第6話 ぐっすりと眠れる幸せ
僕はさっそく流し台のシンクの掃除に取りかかった。
確かに水垢がこびりつき、所々に黒いカビが生えていた。
僕はシンク下の扉を開き、掃除用のゴム手袋をはめた。
思えば、ずいぶん自炊をしていない。
幸い、自宅の裏手の細い路地を抜けると国道沿いにコンビニエンスストアやスーパーがあった。
自宅から歩いて3分もかからないだろう。
シゲルは1日の大半を眠って過ごし、腹が減ると出来合いの惣菜や弁当、冷凍食品を食べ、そして、また眠るというサイクルを繰り返していた。
水を飲んだコップを洗うのでさえ面倒になって、大量の紙コップや紙皿を買い込んでいた。
それでも食べれれば、まだよい。
丸一日以上、食欲がわかないことも少なくなかった。
さすがにマズイと思い、戸棚にストックしていたカップラーメンに湯を注いでも、ほんの少ししか喉を通らないこともあった。
金銭面のことは当分、考えずに済みそうだった。
両親がかなりの額の貯金を持っていたからだ。
兄も僕の状態では働くのは難しいと判断したらしく、両親が遺した財産の全てを僕が相続することになった。
兄は皆が言う以上に立派な人間なのだ。
僕はシンク掃除専用の液体スプレーを吹き掛けてシンクを擦った。
こんなにちゃんとした掃除をするのは生まれて初めてかもしれなかった。
排水溝の蓋をとって中を覗いてみると、やはり黒いカビが生えていた。
僕は排水溝もしっかりと擦った。
無心だったと思う。
あらかた磨き終わると水で泡を流した。
見るからにキレイになったシンクを見ると、自分の心を覆っているモヤモヤとしたものがスッキリと取り払われたような気がした。
シンクの掃除が終わると、僕はバケツに水を貯め雑巾を探し当てた。
シンクをキレイにしたことでスイッチが入ったのだ。
僕は雑巾をしっかりと硬く絞り、棚の上や床を拭いた。
フローリングの床の隅には結構な量の埃がたまっていた。
僕は、なぜ埃が灰色に見えるかというのをテレビで見たことを思い出した。
その番組によると、埃を顕微鏡で見るとカラフルらしい。
絵の具も沢山の色をごちゃ混ぜにすると濁った色になるように、埃も色んな色の埃が集まることで灰色に見えるらしい。
それは、なんだか悪くない話だなと思う。
一見、どんよりとした暗い人間だって沢山の感情を抱えて生きている。
きっと、その沢山の感情を整理できずに、ごちゃまぜになった結果、悩んだり病んだりするんじゃないだろうか。
シゲルそんなことを考えながら床を拭いていた。
掃除を終えてリビングとキッチンを見渡すと、見違えるようにキレイになった。
そして不思議と体が軽かった。
シゲルはスッキリとした晴れやかな気持ちで塗り絵に取りかかった。
昨日よりは、やや複雑な構図であるが決して難しくはないだろう。
今日は姉妹と思われる女の子ふたりが手を繋ぎ、家から続く道を歩いているといったものだ。
僕は広い面を塗る時は鉛筆を寝かせるようにし、均一な力加減を心がけた。
自分でもなかなかキレイに塗れたことに満足することができた。
問題は細部だった。妹のリボンの部分をキレイに塗るにはコツが必要だろう。
シゲルは考えた。
どうやったら綺麗に塗れるかを。
シゲルは鉛筆の先に目をやった。
鉛筆の先はすっかり丸くなっていた。
これではいけないと思い、鉛筆削りで先を尖らせた。
鉛筆を立ててコピー用紙に試し書きする。
シゲル閃いた。
今日の塗り絵はまずまずの仕上がりになった。
達成感が気持ち良かった。
久しぶりに腹が減った。
戸棚からカップラーメンを取り出し湯を沸かす。
かやくと粉末スープを入れたカップに熱湯を注ぎ3分間待つだけだ。
しかし、その3分間が長く感じられるほどにシゲルは空腹を感じていた。
待ちきれない程だった。
3分後、蓋を開けて割りばしで麺をほぐす。
湯気が立ち上ぼり、スープのよい香りが食欲を更に刺激した。
シゲルは思いきり麺を啜った。
熱い!!
シゲルは、そんな自分が可笑しかった。
今度は気をつけてフーフーと冷ましてから、ゆっくりと少しずつ麺を口に運ぶ。
旨かった。
何かを食べて美味しいと感じたのはずいぶん久しぶりのことだった。
その晩、シゲルはシャワーでしっかりと体を洗い、早々にベッドに入った。
普段から、寝つきの悪さに悩んでいるシゲルだったが、この日はすぐに眠りに堕ちた。
朝起きると、体は昨日よりも更に軽くなっていた。
頭痛もない。
まるで生まれかわったような気がした。
そして驚くべきことに朝食を食べたいと思ったのだ。
コンビニへサンドイッチを買いに行くことにした。
顔を洗い清潔な服に着替えて外へ出ると、朝特有の空気が町中に漂っていた。
小学生が夏休みの朝に感じるような類いのものだ。
登り始めた太陽が白く眩しい光をそこいらじゅうに拡散させていた。
車の走る音、小鳥のさえずり、どこかの早起きなお爺ちゃんが聴いているラジオ放送。
それらが混じりあっていく。
しかし、それは灰色にはならなかった。
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