第十七相 消えぬ魔性の観測者

 道場の門の前に私は立っている。着替えをしてくると言った我妻君に門前で待っていて欲しいと言われた私は、だんだんと落ちていく夕陽を眺めながら、彼の祖父から聞いた話を――――彼の過去と彼の抱える問題を思い出していた。

 と、鈍い思考で何とか考え始めた時に、肩を軽く叩かれる。

「すまない、待たせた」

「……ううん、大丈夫」

「行くか」

 彼に促され、影が伸びる夕暮れの街を歩く。そこに会話は生まれず、沈黙のままに足は依然として前へ前へと動いて行く。何かを聞くべきなのはわかっているのに、私の口は一向に開くことなく、接着剤でも塗布したかの様に硬直し横一文字を貫いていた。

 彼の祖父から聞いた話。彼を彼たらしめる、今の彼を作った過去。不明瞭な硝子を幾重にも作り出し、人の観察が得意な私でもわからなかった彼の姿が、今は少しだけ見えてきた。

「あの……」

「爺さんから話は聞いた」

 私の言葉を遮るように、彼はそう言った。それはつまり、彼にとってあまりいいものではない話を私が聞いたことをわかっているということだ。

「……ごめん、なさい」

「過ぎたことだ、まさかそこまで俺に関心を向けていたとは予想外だったがな」

「……わからない、なんで私もここまで我妻君に関心があるのか」

「それなら俺はもっとわからないな」

「……あの、我妻君」

「なんだ」

 声が震える。何故か、わからない。この質問をして彼の怒りを買うことになる未来を予感したからなのか、それともこれまで築いてきた関係が白紙に戻ることに怖れを抱いているのか。だが、これを聞かなければ、彼の核を見ることはできない。

「我妻君は、女の人が嫌いなの……?」

 自分でも驚くほど曖昧な質問。どう言うことが嫌いなのかではなく、総体が嫌いなのかどうか。こんな質問、ほんの少しの針の揺れで答えは真逆に容易く変わる。失敗したかと思いながらも彼の顔を見れば、ほんの少しだけ目を見開いている。

「……そうだな、その質問の仕方なら答えは否だ」

「女の人が嫌い、って訳ではない?」

「女性と言うものに嫌悪は抱いていない、正確には不義理で人の感情を踏み躙る女性……と言うか、人間が嫌いなだけだ」

「それは、我妻君の…………お母様の影響……?」

「あの女にそんな敬称は不要だし、俺はあれをもう母とは思っていない」

 彼の声は、人一人くらいなら殺せそうなほど怒気を孕んだものだった。関係ない身でありながら身震いすら感じるその言葉に、彼にとってその存在がどれほど大きいものなのかがわかる。勿論、悪い意味でだろうけれど。

「聞いたならもうわかっているだろうが、俺の親父は俺が中学生の時に死んだ。原因は過労とあの女のやったことに対してのストレスによる心因性のものだった。そして……便宜上母親とは言うが、奴は親父と結婚していた上に六人の男と関係を持っていた。それも結婚前からな」

 そう、私も先程その話を聞いた。彼の祖父と、そして今彼が話した話。その内容は、献身と正しさの末に命を落とした男性と、搾取と卑劣の末に甘い蜜を独占した女性の話。

 彼の父、我妻金時さんは私でも知っている企業で働いていたらしい。今の彼を見ていると信じがたいが、離婚をすることになるその時まで、彼の家は比較的裕福だったらしい。不都合の無い、幸せな家庭と呼ばれるものだと彼の祖父は言っていた。

