七、術前の評価


 柳のような女は恵民署ヘミンソへ入院する事となった。

 個室の病床に案内した蝴蝶フーティエは蒸した手ぬぐいを広げる。


「では、身体を拭きますね」


 愛想のいい笑顔を浮かべた蝴蝶にすっかりと心を開いた女は、着ていたチョゴリの襟元をはだけさせ、清潔とは言えない肌を晒した。


(見目で栄養状態を評価しろ、ね…)


 先程、蝴蝶が花精ファジンに頼まれた事とは、柳のような女が今どのような栄養状態なのか、つまり、痩せており栄養をつけさせる必要があるか、それとも必要がないほどの状態かを見極めるように、との事だった。

 花精によれば、術前の栄養状態と予後には深い関係があり、栄養状態が悪いまま術式による治療をうければ、予後はあまり思わしくない事が考えられ、酷い場合には術式すら耐えられないという。


 蝴蝶は本当ならば、親しい人物に最近痩せたと言われていないか、以前に比べて疲れやすくなっていないか、着ていた服の大きさが自分に合わなくなったか、等の質問をすることで病にかかってからの大まかな変化を掴む事で、栄養状態を評価していたのだが、記憶を失っている女にはそういった質問が出来ない。


 それは花精も承知の事。なので、蝴蝶に柳のような女の身体を清潔にするために拭く時に、身体の状態をよく観察して欲しいと頼み、それは蝴蝶にしか出来ない事だった。


「ゆっくり座ってください、背中から拭きますね」


 見目だけで判断できる栄養状態、それを意識しながらも女の身体を丁寧に拭いてゆく。

 背中から拭きはじめ、はっきりと浮き出た肩甲骨も、汚れを見落とさないように拭く。

 次に後ろから腕を拭いていく。腕の周りの肉は薄く手が回りそうな程に細かった。

 指先まで隅々と入念に。爪は綺麗な形をしているが、手のひらは拭いても取れない擦り傷が沢山あった。

 蝴蝶は前に周り、首元から下に、下がるように拭いてゆく。窪みの深い鎖骨に溜まった汚れを取り、乳房の下もしっかりと拭いた。

 うっすらと並んでいるのが見える肋骨の流れに沿って、拭いてゆく。

 肌が黄色がかっていることも、どこかがぽっこりと膨れていることもなかった。

 そこから腰へと変える。はっきりとした骨盤を拭いたあと、そのまま下肢へと移動する。


「足、拭きますね」


 柳のような女の足元を隠していた布をゆっくりと退けて、足を露出させる。

 ぱっと見て棒のような足だと、蝴蝶は思った。肉付きによる曲線は曖昧で、骨に皮がなんとかついたように寂しいものだった。

 もちろんそんなことを口に出す事も、声に出す事もなく片足を上げて拭いてゆく。

 実際に触って拭いてみても、見た時の印象から変わらない。女性特有の柔らかさはあるものの、それは控えめである。

 よく見れば、その足の脛などには真新しい痣や、少し時が経って黄色くなった痣の跡がついていた。

 足の先まで丁寧に拭き、蝴蝶は新しい蒸した手ぬぐいを柳のような女に差し出した。


「新しいものを用意しましたので、恥部はどうぞこちらで拭いてください」


 柳のような女は少し顔を赤らめながら手に取った。


「頃合になれば当直の医女がその手ぬぐいを受け取りに来ますので、渡してください。今日はここでお眠りになって、また明日の朝から治療についてお話しますので、よろしくお願いします」


 花精が言っていたとおりの事を、伝える。

 柳のような女から「わかりました」という言葉が返ってきたのを聞いてから、蝴蝶は頭を下げて退室した。




「で、どうだった?」


 執務室の椅子に素の状態で腰掛け、蝴蝶の所見を伺う花精と、その後ろで静かに立つ园丁ヤンディン

 蝴蝶は始めに「はい」と答えると頭を下げたまま、自らの所見を述べ始めた。


「栄養状態として、良い、少し悪い、悪い、とても悪いの四段階のうち、悪いであると私は評価します」


 簡潔に評価の結果のみを述べる蝴蝶に「その理由は?」と花精は根拠も述べるように促す。


「全体的に、肉付きが悪く、二の腕の肉や太腿の付け根など殆どが、皮のみでした。また、肩甲骨や鎖骨、肋骨、骨盤が浮き出ていたためです」


 蝴蝶の言葉をすらすらと要所のみを診療録カルテに書き記す园丁。


「他に懸念すべき黄疸も無く、健康な肌の色をしていました。爪の形状も正常であり、匙状爪はみられませんでした。…ただ、栄養状態とは別に気になる点があります」


 蝴蝶は鮮明に思い出す。


「足には真新しいものから、少し古いものまで、痣がありました」


 蝴蝶のその言葉に、ふむ、と花精は鼻の頭を人差し指で撫でる。


「ではその痣が何故出来たと思う?」


 花精は少し考えた後にそう尋ねた。決して自身が分からないから、と蝴蝶に投げた訳ではなく、分かっているからこそ、蝴蝶にも考える機会を与えてるのであろう事が伺える。


「それは…こけたのだと思います。手のひらにも擦り傷がありました」


 蝴蝶の答えに、花精は少し眉を下げて微笑んだ。素の状態とはいえ、意地悪な笑みは浮かべておらず、医官として尊敬に値するような雰囲気を壊さず、唇の端を緩めたのだ。


「一度や二度こける事ならまだしも、あたらしいものから時間が経ったものまであったのだろう?健常人ならばそれほど頻繁にこけると思うか?」


 そういう体質なのだと言ってしまえば終わりだが、それは答えではない、と蝴蝶は必死に頭の中の回路シナプスに思考を走らせる。


 思い出せ。


 自身に強く命令する。柳のような女の特徴は?何を主訴に来院した?来た時の様子は?花精は何と診断した?


 全ての出来事を思い出し、一つに繋げた。


「あの女性は、立ち上がる際に平衡感覚を保てずよろけていました。彼女は記憶にないだけで、何度も同じようにこけ、怪我をしているのだと思います」


 蝴蝶の答えに納得のいった花精は穏やかな微笑みを浮かべると、立ち上がりながら話す。


「そうだ。平衡感覚を認知する場所にまで邪魔をしている血の塊は、随分前からあったという事がわかった」


 そして、蝴蝶の前に立ち止まる。


「栄養状態だけでなく、よく見てくれた。」


 花精の大きな手のひらは、蝴蝶の頭を優しく撫でた。




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