたら、そりゃ地面だって歪むよな」

「うむ。本当に迷惑な乗り物でござる。空気は汚すわ、音は五月蠅いわ、挙句に車道を自分たちのものだと勘違いしているわ、ろくな者ではござらぬよ」

 ユイが言う事は、アキラがこの3か月ほど自転車に乗っていて納得できる内容だった。たった3か月でもそう思うのだから、何年も乗り続けたユイがため込んできたものは、もっともっと重いだろう。

 もちろん、自動車だって限界まで軽量化に挑み、燃費や抵抗を軽減しているのだが……分かり合えない部分である。

「じゃあ、安全運転のため、道路のド真ん中を走るか」

「それがいいでござる。アキラ殿、飛ばそうぞ」

 こんなことが法律上許されているなんて、考えてみれば素敵な事だ。ユイが両手を広げて、鳥のように羽ばたいて見せる。アキラも両手を離すことは出来ないが、何となく全身で風を感じていた。




「そんなこと、許されるわけないでしょう」

 道路のド真ん中を走っていいかと訊いたケンゴに、ルリがハッキリと言った。

「いや、ルリちゃん。でもこれって車両扱いなんでしょ?それに原チャリ並みにスピードが出るから、大丈夫だって」

 ケンゴが言う。スポーツバイクを持った人なら誰しも、それを堂々と走らせたい気持ちはあるだろう。しかし、

「ケンゴさん。道路交通法では、キープレフトが原則です」

「え?それって原チャリだけじゃないの?」

「いいえ。そう考えている人も多いですが、本来は自動車や自転車にも適応される法律ですよ。トロリーバスだけを例外とするよう、明記されています」

 自転車が車道を走行するように法改正された際、こうした文言が『抜け落ちた』ところは意外と多い。これが、法律をさらに複雑にしてしまう。

 もっともこれに至っては自転車より、自動車の方が違反していることが多い。車線中央を我が物顔で走るのは、いつだって大きな自動車だ。

 ちなみに、キープレフトとは、車線内のなるべく左側に寄せて走れという指示である。あくまで原則なので、例外的に安全を優先するべく右に寄ることは認められている。知っている人は多いと思うが、念のため。

「えっと、でも俺たちは免許が必要なわけでもないんだから……」

「いいえ。自転車は自動車より安全に配慮しなくてはいけない乗り物です。私たちにとって、接触は命の危険を意味します。彼らのようにフロントバンパー1枚で助かる話ではありません」

 何かを言い返そうとしたケンゴだが、ルリの無言の迫力に押される。やや背の低めな自分よりも、さらに小柄な少女。その小さく華奢な身体から、どうしてこんなに威圧感を放てるのだろう。

「……はい。キープレフト、します」

 ケンゴがそう言うと、ルリはその威圧感を瞬き一つで消した。別に表情が変わったわけでもないが、どこか穏やかな空気を身にまとった彼女は、自らの愛車に跨る。


「それでは、さっそく公道で練習してみましょう。漕ぎだし方は、先ほど教えた通りです」

 口頭で教わった通り、ケンゴは自転車を漕ぎだす。

 このピストバイクには、ママチャリやロードバイクと違い、固定ハブと呼ばれるハブが付いている。一部のにわかピスト乗りは「いや、固定コグだ」と言うかもしれないが、それはまた別の部品だ。

 この部品があるせいで、ペダルと車輪は完全に連動する。つまり、ペダルを止めたまま車体を前に押すことができない。片足をペダルに乗せたまま、もう片方の足で地面を蹴るテクニック――いわゆる『ケンケン乗り』が出来ないのだ。

「うっ……おおりゃああ!」

 しかも、ピストのギア比は重いことが多い。ケンゴの使っているコッチペダーレは……

「……あ、あれ?」

 意外と軽かった。ギアさえママチャリ並みに設計されている。

(フロント44Tで、リアが18Tですからね。そこまで気張らなくても漕ぎ出せるということでしょうか?)

 ルリにとっても計算外の事態だった。とはいえ、初心者にとっては良い事なのかもしれない。急に重いギアを漕ぎだすのは危険だが、軽いギアで走れるなら楽でいいだろう。そのうち重いギアが欲しくなったら、あとから改造すればいいのだ。

「いいですか。左側車線を左寄りに……しかしマンホールやグレーチングは避けてくださいね。あまり寄りすぎても危険です」

「はーい、ルリちゃん。頑張りまーす」

 軽く答えるケンゴは、しかし頭の中では戸惑っていた。

(これ、どの程度までなら速度を出していいんだ?)