 しかし、彼の元母親――――名は教えてもらえなかったが、その人はどうやら結婚する以前から大層男性人気が高かったらしい。学生時代には引っ切り無しに恋人がいて、その上で告白されることもザラだったという。そんな人が彼の父と結婚した理由はわからないが、金銭的にも家庭的にも満ちた生活で、それでもその人は裏切りを働いた。彼の父から多くの金銭を貰っていた上に、その時同時に関係を持っていた六人の男性からも貢がれていたらしい。同じ女性の目線で言えば、そんなことができる女性がいる事にも、そんなことをする男性にも驚いた。事実は小説よりも奇なり、とはよく聞くが、まさしくこれはその通りだと思う。私が今まで見てきた小説に、そこまで悪虐非道な話は無かったと記憶している。

 とにかく、彼の元母親はそういった事をしていた末に、父親の方にその行いが露呈した。そこで取った行動がまた驚いた。離婚と、親権を譲渡する代わりに不貞に関しての不問と多額の金銭の要求だった。当然そんな理不尽がまかり通っては、何が正義で何が善なのかわからなくなってしまう。だけど、彼の父親は彼とその妹を守るため、所有する財産の殆どを奪われることと引き換えに親権を獲得した。そして、元母親はそのまま姿を消した、らしい。

 掻い摘めばこんな話。その話と彼の人となりがどんな関連を持つのかと言えば、その答えは簡単だった。私はすぐに理解できた。だけれど、それを敢えて、彼本人から聞く必要がある。その根底にある欲求には、それを聞いてから名をつけることにする。

「質問、していい?」

「…………そんなに俺が気になるのか」

「一年と少し、我妻君の事を見てきた。会話は少なかったけれど、あなたの事は見てた。でも知らない、見せてもくれない。私は我妻君の事が知りたい、だから――――」

「待て、わかった……聞くだけ聞け。答えるかは俺が決める」

「うん」

 ようやく、彼を見ることができる場所に来られた。ずっとぼんやりとした陽炎の様な姿しか見えなかった。会話をしなかったせいとは言えばそうなのだが。私は歩きながら込み入った質問をするものじゃないと思い、彼の手を引き近くの公園まで来た。もう子供たちも帰ったのか中には人影はなく、もの悲し気に佇む遊具と寂れたベンチだけがあった。

「座って」

「……あぁ」

 先に私がベンチに腰を掛けると、我妻君は気重そうな顔で立っていたので座るよう促す。一瞬逡巡したような間を開け、ゆっくりと隣に腰を下ろした。

「それで、何を聞きたいんだ。俺みたいな然程も価値の無い人間に割くリソースは少ない方が建設的だがな」

「その量は私が決めるし、我妻君の事を私は重要な存在だと思ってる。それを本人が貶すのは見てていいものじゃないからやめて欲しい」

「…………で、なんだ」

「一つ目、あなたが雪乃が言っていたようにある特定の知識を意図的に避けている。それはあなたの元母親のせい?」

「……それを知ってどうするんだ?」

「知ってどうするかは教えてくれたら答える。イエスか、ノーか」

「……イエス」

「因みに聞いた理由は私の今後の行動の指針にするため」

「……?」

「少し掘り下げるね。具体的にどんな要因のせいでそうしているの?」

「……細かいと言われればそれまでだし不本意極まりない上にできれば目を逸らしたいことだが、俺にはあの女の血が流れている。それがどういう意味か分かるな?」

「自分で説明して」

「…………」

 そんなに自分で説明するのが嫌なのだろうか。ここまで情報を出されれば、私でなくても察しはつくのだが、やはり今は彼の言葉で明確に聞きたい。

「……その、異性をだな、惹きつける……? 関係をある程度深めた異性から不自然なくらい好意を持たれる……と言えばいいのか。そういった性質が俺にはある。自覚無しにそれが働くし、それで昔に、まぁ……中学生の時に一悶着あった」

「……最後の話はびっくりした」

「とは言っても、周りで修羅場になっていて当の俺は置き去りのまま。何時の間にか俺は渦中の人間になり一つのコミュニティを崩壊させた。自分の意思ではないとはいえ、それは紛れも無く俺の性質によって起こったことだ。だから俺は、自分はそう言う事に関わってはいけないんだと理解した」

