第二十二相 瑠璃色は紅を求めたい

 学生の本分、そう問われまず出るものと言えば勉学だろう。と言うか、学と付いた身分である以上学びを行うことは最早前提条件だ。その学びの程度を測るテストが控えているならば、大抵の学生はその準備に追われる。中には清々しく何もしない人間もいるが、前日ともなれば流石に足掻きの一つもするものだ。かく言う俺は特に何も変わりの無い状態、普段からやっていることが変わらないので特別意識をすることでもない。去年と違う所と言えば、主席から順位を落とした場合のデメリットが大きくなったので油断の無いようにする必要ができた事か。あとはまぁ、その他にも色々と。

 そんなテスト前日、今までなら半日授業を終わらせた後に家にさっさと帰り勉強する所だが、今回は違う。今俺は見慣れたというには訪れ過ぎた雪乃の自宅に来ていた。自宅――――と言うには大きすぎる。邸宅?館?屋敷かもしれない。とにかく今俺は雪乃の自室に来ている。理由は単純、勉強会をするためだ。

 図書館では難しい口頭での指摘もしやすく、人目も気にならないここで、不知火学園生徒会は今日ここに集まった。

「皆お疲れさまー、荷物は適当に置いておいて。今からテーブルとイス用意してもらうよう言ってくるから」

「わー、雪乃のお部屋は久々ですね!」

「ちょっと瑠璃、声大きいから静かにして」

「あははー……ごめぇん結乃」

「ゆきのんの部屋はいつも思うけど大きすぎない?ねぇ夜姉」

「ご両親を考えれば普通な気もするけれど、そこのところどう思うかしら?我妻君」

「別に、感想らしい感想も無い」

「貴方には馴染みの無い物だと思うけれど」

「さてな、檳榔子は?」

「後ろです、七望が少し疲れていたので遅れてきました」

「ご、ごめん……」

「体力の問題か」

「そうですね、銀士郎さんの様に体力がある子ではないので」

「…………」

 今会話をした黒髪のサイドテールが特徴の女子、檳榔子いろはがこちらを見ながらそう言った。その表情は何時もと何ら変わらぬものだったが、俺にはわかる。コイツの視線は俺の呼称の仕方に対しての疑問と挑発混じりのものだ。つい先日知ったことだが、コイツはゲーマーだ。雑談の中でわかったことだが、檳榔子いろはと言う人間が重度のゲーム好きな人種であり、普段は貞淑瀟洒気品を保った立ち振る舞いをしているが、ひとたびその素性を知られた人間となると途端に饒舌になる。ゲームのラインナップ的にオンラインでのものが多かったので、コミュニケーションが取れる人間であるというのはなんとなく想像がついたが、しかしそれにしてもこの変化に慣れることは当分ないだろう。視線だけで人を弄ろうという魂胆が見える人間だと知るには些か早かった気がした俺は、その視線から逃げるために黙って部屋を出ようとする。廊下の先、テーブルとイスが仕舞われているであろう部屋へと行くことにした。人手はあるに越した事は無いからだ。

「どこ行くの? ぎんじろー」

 その俺の袖を引き立ち止まらせたのは、青い髪を右側に流し片目が隠れた顔を向けてくる七望だった。

「……テーブルとイスの移動の手伝いだ」

「私も行く」

「非力な上に今しがた疲れ切っていたばかりだろうお前は。大人しく待ってろ」

「行く」

「だから――――」

「行く」

「……勝手にしろ」

 こめかみに手を添える。つい先週くらいまで俺が考えていた白群七望と言う人間は、自己主張が少なく大人しい人間だった。だが、数日前にあったやり取りから急激に距離を詰められた。心理的に。どうにも人間関係の構築を積極的にしてこなかった七望は、距離の詰め方を知らないらしい。あまりの変化に他のメンバーも訝しみを通り越して呆気にとられたまま追及もできなかったほどだ。俺に至ってはそれを指摘したにもかかわらず押し切られたような有様。最早何も言えないが、しかし、不快感や拒否感がある訳でもない。好意的に接してくるのなら適切に対応すればいい、それだけだ。