「ガンガン飛ばすのでござるよーっ。あっはっはっは」

「おい、そんなに速度が出せるかっての。俺の体力も考えてくれよ」

 40km/hを超えて、さらに加速する。途中、原付自転車が目の前に見えた。

「追い抜くでござるよ」

「ええっ?原チャリを?」

「今のアキラ殿なら、おそらく可能でござる。さあ、練習の成果を拙者に見せよ」

 ユイが大きく膨らみ、中央の白線を越えて、対向車線に出る。もちろん、対向車が来ないことを確認したうえでの行動だ。

「いや、原チャリ抜かすにしても車線変更する必要はないだろうが」

 危ない。と思っていたが、法律上はそうでもないらしい。

「実は、原チャリにしても自転車にしても、追い越しを行う際は車線変更が原則でござる。たまに勘違いした自動車の連中が、同一車線から無理矢理追い抜いていくがのう。あれは危険極まりない」

 確かに、とアキラは思う。この自動車一台が通れるだけの幅しかない車線で、自転車を追い越していく自動車は迷惑極まりない。

「追い越すという事は、一時的にでも車体が並走する事を意味しておるのでござる。もし同一車線上で追い越しをかけて、その間に相手がふらついたら?あるいは距離感を間違えて、ハンドルを引っ掛けたら?」

「最悪の事態になるな」

「そうでござろう。なので道路交通法では、自転車同士での追い越しでさえ車線変更が必要となっているのでござる」

 喋りながらも、ついには法定速度を守っていた原付二輪を追い越すことに成功してしまった。ユイが車線を戻すのに倣って、アキラも左に寄る。

「上出来でござる。アキラ殿」

「そ、そうか?……俺、こんなに速くなっていたんだな」

「うむ。弟子の成長、師匠として喜ばしいでござるな。まあ、拙者は巡航の仕方を教えただけでござるが」

「いや、それだけでも助かったよ。その節はどうも。師匠」

 アキラが冗談めかして『師匠』と呼ぶと、ユイは少し照れた。彼女が誰かに自転車の乗り方を教えたのは、あれが初めてだったのだ。しかも年上の男性に……それはまだ高校生であるユイにとって、少し不思議な気分だった。

「まあ、さきほど拙者が言った『道路の真ん中を走った方が安全』という理屈も、その追い越しに関係するのでござるよ」




 道路の隅を、ケンゴの乗るコッチ・ペダーレが走る。後ろをルリのアイローネが追走。その差は一馬身ほどであった。

「ど、どうかなルリちゃん?俺、きちんと乗れてる?」

 きちんとの定義にもよるが、一応乗れている。少なくとも、初心者としては充分だろう。

「いいですよ。その調子です」

 言うルリの後ろから、自動車が接近してきた。

 その自動車は、相手が自転車と見るや加速して、しかし車線変更はしない。速度を上げて一気に抜くつもりだ。

 追い越しざまに速度を上げるのは間違っていない。そうでもしないと、いつまでたっても抜けないからだ。問題は二点。ひとつが、車線変更しないことにより、自転車との隙間が狭くなること。

 そしてもう一点が、相対速度を見誤ること――

「ケンゴさん。ブレーキ。落ち着いて」

「え?おおっ!?」

 ケンゴがブレーキを引いて、止まろうとする。そのすぐ目の前を、自動車が幅寄せしてきた。

(俺を押しつぶす気かよ!?)

 と、ケンゴは思ったが、そうではない。自動車側はケンゴたちを『遅い自転車ごとき』と錯覚していたのだ。つまり、ドライバーはすでにケンゴを追い抜いたつもりになって、キープレフトに戻ろうとしている。

「う、うわああっ!」

 ブレーキを掛けたケンゴは、そのまま道路に倒れる。幸いにして地面に片足を付いたケンゴは、そのまま自転車を乗り捨てるようにして立ち上がれた。

「あっぶね。何で転んだんだ、俺?」

「ケンゴさん。ブレーキを掛けた時に、ペダルを止めましたね」

「あ……」

 ピストバイクは、ペダルを止めると後輪も止まる。だからこそ、ブレーキで減速するときにもペダルを漕ぎ続ける必要があった。それを忘れてしまったから、予想以上の急停車となってしまったのだ。


 実はユイの場合、これを避けるために車線中央を走っていた。

 それなら仮に幅寄せされても、まだ逃げる隙間が左にある。そしてブレーキをかける時間を稼ぐことも出来る。今回のケンゴの失敗はひとえに、キープレフトにこだわり過ぎたことだろう。逃げる隙も落ち着く余裕もないほどに。


「ケンゴさん。表通りでの練習は、やはり危険だったようですね」

「うう……ごめんよ。ルリちゃん」

 コッチペダーレを起こす。こういう時、ピストバイクは故障にしくいのがメリットだ。複雑な機能がない分、ほとんど壊れることがない。

「なあ、ルリちゃん。もしかして、キープレフトって危険なんじゃないかな?だって俺、怖くてずっとガードレールと路面ばかり見てたし……そもそも道路って端の方は斜めになってるじゃん?ハンドル取られるんだけど」

 極端に左に寄りすぎているだけ、とも言えるが、同一車線上ですれ違うなら、自転車はかなり左に寄らなくてはいけない計算になる。

 しかし――



「私たちの自転車は、やはり自動車と競争して勝てる物でもありません。自動車だって車線変更なしで自転車を追い越せるなら、それが一番平和なんですよ。

 自転車に大切なのはコントロールです。ガードレールと自動車の隙間。その数センチでぶつかるというギリギリを走れるのは、身体がむき出しの私たちならではの能力ですから」



 ルリは言う。相手に何かを求めるのではなく、自力で解決しようと。

 対して、ユイは傲慢に語る。相手に注意を促し、協力を得ようと。




「拙者たちの自転車は特別でござる。自動車と同一の速度を出すことも出来るでござるからな。

 自転車に大切なのはスピードでござるよ。車道のド真ん中を、自動車と同じ感覚で走る。もし拙者たちを追い越したいなら、自動車を追い越すのと同じ間隔を取ってほしいでござる」

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