「その結果が、今の我妻君?」

「あぁ」

 修羅場、色恋沙汰。誰かに好意を持ち、一人を求める様式を持つ人間の文化圏ならばそれは何処でも起こる可能性を飼っている。その色欲の獣の群れは往々にして誰かの勝利に終わるか、もしくは誰もが敗北に沈む。もしかしたら鮮血の幕引きで終わるかもしれないし、誰もが不幸になる結果もあるのかもしれない。私はそれを、現実には見たことが無くても文字の森の中で見てきた。あらゆる結末を、紙と言うスクリーンの先にある、決して届かない舞台の上で虚構の住人が躍る様を眺めている。何もできない私ができるのは、何かをしている誰かの観客になる事だけだから。

 しかし、彼はその中心となる立場で一つの世界を壊したという。どんな経緯かは知る由もないが、でも、多分彼は何も悪いことはしていなかったのだろう。ただでさえまだ何も知らない中学生という歳を考えても修羅場と言う状況は酷なのに、更には彼が言っていたようにその時点で恋愛と言うものを何も知らないままだったのだろう。それが多分、彼の今の人格を形成している。人の事だけは散々見てきた自分だ、大きくその予想を外している訳ではないだろう。

「ありがとう、二つ目の質問をして良い?」

「構わない、ここまで来たら大抵の質問は答えられる」

「うん、じゃあ言うね」

 彼の事は今の質問と表情の移り変わりでなんとなくわかった。雪乃の言葉を加味していうならば、彼は恋愛と言うものや女性そのものに嫌悪感を抱いている訳ではない。その苦い過去の経験と、自身の持つ性質と、あまりにも大きすぎる負の遺産の存在による影響が誰かに降りかからない様に、自分の今を代償に抑え込んでいるんだ。彼ほどの魅力ある人間が、それを自ずと封じる。それは駄目だ。彼こそ、人々から認められ表に立つべきだ。学園での彼の風評と彼の活動実績が一致しないのがその最たる結果だろう。いっそ嫉妬すら抱く彼が、称賛も、礼賛も、愛も受けぬまま生きる様を、何もない自分は何より認められなかった。たとえ自分勝手な感情だとしても。

「我妻君は、今の自分に満足している? 自分の今を誰にも認められないまま消費して、通るべき道を通らずに終わっていいと思ってる?」

「……何を買い被っているのかわからないが、俺には何もない。空っぽな人間が通るには妥当な道だと思ってる」

「嘘。私から見たら、我妻君は……嫉妬でどうにかしそうなくらいに沢山出来るものを持ってる」

「はは……できる、か」

 彼は乾いた笑いを吐き出した。それに私は少し眉根を顰める。今の何処に笑うことがあるのかと、空っぽの私を嘲笑しているのかと思ったが、次に彼がこちらに向けた顔は、初めて見つけた『同じ顔』だった。

「俺には何もない。気が付いたら手に入れていたもので、何時の間にか何の感慨も無く通り過ぎていく。俺が自分で積み上げたものは勉強だけ。それも結局井の中の蛙であり、気を抜けば俺はたちまち俺のアイデンティティを失うんだ。俺はそれが怖いから、俺を捧げてでも誰かのために生きる。その過程で、誰かのための道筋に不要なものはいくらでも棄てる」

 例えば色恋とか。

 そう彼は言った。何もない、その言葉は彼とは無縁だと思っていた。今もそう思っている。彼はあらゆるものに秀でているし、一定以上をこなせる。なのにそれは自分の物ではないと、いっそ腹立たしい傲りの言葉にも聞こえるようなそれは、悲痛な叫びにも聞こえた。私の様な凡庸な人間には決して届かない世界に、彼は立っているはず。なのに、彼の瞳には私の姿が映っていた。何故。あなたは私の知らない場所に立っているはずなのに。