「ぎんじろーは雪乃の家に来たことがあるの?」

「どうしたいきなり」

「だって進む足に迷いが無いから、後雪乃が出ていった後なのに行き先に迷いが無かったから」

「…………あー」

 そう言えばコイツは俺に輪をかけて人間観察を良くする人間だったことを思い出す。何の気なしに行った行動だったが、そこを指摘されると考えていなかった俺は気の抜けた声しか出せなかった。

「……そうだな、俺はここに来たことがある。何度かな」

「何回?」

「何回かだ」

「結構来ていると」

「国語の授業が必要か?」

「数学の授業も必要そう?」

「わかっているなら変な追及はするな、やましい事は一切無い」

「私はぎんじろーの事を知りたいし、そう言う人に限って何か裏がある。推理小説でもよくある発言」

「引っ掛けの場合が最近は多いだろ」

「かもね」

 やはり普段からそう言った書籍を読んでいることもあり人の観察や行動・思考の予測に慣れているのだろうか。俺は心理学を学んでいる訳でもないのでわからないが。

 そんな話をしている内に、目的地であった部屋の前に着く。勝手知った流れで扉を開けると、使用人である執事と話をしていた雪乃がこちらに振り向いていた。

「あれ? 銀士郎君どうしたの? 七望も」

「運び出しの手伝いに来た、コイツは勝手に着いてきた」

「酷い言い草」

「事実だ。東雲さん、俺が手伝いに入ります」

「おや、それはありがたいですな。どうにもこの老体には厳しいと思っていたので」

 俺が呼んだ柔和な老齢の男性は、雪乃の家と彼女の父に仕える筆頭執事である東雲さん。程よく歳を重ねているとは思えない姿勢の良さとハリの良い肌、未だ健在の白色の髪と髭はしかし老いを感じさせることが無い。しかしそれでも肉体は衰えがある。その体を無理させてまで若い人間がもてなしを受ける訳にもいかない。何より俺はこの人と個人的な縁――――と言うには範疇から出ているが、繋がりがある。手伝いを申し出ても何ら不都合はないし、勝手も知っている。

「じゃあ東雲、銀士郎君とか他の人に指示をよろしく。七望は私と部屋に戻ろっか」

「ぎんじろーの手伝いをする」

「……絆したねぇ銀士郎君?」

「語弊がある、俺は何もしていない」

「それやった人間が言う常套句じゃない?」

「最近は引っ掛け――――これさっきもやったな。とにかく何もやっていない。そして七望は戻ってろ。テーブルもイスもお前には重すぎる」

「そんなことないもん」

「ある、良いから行け」

 俺は七望の背を押し部屋の外へと歩かせる。半眼を向け不満げな顔をした七望を無視し、雪乃に向き直る。

「すぐに向かう。他の奴らには道具の準備だけさせておいてくれ」

「わかったよー、よろしくね」

「あぁ」

 扉を閉める。雪乃に手を引かれ去っていった七望の顔に溜息を吐きながら東雲さんの元に戻ると、随分と楽しげな顔で笑っていた。

「どうしたんですか」

「いいえ、貴方が随分と楽し気に雪乃様以外と会話をされているのが見られたので、この東雲、大変嬉しく思いまして」

「孫を見る祖父じゃあるまいし……それに今楽し気でしたか? 俺は」

「えぇ、普段の緊張と静謐に染まったお顔ではありませんでした。そうですね……年相応、とお答えするのが無難でしょうかね」

「普段からそこまで強張った顔をしているつもりはないんですがね……」

「ふふふ、良いことです。昔の貴方の様で」

「恥ずかしいので昔の話を出さんでください……運びましょう」

「今他の若い者を呼びました、来次第始めましょうか。お飲み物は希望はありますか?」

「俺は紅茶、暑いのでアイスのディンブラを。他の奴らは運びに行った時に聞きましょう」

「かしこまりました。銀士郎さんはお好きですね、ディンブラ」

「えぇ、まぁ」

 談笑もそこそこに、見知った俺よりも歳が上の燕尾服を纏った男達が集まってきた。東雲さんの指示で各自がテーブルやいすを運び出していく。俺もそれに従い、椅子を数脚持って部屋を後にした。





