第24話 チェーンの手入れはどうやるんだ?

「まず、用意するのはこちらですね」

 ルリが取り出したのは、チェーンクリーナーと呼ばれる洗浄液だ。

「メーカーは『スプレーするだけで汚れを浮かせて分解する』と紹介していますが、残念なことにそこまでの洗浄力があるとは思えません」

「え?そうなの?」

「はい。ああ、ちなみにどこのメーカーのものでもあまり効果は変わりませんが、ご自身が使うオイルと同じブランドのものを選ぶといいと思います。無ければ、KURE 5-56などのオイルでも代用できますよ。重要なのは脂溶性であることですね」

「油なら何でもいいって事か?」

「ええ。中には灯油で洗うという人もいます。ただ、これは金属まで溶かすので危険です。メーカー側も絶対にやらないで下さいと書いていますので、お勧めはしません」


 スプレータイプのチェーンクリーナーを、ギアに吹き付けていく。そうしながらペダルを回すことで、チェーンはどんどん泡に包まれていく。

「この時ホイールやタイヤなど、余計なところに当たらないよう、気を付けてください。ブレーキが利かなくなったり、スリップ事故の元になります」

「お、おう。って、スプレーだと難しいんじゃないか?」

「はい。狙いが定まりませんからね。私は真っ直ぐ直線的に飛ぶタイプのスプレー缶を使っていますが、霧吹きのように広範囲に吹き付けるものだと難しいです。まあ、慣れですよ」

 次に、乾いた布でそれを拭い取っていく。泥とオイルが混ざった黒い塊が、ボロボロと剥がれ落ちた。

「泥が水性の汚れ。オイルが油性の汚れ。混ざり合うと水でも油でも落ちない面倒な汚れが出来上がります」

「ひでぇな。でも、オイルが無いとスムーズに動かないだろう?」

「はい。ですが、砂ぼこりや泥の混じったオイルは、チェーン自体を傷つけます。難しいところですね」

 ディレイラー。プーリー。スプロケット……チェーンに接するところ全てを綺麗に磨いていく。

「私は布切れを使うことが多いですね。今回はお店のタオルを使っていますが、使い古したTシャツや下着でも構いません。あとは、歯ブラシを使う方もいますね。細かいところまで入り込むので、仕上げには使いやすいです」

「仕上げか。最初から歯ブラシを使うと?」

「あっという間に真っ黒になるので、何本あっても足りません」

「だよな。じゃあ、スチールウールとか、金属ブラシは?」

 聞いた瞬間、ルリがじろりと視線を寄こす。いや、これ、睨まれてる?

「チェーンを削って傷つけるので、絶対に使わないでください」

「は、はい……」


 そこで、アキラはふと疑問に思う。この店には何度も足を運んでいるし、品ぞろえは大体把握していた。その中に……

「なあ、自転車用のブラシとか無かったっけ?あれはどうなんだ?」

 アキラが指さした方向に、たしかに奇妙な形のブラシがある。チェーンを挟み込んで磨くもの。それから歯車に毛が生えたような円盤状のもの。いずれも、チェーンを中に組み込んで回すだけ。簡単に洗浄できる商品だった。

「はい。お勧めですよ。誰でも簡単に、しかも場合によっては手を汚さずに作業ができます。ただ、たまにブラシの毛が引っかかって、跳ねる場合がありますが」

「跳ねる?」

「はい。汚れのついた毛が『ぱちん』ってなるんです。すると、どこに汚れが飛んでくるか分かりません。私は前にそれで目に当たったことがありまして、以降ちょっと苦手です」

 簡単そうに見えるグッズにも、何気に問題点はあるらしい。

「あとは、ブラシ自体が大きな汚れを落とすのに向いていますが、細かい汚れは落ちにくいなんて話もあります。結局ブラシで大雑把に磨いてから、細かいところは歯ブラシで、なんて人もいますね」

「人の数だけメンテナンスがあるんだな」

「それだけ多くの国、多くの人種、多くの人たちが、自転車と向き合ってきたという事でしょうね」

 ルリが布で擦るたびに、金属の綺麗な表面がむき出しになる。そう言えばこのチェーンは銀色だったんだ。いつの間にか真っ黒なのが当たり前になってしまっていたけど、キラキラと輝くそれは新品の様だった。

「たまにこうして磨いてあげると、乗り始めたばかりのような情熱が戻ってきます。そう思いませんか?」

「ああ、この店で見た瞬間に一目惚れした。その気分を思い出したよ」


 ルリの耳元で揺れる、自作のイヤーカフ。自転車のチェーンを改造して作ったらしいそれが、きらりと光る。

「チェーンって、美しいですよね」

「え?いや、知らんけど」

 美的感覚は人それぞれだが、ルリは続ける。

「この小さな、極薄の金属板。つまようじほどの太さのピン。そして指先ほどの大きさもないブッシュベアリング。こんな小さな小さな部品が寄せ集まって、車体に動力を伝えていく。私はそんなチェーンが、自転車の部品で一番好きです」