「何より今は女所帯に居るからな。俺のそれで今まで築いてきていた輪を俺一人のせいで壊したくない。必要なら即俺を切っても問題ないくらいには、ここ二か月お前達を見ていて思った。あそこはかけがえのない場所だ」

「…………うん」

 そうだ。あの生徒会は、あの仲間は今よりももっと前からずっと一緒に歩いてきた仲間で、それがもし壊れてしまうのなら全力で阻止する。私を受け入れてくれたあそこを。

「あと……あまりこう言う事を言わないから気恥ずかしいが。俺はお前が何もない人間だとは初めから思っていない。お前にはお前にしかないものがある。例えば……人を良く見ている事とかな。人間観察で周りへの気配りを忘れないお前は人として尊敬できる」

「っ……!」

 思わず目を見開き彼の顔を見ると、意地悪な笑みでこちらを見てきていた。

「見てないと思ったか? 残念ながら俺も人の機微を見るのは得意でな、人との関わりを減らしていた理由はさっき言った通りだが、関りを持つ必要がある以上は人を見るようにしている。だから俺は知っている。お前が仕事の合間に細かな仕事をやっていたりな、誰にも気が付かれない様に」

 ――――こういう時はどういう顔をすればいいのだろうか。自分をそう評価してくれた人も、自分が無意識にやっていたことに気が付いた人も、今まで見たことが無かったから。つい俯いてしまう。自分が彼に質問をぶつけ、彼は難しそうに答えて言って、それで終わるはずだったのに。

 今までずっと心のどこかで求めていた言葉を、それでも自分には何かあるのではないかと夢想していたことを、今私は彼に言われて、示された。それは決して気休めの空っぽな言葉じゃなく、的外れな言葉でもない、私を真っ直ぐ見てくれた彼の私の評価。多彩で、勤勉で、愚直で、自分は彼に並べる事は無いと思い見上げていたはずの彼の姿は私の幻視で、実際の彼は私の横に立っていてくれていた。その事実は私の心を激しく揺さぶってくる。普段からポーカーフェイスをしているおかげで顔に表情が出なくてよかった。

「……私の事、見てたんだね」

「一年の時、図書室で何度となく見ていたしな。どんな本を読んでいるのか気になったのもあったが、委員でもないのにこまめに本の整理や机の整頓をしていたのもな」

「ちょっと……恥ずかしい」

「胸を張れ、白群。俺はお前を何もない空っぽだとは思わない。自分が信じられないなら、少しは自分を信じている誰かを信じて見ろ。お前に足りないのは自信と積極性だ。それがあればお前はもっと魅力ある人間になれる」

「……我妻君」

「俺にはそれができないからな、他力本願のようになるのはみっともないが……白群はもっと色々できると思うとそれを助けたいと思った」

「……私が我妻君に質問して、我妻君の事を知って、それで終わりのはずだったのに」

「すまないな、俺はこう言う人間だ。とにかく、俺は俺の忌々しい性質に気を付けながら生きるだけだ。俺に気を向けるより、白群は自分を――――」

「なら」

 遮る。遮るべきだと、自分の中の何かが言った。今を逃せば、後悔に沈むと。まだ名前も付けていない感情が私を揺さぶり、座っていた姿勢からその場に立ち上がると彼の前に立つ。

 右側が長い髪を軽く揺らしながら、私と似た瞳の彼を一切の隙無く視線で射る。彼は珍しく驚いた顔をしていた。いや、珍しいのではなく見せていないだけなのだろう。その顔が面白くて、そして私がそれを引き出したという事実に若干の優越感を覚えたので、普段はあまりしない笑みを向けた。きっとこの笑みは、彼にしか見せたことがない。私と彼だけのもの。何もないと思っている私と、何も無いと思っている彼。似た者同士で、その実今のままでは一方通行になりそうな関係を私は望んでいない。