 勉強会が始まってから二時間が経過していた。各々が補強すべき教科のテキストを開きペンを走らせながら、時折得意教科を教え合う至極普通の勉強会だ。若干の相違と言えば、俺が適宜全教科を教えていることだ。誰が――――と言う答えはとっくにわかっているが、どこぞの黄色い女が瑠璃に勉強を教えていることをそれとなく言ったらしく、矢継ぎ早に他の面々がテキスト片手に俺の所へとやってくる。ここにいる人間の大半がテスト順位の上位に居るのに、今更俺が何を教えるのか。そう思いつつも断らない自分の性分を呪いながら、俺はその元凶である向かいに座った雪乃と、俺を挟むように両脇に座る白百合姉妹に世界史を教えていた。教えるべき事なんてそもそもないはずなのだが、コツ位ならと言う判断だ。

「ねーねー我妻君」

「テキスト見てろ」

「つれないなぁ、我妻君なに飲んでるの?」

「ディンブラ」

「新手の飲料水?」

「ディンブラはスリランカの山岳地帯で作られている紅茶よ、月乃。渋みはあるけど飲みやすいから高価な割に好む人が多いらしいわね」

「よく知っているな」

「ちょっとした知識よ、我妻君が知ってて飲んでいるのが意外だけれど」

「銀士郎君は私の家でよく飲んでるからね、色々飲ませてる内に、普段飲みの紅茶はディンブラになったんだよね」

「そんなに来てるの?」

「意外ね」

「偶々だ、それより146頁開け。文字を頭に叩き込むんだ」

「うへぇ……横文字覚えるの面倒臭いんだよなぁ……」

 月乃が机に勢い良く突っ伏した。それによって揺れたティーカップの中の紅茶が波紋を作り出しながら、縁をゆっくりとなぞり元に戻っていく。大丈夫だったとは言え紅茶が零れそうになったので、俺は手刀を作り月乃の脳天に軽く振り下ろした。

「あぐっ……!」

「揺らすな、ノートに紅茶が零れたらどうする」

 ゴス、と。重い音がしたかと思うと、月乃は頭を押さえ低く呻き声を上げる。自業自得だ。

「わー銀士郎君酷いなぁ」

「わざとらしい芝居は止めろ、溢されたら困るのはお前だぞ」

「おっしゃる通りで」

「月乃、危ないからそう言う勢い任せの行動は駄目って言ったでしょ」

「ううう……ちょっと揺らしちゃっただけじゃん……」

「そのちょっとで俺の懐に大ダメージなんだ」

「弁償するし……」

「安易に金で解決しようとするな」

「まぁまぁ銀士郎君、とにかく勉強に戻ろ?」

「……はぁ、雪乃に感謝しろよ。それじゃあ開いた場所に関してだが――――」

 これ以上言っても仕方がない。そもそも未遂の人間をいつまでも問い詰めるのはナンセンスだ。雪乃がいいタイミングで方向修正をしてくれたので、それに乗っかりテキストに目を戻す。語呂合わせと紐づけをとにかくこの三人には教え込んだ。俺のやり方で筋道を作り、自己流の覚え方を見つけさせるのがベターなのだが、今は時間が無い。とにかく反芻をさせた。何もしないよりはマシだろう。





 視線が痛い。勉強会を始めてから三時間半ほどだろうか。小休憩を挟みながらではあったが、流石に一度大きく休憩を取ろうということになり、他の面子は今客間に移動しティータイムの時間を楽しんでいる。俺はと言えば、もう少しやっておきたい区切りのいい場所があったため、一人残りそこをこなした後に合流する予定だった。もとより長時間の勉強に慣れているので然程休憩を必要としていなかったのもあるが、折角の女子の集いだ。男が混ざるのは無粋だろう。そう思っての事だったのだが――――その意図が通じていないのか、目の前に頬杖を突きこちらを射殺す様な眼で見てくる存在が居た。悪意の視線や殺気には慣れているつもりなのだが、彼女の視線は意図が一切読めないせいで不気味な感覚がする。と言うか、いくら人間カテゴライズで関係性を保っているとは言え、不必要に接触する必要はないのではないか。疑問を混ぜた視線を送れば、一切逸れない視線が返ってくるのみ。諦めた俺はテキストに目を戻した。

