Code:Ⅶ 救いの消えた少女

 時計の針は誰の制止も聞かず、刻々と進んでいく。蓬達はウロボロスで各々自由に過ごしていた。

「うえぇ……まだ頭痛いぃ……」

 温泉で李雨から呑まさせてもらったアルコールの余韻に未だ脳を締め付けられているアリスは、あてがわれている部屋でベッドに俯せになって休んでいた。慣れないどころか初めての飲酒、小さな体には普段から度数の高いものを呑んでいる李雨の酒は大分堪えるものになっていた。立ち上がっては水をコップに注ぎ飲み、寝転がる動作を延々と繰り返す。それでアルコールが抜けると蓬が言っていたのを大人しく実行するしかなく、食事を摂った後なのも相まって胃は容量一杯まで膨らんでいた。

「うぅ……半端に食べ物でお腹一杯になってるから苦しい……」

 誰も居ない部屋で一人唸る。一応の満腹感がある故に、睡魔はゆるりと歩み寄ってきている。瞼が少し重い。酔いが回ると眠気も来ると20代2人から聞いていたが、ここまで睡眠に引きずり込むようなものだとは思っていなかった。ウロボロスの寝具は自分たちの拠点よりもスプリングがしっかりしており、布団も厚手の物になっている。小さく軽いアリスでも沈み込む感覚が得られるこれに少女は抱きしめられているような安心感を覚えていた。

 意識が底に溶けていく。次第に脱力していく仄かな温かみを孕んだ感覚に抱かれ、アリスの意識は瞼の降下と共に閉じていった。








 夢を見ていた――――と思う。夢なのかどうかも判別がつかないくらい意識は白く靄がかっていたが、何処か足元の接地感がないのを考えると夢の可能性がある。

 目を開くと、そこは自分自身の記憶の中でも思い出したくない記憶筆頭の場所だった。其処に居たくない一心で必死に逃げ出した場所だった。もうそこではない、初めてできた大切な存在が居る場所を手に入れたのに、なぜ今この記憶を追憶させられているのか。

 眼前にあるのは一見何の変哲もない建物。簡単に説明すればここは孤児院のような施設。身寄りのない子供を預かり、一定年齢になるまで育てた後に独り立ちさせる。荒廃した世界ではそう珍しくもない、子供達のための場所となっていた。――――表向きは。

 事実はやはりそう綺麗なものではない。いや、ドス黒いものだった。

 孤児を保護し育てる?一定年齢になったら独り立ち?そんなものはなから存在していない。実際にそこで行われていたものは慈善活動とは対極の物だった。まず孤児を預かる・保護する事はしていない。では何故子供たちが居るのか?

 答えは『誘拐』だ。

 戦争孤児――――とは一括りに言うが、実際には文明が崩壊しかかっている場所の多いこの時世では何故孤児となったのかを調べる余裕も特定する余力もない。とにかく親が既に他界している子供は世界に多く存在している。しかし、そう言った子供は大抵の場合、ある程度余力のあるコミュニティがその中に受け入れ、総体として若き少年少女を育てていくのが流れとしてある。しかし、無限に世話を見られる訳でも、世話をできる訳でもない。そう言ったあぶれた子供たちは、身を寄せ合い細々とスラムの様なものを築き協力して生活をすることを余儀なくされる。コミュニティに所属していない流浪の人間を招き助力と引き換えに生活圏を確保し、明日もわからない生活を送っている。

 そこを狙う人間が、この世界には存在している。

 然して珍しくもない、子供が大多数を占める集団ならば、悪意を持った大人はそれを簡単に利用する。懐柔が容易いからだ。どこも人手、特に若い人間の手は足りないでいる。それがまだ労働力として攫われ働かされるならマシな方だ。今の世界にそんな生易しいものの方が少ない。