「なら」

 だから、私は彼の言葉を信じて自分が何かを持っているかを見つける。その代わり、

「我妻君は……ぎ、ぎんじろーは、私を見ていて。私は、ぎんじろーを見るから」

「…………は?」

「一応……見知ってたのは一年前だし、お互いをよく見るなら、その……名前呼び……」

「……いきなりその呼び方をするお前は距離の詰め方から勉強した方が良いかもな」

「…………煩い、嫌なの?」

「別に……なんと呼ぼうが構わない」

「じゃあ私の事も」

「………………七、望」

「ちゃんと呼んで」

「……なんでこんなことに」

「拗ねるよ、泣くよ。名前を呼ぶことを躊躇われたって」

「やめろ、わかったから…………七望」

「……うん」

「クソ……なんなんだ今日は。しかも見ていろってどういうことだ……?」

「そのまま、私から目を逸らさないで。私が何もなくなって消えない様に見てて。観測されなくなったものはなくなっちゃうからってこと……ふふ、今日はお互いの親睦を一日で一気に深められたね。寧ろ一年間分の詰め方かも」

「意気揚々と何を……はぁ」

 ベンチに座ったまま項垂れる彼の頭を何の気なしに撫でてみる。女子とは違う髪質と乱雑に伸びる髪は、くすぐったくも飽きない感触だった。それに驚いた彼が、素早く顔を上げた。

「っわ」

 それに驚いてしまう自分に思わず苦笑してしまうが、直後後ろに下がった拍子に足をもつれさせてしまった。

 ――――転ぶ。そう思考では結論が出て、状況がクリアに見えていようとも、あまりよくない運動神経ではそれに対して受け身を取るまでにはいかなかった。このまま背後に倒れ、砂が服に付くからすぐに立ち上がり払わないと、そんなことを考え目を閉じた。人間の防衛本能で目を閉じてしまったが、やはり痛みに備えていても怖い。

「…………?」

 来るはずの衝撃も痛みも無く、不自然な浮遊感と腰に回る人肌だけが自分が感じる全てだった。恐る恐る目を開けると――――。

「っと、危ないな。気を付けろ、七望」

 彼が、ぎんじろーが。座っていたベンチから何時の間にか私のそばまで来ていて、腰に手を回して支えてくれていた。お陰で転ばずに済んだことに、少し間を開けて理解した。

「大丈夫か?」

 そのままの姿勢で私の体は彼の体に引き寄せられ、顔の細かな所まで見えるような距離になっていた。暫く何が起こっているのかわからず、ようやく思考が何時ものように動き始めた時、私は急激に体温が上がっていくのがわかった。

「あの……ちか……」

「足を挫いたりはしていないか? 今座らせる」

 私の言葉なんて聞かずに、彼は軽々と私の背中と膝裏に腕を通し抱き上げると、ベンチに優しく座らせてくれた。あまりにも澱みの無いその行動に、私は二の句も継げぬままされるがまま。仕方が無いだろう。いくら転びそうになった所を助けてもらったとは言え、至近距離の顔の突合せにお姫様抱っこ。立て続けにそれを、容姿も性格も良く整った異性にされれば照れの一つも出てしまうのは仕方のないことだと思う。

「よ……っと」

「……」

「……ん、捻挫とかはなさそうだな」

 ベンチに座らされた私は、スカートなのにそれを意にも介さずに足を持ち上げられ彼の太腿の上に置かれ、足首を観察される。何なのだろうかこの状況は。恥ずかしい。

「あの……ぎんじろー」

「ん?」

「私……今日、スカート」

「そうだな」

「…………足、持ち上げられたままだと、恥ずかしい……」

「……すまん」

 そう言って彼は私の足を地面に下ろしてくれた。ちらと彼の顔に視線を向けてみると、意外にも彼の顔は紅色の塗料を薄く塗り広げたようになっていた。意外だ、彼はこう言う事に反応はしないような気がしたが。

(……これが恥ずかしいことって、今知ったから?)