「何の理由でアンタは勉強をそこまでやってるの?」

 声が降ってきた。視線を再び戻す。紅色の髪を片側に束ね、釣り目気味の赤い瞳を向ける彼女、紅は俺にそう問うてきた。

「何故……か」

「考えるようなことかしら」

「具体的に考えた事は無かった。理由らしいものといえば得ていて損が無いことと、人の役に立てる幅が広がるくらいか」

「それで学年一位に? それじゃあ理由は弱いように思えるけど」

「そうは言われても俺にとってお前の問いに返せる答えらしい答えはこれだけだ。それ以外を望むのなら諦めてくれ」

「そ……」

 再び無言になる。一体彼女は何がしたいのかがさっぱりわからない。理由が無い以上客間で談笑でもしている方が生産的ではないのか。彼女の価値観がわからない。ここで行われているのは男が一人ノートにペンを走らせているだけだ。

「ねぇ」

 考えを巡らせながらも尚テキストに集中していると、再度紅から声がかかった。手を止め顔を上げる。

「なんだ」

「何変な気を遣ってるのかは知らないけど、さっさと客間に行かないと後が煩いわよ」

「…………何のことやら」

「沈黙が暗に肯定してるわよ」

 五割はバレていたらしい。微妙に恥ずかしいが、しかしコイツは雪乃に次いで俺の意図を推し量るのが上手いのは既に知っている。何故かはわからないが、俺の情報の伝達量が少ない時、特に風紀取締時にその力は発揮されている。注意喚起の際俺は言葉が少ないらしく、時折角の立つ言い方になってしまうことがある。そう言う時、紅の補足で事なきを得た場面は幾度かあった。その甲斐あってか今まで大きな問題は起きず、紅自身も俺との適切な距離感を測り終えたのか、最初期の頃よりは気持ち雰囲気は軽くなってくれていた。未だに言葉は鋭く視線は常に突き刺してくるようで、真の意味で朗らかに会話をすることはまだ先なようだ。現に今の会話も随分とまぁ平坦なトーンの言葉の応酬だった。

「雪乃と月夜にもバレてるわよ、多分」

「だろうな、お前にもバレている」

「認めたわね」

「隠しても利が無い」

「そう」

 くるりと手元でペンを回す。会話によってテキストの内容から意識が逸れ、どうにも集中力が途切れた。このままできない訳でもないが、頭に入ってくる情報は少ないだろう。俺は小さく息を吐き、テキストとノートを閉じると体を伸ばした。乾いた音が体から出る。

「ん……行くか」

「そうね、私もやっと休めるわ」

「別にお前がここにいる必要は無かっただろう」

「居なきゃアンタ、何時まで経っても来ないでしょ」

「……そんなことはない」

「嘘は上手く吐きなさい」

「精進する」

 椅子から立ち上がり、廊下に出る扉に向かう。紅もそれに続いて部屋を後にする。少し先の客間から紅茶やコーヒーの香りが漂ってきているのを感じ、緊張していた意識が緩やかに弛緩していく。若干の心地良さを感じながら、俺は客間の扉を開けた。





 定期テスト、それは今までの私にとって拷問にも似たものだと思っていた。勉強が苦手で要領もあまりよくない私は、何とか赤点で追試になるのを避けることが精一杯だった。赤点を回避しなければスポーツ特待生でも一定期間部活を休まされてしまう。結果を残さなければ特待生の権利を剥奪されてしまい、学費の軽減も無くなってしまう。だからこそ二年生に上がった時、一念発起して自習に励もうとした。