 目の前に建つ孤児院擬き、ここも子供を誘拐して利用している。利用内容は『殺しに特化した子供の育成』である。含みも何もなく、単純な武力を持った人間を育成するための場所。その子供を育成する方法も『蟲毒』の形式で行われる。簡単に言えば集団で戦わせ最後の一人になった子を更に厳選していく方式。初めに殺しの知識技術を叩き込まれ、その過程で【落第】した者が消えていく。そして習熟度が一定を超えた時、『蟲毒』が開始される。

 幸か不幸か、いや間違いなく幸ではあるのだが、少女はその蟲毒が開始される正に寸での所で施設から逃亡した。勿論行く当ても無ければ真っ当な人生を歩むだけの物も無い。生きるための術はあの施設で教えられた殺す技術だけだった。

 走って、走って、息が切れて、肺が裂けそうになって、走って、倒れて、気絶して、起きて、また走って。追手の有無も確認できないままに、何処へ向かっているのかもわからずに走っていく内に、遂に体を動かすだけの力も尽きた。

 脚は血だらけで皮膚も裂けていた。爪も剥がれ、先端の感覚も無くなっていた。何度かこけた拍子にできた裂傷も、瘡蓋なのか泥なのかもわからない。痛みも麻痺してきた少女は疲労も蓄積していたので、ゆっくりと地面に倒れ伏した。

 ――――悔しい。

 自分の人生はこんな、つまらない大人の勝手な欲望でめちゃくちゃにされたまま終わるのか。その悔しさに少女は顔も上げられないまま涙を溢し続けた。流れた涙は大地に染み込み、噛み切ってしまった唇にも容赦なく染み込んでいく。それでも、もう体は動かなかった。

 あとには、倒れ伏す少女と、それを側に寄り立ち見下ろす一人の男の姿だけがあった。




 ――――懐かしい記憶だった。いや、懐かしさは無いか。ただただ苦く屈辱的な記憶でしかない。夢見心地のまま自身の過去の追体験をさせられるのは、中々どうして堪えるものがある。今でこそ朦朧とした意識だからこそ冷静に居られているが、きっと夢から覚めた時、自分は冷静なままでいられる事は無いだろう。

 場面が転換する。




 傷だらけの体、放心したままの心。見覚えのない部屋で少女は何をするでもなく病院患者が使用するベッドの上に居た。大人たちがひっきりなしに出入りし、自分の事を聞いてくるがどうにも意識を向けることができない。どんなに信用できそうな顔をしていても、奥底にあるものがわからない。わからないから怖い。怖いから信用しない。少女はただただ時が過ぎていくのをその白い世界の上で眺めていた。

 その中に、今はもうよく知っていて、信用に足る実力と実績、側に居る事で得られる安心感が確かにある一人の女性の姿があった。

 くすんだ桃色の髪に赤いメッシュの入った、一切感情の読めない鉄仮面の様な表情の女性。彼女は少女がここに保護されいくらか回復した時期に現れた。初めは自分の所に来る理由がわからず、特に話す事も無いので無視をしていた。きっとこの女も何か利用価値を見出して自分に近づいたのだろうと考えていたし、事実彼女も後の話ではその意図もあったと話していた。随分薄情な話だと思う、嘘でもなかったと言わないのだろうか。

 とにかく、少女は女性を無視し、女性もそれを一切気にせず必要な話だけをして帰っていく日々を繰り返していた。そんなことが続く内に、少女も気を許し始め少しずつ会話がなされていく。他愛もない話、軸も何もない雑多な会話をしていく内に、今まで自分にはこうして何の考えも無く流れるがままに会話したことがあっただろうかと思った。女性はこちらの返答が遅かったり、そもそも返答がなくても一切何も言わない。無表情で無感情に見えるのに、少女はどこかふわりと温かさを覚えていた。

 そうこうしている内に少女の体の傷は完全に治癒し、精神的にもいくらかの余裕が戻っていた。体力などの低下こそ感じたが、戻そうと思えば戻せる程度なので然したる問題ではなかった。

 他の問題と言えば、自分の今後だった。学も無い、保護者も居ない、後見人も勿論居ない。ここから放り出されるのではないかと若干の危惧をしていた退院の日、いつものように女性が部屋に訪れてこう言った。