「へえ。たしかに、言われてみれば凄いな」

 感心するアキラは、自分のローマについているチェーンを見る。たしかに細かい部品の集合体。これがまっすぐ一直線に連なり、縦方向にだけ曲がり、歯車とかみ合う。


「そう言えば、チェーンって伸びるんだっけ?」

 ふと、そんなことを思い出す。

「ええ。使っているうちにぐいぐい引っ張られるので、だんだん伸びていきますね。そのときは寿命みたいなものだとお考え下さい。そのうち交換が必要な消耗品です」

「あれ?でも一コマ抜いたら使えるって、爺さんが言ってたぞ」

「うーん……」

 ルリは少し悩む。それから、立ち上がって伸びをした。解説に入るモードだろう。

「んっ――」

 肩を上げるついでに、その大きな胸もエプロンを突き上げる。背中を反らす時に、小さなお尻も突き出される。そういったところに無自覚なのか、女性的な魅力を有しながらも無頓着なルリ。

「アキラ様。チェーンのコマの間隔(ピッチ)は、ギアの歯の間隔と同じなんですよ。だからかみ合うんです」

 近くにあったペンを手に取り、テーブルに広げたコピー用紙の裏に図を描いていく。立ったままそれをするものだから、目のやり場は困るというものだ。

 こういう時、話をしているルリの方を見るのがマナーなのか、あるいは書き終わるまで自転車でも眺めているのがマナーなのか……迷っているうちに、ルリは出来たての解説図解を持ってくる。

「このように、チェーン一コマの長さが変わってしまうと、歯車とかみ合わなくなるんです。するとローラー――このチェーンの真ん中の丸い部品です――が歯の先端に当たり、最悪の場合はギアを欠けさせます」

 一コマ抜くことによって、確かにチェーン全体の長さは揃えられるようだ。しかし、大事なのは全長ではなくコマ単位の長さらしい。

「じゃあ、一コマ抜くのは意味がないのか?」

「いえ。程度に寄りますね。ご覧の通り、ローラー自体は少しだけ前後に動きます。こう……カタカタって」

 少しだけ遊びがある。つまり、これでカバーできる範疇は大丈夫という事だろう。


「あとは、外装変速ギアが付いている場合、ディレイラー下のプーリーが、余ったチェーンを引っ張って調整します。なので、そもそも全体の長さは自動で調整されているようなものなんです」

「変速ギアがない場合は?」

「その場合、リアエンド――つまり後輪の軸をネジ止めする部分が、後ろにそのまま移動するようになっています。要するに、後輪そのものを後ろに引っ張って、チェーンを調整する構造ですね」

 店から、適当にママチャリを持ってくるルリ。すると、あっという間にその後輪を外す。15mmのスパナを差し込んで、軽く分解。手慣れている。

「あ、ネジ穴が……」

「そうなんです。皆さん、この車軸の部分を「穴」だと勘違いするのですが、これは「切り込み」なんです。丸ではなく、コの字型」

 正爪エンドと呼ばれる構造だ。読み方は「せいつめ」とか「まさづめ」とか、なんか決まってないらしい。

「これ、走っている最中に動いたり、外れたりしないのか?」

「ええ。チェーンに抑え込まれているので、勝手に外れることはありません。実際にピストバイクや競輪自転車にも使われる構造ですが、これが原因で脱輪するという話は聞いたことがありませんね」

 次にルリは、アキラのローマを分解する。これはさっきも見た通りだが、下に向かって切り欠きがある。

「これが、逆爪エンドですね。走る方向に向かって切り欠きを付けているので、これまた脱輪することはありません」

「へぇ。この手のネジって、もっとがっしりしているんだと思ってたよ」

「必要なところに必要な圧力をかけるのが、最適なのです。あまり無理してネジを締めると……部品が割れます」

「え?そうなの?」

 結構、力任せに締め込んでいた。そのことを指摘されたようで怖くなる。

「気を付けてくださいね。特に可動部近辺。ベアリングボールは簡単に割れます。ボール自体もガラス玉みたいな脆さを持っていますし、軸も万力の強さを持っていますからね」

 専門家に任せる方が、DIYに頼るよりは確実であるようだ。



「それでは、最後はオイルを塗布して、終了ですね」

 ペダルを回しながら、チェーンの一コマ一コマに、丁寧にオイルを塗っていく。ちょん、ちょん、と置くようにして。

 それから、何度かペダルを回転させてオイルを浸透させる。こうしてきちんと充填出来たら、軽く布で拭き取る。余分なオイルを落とすためだ。

 落ち着きのあるメタリックカラーを取り戻した足回り。静かに音もたてず回るリアホイール。そして、それを真剣に見つめる美少女。これを撮影してCMにしたら、トアルサイクルは儲かりそうである。