 その時に現れたのが銀士郎さん。なんとびっくり学年主席と言う私とは順位が全く逆で、実際に勉強を教えてもらった時は本当に教え方も上手く、私の知らない事も沢山知っていた。私が中々教えてもらった事を理解できなかった時は、何度も何度も教えてくれた。自分の時間を使って小テストや要点を集めたノートを作ってくれて、必要ならば夜はチャットアプリを使って、慣れないのに教えてくれたりもした。銀士郎さんから見れば私は出会って数ヶ月の人間なのに、ずっと、ずっと。

 でも私は銀士郎さんに言っていないことがある。それは、実際には大したことではないのかもしれないけれど、私にとってちょっとした秘密な事。

 私は銀士郎さんを知っていた。と言うより、一方的に顔だけを知っていた。何故かと言われたら、その答えは部活動で見たことがあったから。

 銀士郎さんは部活の掛け持ちで助っ人に度々行っているらしい。籍自体は空手部に置いているけれど、私が所属している陸上部にも何度か来ていたのを見たことがある。男子の方に混ざっていたので会話をしたりする事は無かったんですが、その成績の良さと男子の先輩への印象の良さで、臨時部員ながら凄く気に入られていたのが傍目からでもわかった。顧問の先生とも仲が良いのか、大会終わりに顧問や先輩にご飯を奢ってもらったりしていたとか。とにかく、実力も人当たりもいい人と言うのが私が抱いていた印象だった。

 そんな取り立てて関係が変化しないまま二年生になってから少しした時。生徒会に新しい人、それも男性が来るという知らせが雪乃から届いた。チャットアプリに表示された名前に見覚えがありつつも思い出せなかった私が廊下を歩いて生徒会室に向かおうとした時、前を歩く背に見覚えがある事に気が付いた。それが銀士郎さんだった。

 なんとなく察しつつも後ろを着いて行くと、どんどんと生徒会室の方へと歩いて行く。推測が確信に変わった時、銀士郎さんが立ち止まり何か考え込んでいる様な顔をしていた。きっと入り辛さで立ち止まったと私は思い、後は銀士郎さんに話しかけて生徒会メンバーに合流。

 簡単に言えばこうだ。私は銀士郎さんを知っていて、銀士郎さんは私を知らなかった。二年生に上がってからは顔見知りになったので、陸上部でも何度か会ったりはしている。だから私は、銀士郎さんと仲良くなりたいと思って沢山お話ししようとした。バタバタとしてしまい自分が考えていた繋がり方とは異なってしまったが。

 さて、過去を振り返って現実逃避をしても事実は無情にも私の目の前に迫ってくる。言ってしまえばテスト返し。遂に私の進退が決まる日が来た。この結果の是非で、その、銀士郎さんにどう思ってもらえるかが変わる。先生に一人ずつ呼ばれていくのを、私は心臓を高鳴らせながら待つ。斬首台で待つ人はこんな気持ちだったのだろうか。流石に失礼かもしれない。

「胡桃」

 先生が私の名を呼ぶ。それを聞いて立ち上がり、重い足を必死に動かしながら成績表を受け取った。





「お疲れ様です、銀士郎さん」

「あぁ、早かったな瑠璃」

 放課後、日が傾いてきた時刻に私は何時かの日に銀士郎さんと訪れた、小高い丘の上の公園に来た。そこには、ベンチに座りテストが終わって何日もしていないのに参考書とにらめっこしている銀士郎さんが居た。ここに来た目的は一つ。銀士郎さんにテストの結果を、私の成果を報告するためだった。

「遅くなってごめんなさい、部活のミーティングと馴らしをしていて……」

「気にしなくていい、時間に追われている訳ではないからな」

「それならよかったです」

 内心私は焦りと緊張、若干の恐怖心に揺れていた。私は銀士郎さんに褒めてもらいたくて頑張ってきた。邪な動機かと思われるかもしれないが、でも私にとっては何より欲しい、ずっと求めていたものを初めてもらえるかもしれない機会だった。震える手で鞄の中から一枚の紙を出す。そこには私の成績、二ヶ月少しの努力の結果が記されていた。私はあえてその中を学校では見ないで、銀士郎さんと見ようと思っていた。