『貴女の力が、貴女の存在が私には必要』

『貴女の意思を蔑ろにするつもりはない、嫌なら拒否しても構わない。その場合でも、ここまで関わった間柄、今後の生活の為の助力もする』

『縁もゆかりもなかった自分に何故ここまでするのか……と聞かれたら、特に理由は無いわ。私は貴女のいくらかの過去と持っている技能を知り、それを十全に生かせる環境と約束された居場所を引き換えに、貴女を欲しいと言っただけ。それはあまりに一方的だと考えたからアフターケアについても申し出ただけよ』

『教えて、私の元に来てその培った忌々しい力を人のために使うか、それらを捨て平和なままに生きるか』

『貴女が決めなさい』


 随分勝手と言うか、こちらを慮ってるのか一方的なのかわからない提案だった。

 正直な所、自分のこの技能技術は忌々しい上にできるなら消し去りたい存在なのは確かだった。平和で普通の、一般的かはともかく人並みの生活も憧れていた。それは純然たる事実だ。

 しかし、もうこの体に染み付いた技能技術、思考や感覚が消えないことも、少ない知識からでもわかっていた。きっと、自分は普通にはもうなれない。

 だが、この捨て去りたい力を、誰かを傷つける知識を、もう日常には戻れない感覚を、真剣な眼差しで真っ直ぐ見つめ求めてくれたことが、自分でも意外だが、存外の喜びであることが分かった。

 この人は自分を利用したいんじゃなく、自分を――――『アリス』と言う個人を必要としてくれているのだと。今まで何者でもなかった自分を、何者かにしてくれると。そう言ってくれているのだと、拙いながらも感じ取ることができた。

 だから、アリスは首を縦に振って、蓬と一緒に帰ったの。








 少女の目が覚める。体が冷や汗をかいていた。腹部の圧迫感も脳の浮遊感も無くなり、息苦しさも消えていた。あくまで肉体的要因の苦しさは、だが。

 歯が小刻みに震え、視界の焦点があっていない事に気が付くのに、少し時間がかかった。あの夢はそれだけ少女にとってのトラウマの様なものなので、この状態になるのも仕方がない。と、自分を冷静に見てみようとしたものの、すぐに少女の思考はかき乱され、次いで言い表せない不安感に苛まれた。皮膚は神経過敏なほどぴりついた感覚を感じさせ、深呼吸をしようものなら呼吸の方法がわからなくなり、ただ無意味に胸部を上下させるだけになってしまった。

「…………こわ、い」

 漏れた少女の声はあまりにも弱々しく、消え行ってしまいそうなものだった。

 だが、襲い来ていた不安感は少女の頭を優しく撫でる手の温かみによって和らいだ。

「……ぇ」

「魘されていたわよ、大丈夫?」

 そこには、いつもと変わらない無表情でこちらに手を伸ばし、少女の寝ているベッドに腰掛けていた蓬の姿があった。幾度の戦いを経ても一切損なわれないしなやかな指がアリスの髪を梳いていた。

「…………あの時の夢を、見たの」

「そう」

「…………怖かった」

「こっちに来なさい」

「……ん」

 蓬が体をアリスの方に向け、両の腕を広げていた。アリスは胸元に引き寄せていた掛け布団を側に放し、蓬のその腕の中にすっぽりと入った。

 全身にあった震えや寒気、不安感は蓬の温かさや柔らかさによってじわじわと霧散していった。背中を一定間隔のリズムで優しく叩く心地よさと、一気に押し寄せてきた悪夢の余韻からの解消による安心感でアリスは再び眠気に襲われた。

「李雨はたぶん朝まで戻ってこないわ。もう疲れたでしょう、私しかここにはいないから、安心して寝なさい。眠るまでここにいてあげる」

「……手、握って」

「えぇ」

 中々抱きしめてくる腕を力を抜かないアリスに、蓬は普段では聞かないような優しい声色でその腕を解いた。放られた掛け布団を手に取り横になったアリスにかける。体全体にかかっているのを確認した蓬は、アリスの出してきた掌をゆっくりと握った。強すぎず、しかし弱すぎずに。それに安心したのか、アリスはふにゃりと表情を崩し安心しきった顔になった。