 知らないから平然とやる。それはデリカシーが無いからとか遠慮が無いからではなく、知らないが故の純粋な行動。それ故に、それが恥ずかしいとかあまりやるべきではないということがわかっていない。だが、今指摘したことによって彼の中に今の行為は恥ずべきことだと学習された。意図せず、私は彼に今まで避けてきていた知識を植え付けることができた。

「……今の、スカートの人の場合は一言言ってからやってね。いきなりだとびっくりするし、押さえられないから」

「…………あぁ、すまない」

「大丈夫」

 私は足に違和感が無いかを確認するために、ベンチから立ち上がり軽く足で地面を叩く。うん、大丈夫。痛みとかはない。

「うん……ねぇ、ぎんじろー」

「なんだ?」

 立ち膝の姿勢から立ち上がるぎんじろーの顔を見上げる。僅かな間で落ち着いたのか、その表情は何時ものように引き締められたものだった。

「これからよろしくね」

「……俺を見ていい事は無いぞ」

「あるよ、まだ知らない事が沢山あるから」

「なんでお前達は揃いも揃って俺なんかを……」

「お前“達”?」

「……何でもない」

「何でもない事にしておいてあげる」

「…………」

「ちゃんと私を見ててね、私もぎんじろーを見てるから」

「……飽きたら何時でもやめていい」

「ふふ……」

 頬を掻き眉尻を下げるぎんじろーの顔を見て思わず笑ってしまう。彼を良く知らない頃、この人は凍てついた心で誰にも関心が無いのだろうと思っていた。でもそれは違った。今日一日で、私は彼を良く知れたと思う。誰かのために自分を殺していて、それでも普通に悩んで迷って、でもそれをおくびにも出さずに。私の事を見ていてくれていて、私に初めて輪郭と客観視をくれた、そんな人。

 私は彼に見て貰えた。だから私も彼を見る。いつでも彼を見失わない様に、彼自身が自分自身を見失いそうだから。でも、多分それは生徒会の皆もしているのかもしれない。私はみんなを見ている。だからわかる。

 でも、今彼と双方に見ているのは多分自分だけだ。

 雪乃はよくわからない。瑠璃はまだあっち側からだけだと思う。月夜と月乃は見て欲しさだけが勝っている。いろはは……少しだけ気にかけてるだけだと思う。結乃がわからない、今まで男子を嫌っていた彼女の心境が今どうなっているのか図れない。

 そう、生徒会全体が、この数ヶ月で少しずつ変わっている。私も、今日少しだけ。でもそれが嫌な感じはしない。

 理由はわからない。でもそう感じているなら、無理に押さえつける必要も無いだろうと思う。だって、まだ始まったばっかりだから。

「……帰るか、そろそろ日も落ちる」

「そうだね、帰ろっか」

「送る」

「……送り狼?」

「おく……?」

「なんでもない、一緒に帰ろっか」

「あ、あぁ」

 思わぬ墓穴を掘ってしまった、これからは気を付けよう。そう心に言い聞かせながら、私はバッグを肩にかける。ぎんじろーも同じように荷物を持ち、隣に立ち、そして歩き出した。

 バッグの中には、今日読む予定だった本が沈黙していた。何時もなら本が読めないと勿体無いと思うのだが、今日はそう感じなかった。本を読むよりも楽しいことが目の前に現れ、そして私にとって劇的な時間を過ごしたのだ。本は何時でも読めるけれど、彼とのこの繋がりは今しかできなかったかもしれない。そう思うと、今日は濃密な時間を過ごせた。楽しかった。私の中の不明瞭な感情は、やはり好意だった。捻りも無いけれど、そんなものだろうと一人で納得した。

 私は彼の横顔を、時折気付かれない様に見ながら日の沈む黄昏の空の下を、彼と歩いて行った。

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