「私も見ていないので、一緒に見ましょう」

「あぁ」

 カサ、と音が鳴り、中が開かれる。そこには――――。

「……現文が46点、古文が44点、数学が39点、英語が45点、日本史が67点、世界史が54点、化学が41点、生物が48点か」

「…………どう、でしょうか?」

 不知火学園での赤点ボーダーは30点、赤点回避は勿論できていた。苦手な理数英科目は低いが、それでも前よりは少しずつ点数が上がっていた。そして何より、比較的得意だった社会科目が満点の半分を超える点数を初めて取れていたことに、私は思わず声を無くしてしまった。

「…………」

「あう……あう……」

 じっと黙ってプリントを見つめる銀士郎さん。それが何を意味しているのか分からない私は、右往左往と視線を泳がせる。

 ――――駄目だったのだろうか。期待に沿えなかったのだろうか。落胆されてしまったのだろうか。

 そう思うと、目尻から涙が出そうになってくる。やっぱり私は人の期待に応えられないのか。銀士郎さんをがっかりさせてしまったのか。褒めてもらえないのだろうか。そんな思いが滾々と湧き出てきて、目から涙が零れ――――。

「よくやったな瑠璃、お前は過去の自分を打破できた」

 ポンと、頭に手が置かれた。

「俺が言うのはお門違いかもしれないが、とても嬉しい。誇らしく思う。お前は俺の拙い教え方に真面目に、根気強く向き合ってくれた。そして俺はお前の成績の向上のための助けになれた。それが俺にはとても誇らしいと思うし、自分のこと以上に嬉しい。本当によくやった。おめでとう。お前の努力が実を結んだんだ、もっと笑え」

 銀士郎さんが、普段の怖い顔じゃない、とても嬉しそうな顔で私を見ている。大きな手が優しく私の頭を撫で、髪を梳くようにしてくれる。気持ちいい。嬉しい。褒めてくれた。私の努力を認めてくれた。本当に、私を見てくれて私の努力とその結果を褒めてくれた。

 ダメだ。ムリだ。我慢できない。

「…………瑠璃?」

「ちが……うんです…………わた、し、嬉しくてぇ……」

 嗚咽交じりにしか答えられない。ちゃんと感謝を伝えたいのに、私は言葉一つ返す事も出来なかった。

「……お疲れ様、瑠璃。今すぐ何かを言おうとしなくていい。今は自分の努力を認めて、その感情を忘れないように覚えるんだ。きっとそれは、次の、その次のテストにもつながるモチベーションになる」

 普段なら絶対に銀士郎さんはしないことをしてくれたのに気が付いたのは、少し間があってからだった。私の体が抱き寄せられて、銀士郎さんの腕に包まれていた。その事実に気が付くと、私は急激に体と顔が熱くなった。

「ぎっ……ぎぎぎぎ銀士郎さん……!?」

「お前が誰かの称賛を求めているのなら、俺がそれをもたらす一人目になる。お前は決して褒められるべきでない人間ではない。努力を積み重ね、ひたむきに進むお前を俺は好ましく思っている。だから、今はその褒章を享受するんだ。随分と陳腐なものだがそこは我慢してくれ」

「ぎんじ……ろう、さん」

 だめだ。もうだめだ。ゆだったあたまではもうなにもかんがえられない。なでてくれて、ほめてくれて、それだけでいっぱいなのに。

 だめだってわかってるのに、わたしはつい、だきかえしてしまった。

「ありがとう、ございます。わたし、いま、とってもしあわせです!!」





 私はテストが嫌いだった。私は勉強が嫌いだった。私は赤点が嫌いだった。私は褒めてもらえなかった。

 でも、銀士郎さんが、私のそのすべての問題を一気に解決してくれた。初めて私を認めてくれた。私を褒めてくれた。あの紅い瞳で、私だけを見続けてくれた。





 ――――私は赤から逃れたかった。





 ――――私は、紅が欲しくなった。

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