「ありがとぉ……」

「大人しく寝なさい、起きたらまたしっかりして頂戴」

「うん……おやすみ……」

「おやすみ、いい夢を」

 頭をまた撫でると、アリスは少し蓬の手に頭を寄せ、その瞳を瞼で覆った。

「……ゆっくり休みなさい、アリス。今は貴女の事だけを守ってあげる」

 蓬は眠りに就き規則正しい呼吸で寝ているアリスに微笑みながら、暫くの間ベッドに腰掛けていた。






 数十分後、蓬はアリスが完全に眠り様子も変わりないのを確認したため、人気の無くなった廊下を一人歩いていた。

「相変わらず不休で動き回っているようだな」

「……あら、そういうそっちも休んでいないようだけれど?」

「仕事は山積みなんでな、休息時間が少なくて済む俺達のような存在が動き回るのが結論としてはいいのだろうな」

「残念ながらね」

 廊下に設置されているベンチに座り、蓬を見て声をかけてきたのは艾だった。書類を膝の上に乗せ、紙コップに注がれているコーヒーを飲んでるのを見て、蓬はそのベンチの空いた隣のスペースに座った。足を組み、艾の持つ書類を見た蓬は、その一番上にあった紙の文面を見る。

「その書類」

「あぁ、お前達400分隊への新しい任務だ」

「いつも思うのだけれど、私達はいくら見知った仲とは言えあくまで傭兵よ。それにここまで仕事の依頼を繰り返していたら他職員や上層部に心象悪くなるんじゃないかしら?」

 蓬・李雨・アリスの三人は、ウロボロスと縁が深くほぼ専属的な傭兵部隊となっているが、それでもその存在はあくまで『傭兵』。切る時に切れ、必要な時だけ雇い、金銭と信用によって初めて関係が成り立つ。その傭兵達にこう何度も依頼を出す事に対して蓬は問うた。

 それに対し、艾は特に気にも留めない様子で答える。

「あくまで振るのは危険性が高くウチの部隊でやるにはコスト的な面と危険の面で面倒だ。だからこそお前達を使うことを選択している。まぁそれ以外の理由とするなら、昨日達成報告を受けた任務の延長線上の内容だと判断して、適任だと考えただけだ」

「そう、ならいいわ」

「あぁ、あと一つ。これは個人的な依頼だが」

 艾は一口コーヒーを呷ると、疑問符を浮かべた――――傍から見れば何ら変わらない表情だが――――蓬に対し、視線だけを合わせた。

「近々新人の入隊後演習訓練があるのは知ってるな?」

「えぇ、それが?」

「俺は何故かそれの新人内での成績上位の幾人か相手に実践演習を行う教官になった。そこで、俺だけだとどうにも不安な要素がある上に人数も例年に比べ多い。人手が欲しくてな」

「まさか私達にその演習の手伝いをしろと?」

「報酬は払う、食事の提供もしよう。悪い話ではないと思うが?」

「そうね、話としてはいいけれど……」

「それにどちらにしろそこに来る新人は裏の方だ。遅かれ早かれお前達を知ることになるのなら早い方が良い」

「……はぁ、わかったわ。他二人の了承が得られれば受けるわ」

「助かる、ではこの書類を今渡しておく。ブリーフィングは0930に、第三ブリーフィングルームで行う」

「了解」

 蓬は艾から書類を受け取る。その中を見ている間に、艾は紙コップの中身を飲み干し立ち上がっていた。

「俺は戻る。また後で会おう」

「えぇ」

 ゴミ箱に紙コップを投げ入れた艾。書類を入れたファイルを片手に蓬に背を向け歩いて行くのを、蓬は簡単な笑みと共に見送った。

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