第2話.運命の始まり

 目を覚ましたら、顔を洗ってアイナと一緒に朝ご飯を食べる。それが僕の一日の始まりだ。

 朝ご飯はスープとゆで卵、野菜などだ。朝にはこれくらいの食事で充分だ。


「先に出かけるよ、アイナ」

「うん! いってらっしゃい!」


 食事を終えた僕は、弓と矢を背負って家を出かけた。そして村の北の畜舎に向かって歩いた。空気はずいぶん冷たくなったが、まだ軽い服装でも大丈夫だ。

 村のあちこちから音が聞こえてきた。人々が朝早くから仕事を始める音だ。その音を後ろにして、僕は木柵で囲まれた畜舎に入った。すると中年の男性と小さな犬が見えた。

 

「コルさん、おはようございます」

「うむ」


 僕が両手を胸の前で合わせて頭を下げると、コルさんはいつも通りに『うむ』と答えてくれた。

 いつもむっつりなコルさんは、もう20年近く羊飼いをしている。僕に羊飼いの仕事を教えてくれたのも彼だ。つまり僕の師匠ってわけだ。

 コルさんは屈強な男だが、右足が不自由だ。だから羊たちを率いて山道を登るのは僕の役目だ。


「おい、ギブ。元気にしてたのか?」

 

 僕はコルさんの隣で座っている小さな犬に話しかけた。すると可愛い犬は嬉しそうに尻尾を振った。

 ギブは牧羊犬、つまり僕の仲間だ。しかしまだ幼すぎて、僕と一緒に山道を登ることはできない。残念だけど畜舎で留守番するのがギブの限界だ。


「じゃ、行ってきます」

「うむ」


 僕は杖と革袋を持ち、羊たちと共に畜舎から出た。これで本格的に仕事が始まる。

 羊たちを率いて山道を登り、牧草が生えているところまで行く。そして羊たちが周りの草を食べ終わったら次の場所へ移動する。それの繰り返しだ。

 羊たちは僕の引率に慣れているが、たまに言うことを聞かないやつがいたら杖で殴る。そして病気にかかった羊はいないのか、茂みの中に蛇なんかはいないのか確認する。本当に地味な仕事だ。

 しかしそんな地味な仕事にも危険はある。それはもちろん狼だ。コルさんが足を怪我したのも狼のせいだ。

 3年前、狼の群れが突然現れて畜舎を襲撃した事件があった。その時コルさんは多数の狼たちに囲まれながらも対抗したが、右足を噛まれた。それで僕が彼の弟子になって羊飼いの仕事を始めることになったのだ。

 僕は羊飼いになってから今まで狼と遭遇したことがない。しかしそれは単に運がよかっただけだ。だから毎朝、必ず弓と矢を準備する。運ってものがいつまでもいいわけがないから。


---


 正午をちょっと過ぎた頃、お腹が空いてきた。僕は木の陰にある岩に座って、革袋からトウモロコシや干し肉などを持ち出した。それが僕の昼ご飯だ。

 適当に食べてちょっと弓の練習をした。今日の課題は早打ちだ。もし狼たちが襲撃してきたら、どれだけ早く射撃できるのかも大事だろうから。


「ふう」


 5回の早打ちの練習を終えて、木に刺さった矢を回収した。すると羊たちが草を食べているところが視野に入った。

 ふと笑いが出た。平和な羊たちの姿を見ていると、弓の練習も何か馬鹿馬鹿しくなってくる。狼の脅威など別の世界の話のように思えてくるのだ。

 しかし本によると、騎士たちがそんなに強いのは常に自分を鍛えているからだそうだ。もちろん僕は騎士ではないが、騎士たちが王国を守るために戦うんなら、僕は羊たちを守るために戦う。だから僕も常に鍛えないと。


「よし、行こうか」


 そろそろ次の場所へ移動するために、僕は羊たちと山道を登った。この道は狭いし、南側は崖だから注意しなければならない。


「あ……」


 ところが狭い山道の途中、何の予告も前兆もなく……やつらがいきなり現れた。そのことを認識した瞬間、僕は石像のように立ち止まった。


「お、狼……」


 それは3匹の狼だった。


---


 巨大な胴体、強靭な脚、鋭い牙、そして血の匂いと低い唸り声……先までの平和な雰囲気を完全に忘れさせる狼たちの姿は、脅威そのものだった。

 いつかはこんな日が来ると、運の尽きる日が来ると覚悟はしていた。しかしまさかそれが今日だったとは……。

 羊たちは狼の姿を見ただけで混乱に陥った。だが羊飼いまでそうなってはいけない。それは羊飼いとしての義務だ。心臓が破裂しそうなくらいバクバクしたが、僕は歯を食いしばって平常心を保とうとした。落ち着け、落ち着くんだ。

 狼たちは僕を睨みながら低い唸り声を出した。不思議にも、僕はその唸り声の意味が何となく分かった。それは脅迫だ。やつらは『羊たちは諦めて失せろ』と言っているのだ。まるで僕が羊飼いだと理解しているかのように。

 しかしその脅迫で、僕はむしろ決意を固めた。僕は杖を手放して、素早い動作で背中に背負っていた弓を手にした。そして何の迷いもなく先頭の狼を狙って矢を放った。その矢は狼の頭に命中し、その命を奪う。ほんの一瞬の出来事だ。

 そうやって1匹の狼が倒れた瞬間、残り2匹の狼が僕に向かって走り出した。

 凶悪な野獣たちは僕を八つ裂きにするつもりだ。だがその現実に絶望してはいけない。絶望したら本当に八つ裂きになってしまう。僕は現実を直視しながらも、同時に現実を無視して、ただやるべきことをやった。必死の覚悟が込められた矢がまた狼の頭に刺さった。わずか数秒で2匹の狼を射殺したのだ。

 しかし3匹目の狼はもう目の前まで来て、僕に襲い掛かった。僕は反射的に弓の先端をそいつの口の中に突っ込んだ。弓は狼の牙にかかって壊れてしまったが、その隙に僕は地面に落とした杖を手に取ることができた。

 杖で羊以外のものを殴るのは初めてだが、つべこべ言う余裕はない。僕は必死になって杖を振り回した。腹の底から力を絞り出して、手のひらに擦り傷ができても構わなく、殴り殺す勢いで振り回し続けた。しかし仲間たちを失った狼も必死だ。多分こいつも生きていくために僕を殺そうとしているんだろう。それはとても原始的で、本能的な戦いだった。

 狼が僕を噛み殺そうとするたびに、僕が狼の頭を杖で殴って撃退する。それを何度も繰り返した。わずか数十秒の死闘……しかし僕にはまるで何時間も経ったように感じられた。僕は息が苦しくなるほど全力で抵抗した。狼の接近を許すわけにはいかない。許したらその瞬間、紛れもなく死ぬ。

 その死闘の末、狼と僕は互いを睨みながら対峙するようになった。狼も僕の激しい抵抗にてこずったのだ。だが僕に弓がない以上、狼の方が圧倒的に有利だ。狼もそれを知っていて、無理せず少しずつ前に出た。それで僕は少しずつ後ろに下がるしかなかった。緊張で全身から汗が流れたが、瞬きもできない。


「あ!」


 地面の感触がない、と気付いた時にはもう遅かった。後ろは崖だったのだ。もう何年も通った山道なのに緊張で完全に忘れていた。

 崖から落ちる瞬間、僕は悲鳴を上げたが……それも長くは続かなかった。

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