「今回は、晴れの日に最大の走り心地を発揮するドライルブで仕上げてみました」

「どらいるぶ?」

「はい。チェーンに使用するルブ(オイル)には、大きく分けて2種類あります。ドライルブと、ウェットルブですね。前者は隙間にも入りやすく、回り心地が良いです。後者は隙間に入りにくいですが、雨などに強く、濡れても落ちません」

「じゃあ、ウェットルブの方が高級なのか?」

「うーん……まあ、そうでもないですよ。濡れても落ちない代わりに、洗っても落ちませんから」

 今回、ルリが手や顔を油まみれにしながら格闘した時間は結構長い。しかしドライルブだからこの程度で済んだようなものだ。アキラが普段からウェットルブを使っていたら、もっと厄介だった。

「雨の日によく走るようであれば、ウェットルブをお勧めします。そうでないならドライルブを……どちらも商品化されるのには、一長一短の良さがあるからですね。この機に一本いかがですか?お勧めはこちらか、あるいはこちら」

 片方はshimano PTFE LUBEで、もう片方がFINISH LINE DRY BIKE LUBRICANTだ。

「この二つが、性能的に良い商品なのか?」

「アキラ様の乗り方を見ていると、ですけどね。私はFINISH LINE CERAMIC WET CHAIN LUBUを使っています。雨の日にも良く乗るので、とても助かっています。特にクロモリフレームは錆び易いので」

 人それぞれ、得意とするフィールドや自転車によって相性があるらしい。

「難しいんだな。俺に分かるかな?」

「まあ、最初はお店の人のお勧めとか、無難なところから始めてもいいと思います。それでご自身のスタイルが分かってきたら、オイルを変えてみるのもいいでしょう。実際、自分で試してみないと分からないことは多いですからね」

 こればかりは、ルリも何が一番いいのかは分からない。じつは自分自身、ちょっと前までルブをとっかえひっかえしていた乗り手だ。

「あとは、まあ……」

「まあ、なんだ?」

 何かを言いかけたルリは、そのまま考え込むように顎に手を当てる。アキラが首をかしげて答えを待っていると、彼女はようやく頷いた。

「好きな人が使っているルブを、真似して使ってみる――とか、そのくらいの気持ちで選んでもいいのかもしれません」

 セラミックウェットが飛ぶように売れそうなセリフであった。



「このBB、ペダル、コラム、ハブには、絶対に注油しないでください。本来ここには、グリスと呼ばれるタイプの潤滑油が入っています。これはルブと反応すると溶けるので、絶対にルブを入れないように」

「マジか。危うく可動部ならどこでも注油していいものだと思ってた」

「結構シビアなんですよ。たとえばハブでも、QRシャフトやボルト自体には注油した方が良いんです。でも、ベアリングにはダメですね。コラムに至っても、スペーサーやステムのボルトは注油した方が良いのですが、ヘッド内部がダメってだけです」

 ルリ先生の授業は時々分かりにくい。それは、ルリが説明下手なわけでもないだろう。自転車の構造がそれだけ複雑という話だ。

「ところでさ。錆止めするなら、ペンキとか防錆スプレーとかでもいいんじゃないか?」

「滑りが悪くなり、摩擦係数によるストレスが周辺部品を摩耗させるので絶対にやめてください」

「は、はい」



「ああ、もうこんな時間ですね」

 自転車を分解したり、図面を書いたり、商品を説明したり。

 そんなことをしている間に、すっかり23時を超えてしまった。終電はもうそろそろ発車しただろう。まあ、自転車通学の二人には関係ない事だが。

「結局、明日の講義に響きそうだな。すまん」

「いえ、大丈夫です。アキラ様のお気遣いのおかげで、私も自転車で帰れますので――」

 ルリはローマの右側に立つと、それをアキラに差し出した。相手が受け取りやすいように、彼女は常に自転車の右に立つ。

「ありがとう」

 自転車を受け取ったアキラは、そのまま突っ立っていた。ルリは首をかしげる。

「どうかしましたか?まだどこか気になる箇所でも?」

「いや、ルリを待ってるんだが……」

「え?私を――帰る方向は違うはずですが?」

「いや、送ってくよ。女の子一人、この時間だろ。それに、片付けとかあるなら手伝うし、さ」

「はあ……」

 ルリとしては、ピンとこない話。営業時間外とはいえ、あくまで店員と客である。客に手伝わせるなんて話は聞いたことがない。まして帰宅に関して、ルリに危険があった試しはない。

 でも――

「そう……ですね。それでは、私は工具を片付けましょう。アキラ様は床のモップ掛けでもお願いします。それくらいしか出来ないでしょうから」

「おう。無難な判断だから何も言い返せないな」

 どうせ工具の名前も戻す位置も分からないよ。そう言おうとして、ルリを見た。

「……」

「アキラ様?どうしました?」

「いや。別に」

 やっぱり、笑うと可愛いよな。そんな風に思ったが、言うのは止めておくことにした。

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